曇りなき眼で見定めブログ

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東浩紀『動物化するポストモダン』をネットリ読む 第1章「オタクたちの疑似日本」

 いろいろアニメ関係の書籍を読んでいるけど、東浩紀先生の『動物化するポストモダン』をまだ読んでいなかったので読んでます。

1章ずつネットリと読んでメモしていきます。

 第1章からよく解らなかった。参照されている作品は見てないものも多かったので見ないとなあ。2001年に出た本なので常識や基礎教養が変っている所もある。

 あと言っておくけど私は自分をオタクと認識していないのでオタクとしての経験に基いた批判はできない。

 1章は、オタク系文化で描かれる日本は偽物だ、という論らしい。細かく見ていく。

 まず最初の段落が現代の観点からは奇妙である。

「オタク」という言葉を知らない人はいないだろう。それはひとことで言えば、コミック、アニメ、ゲーム、パーソナル・コンピュータ、SF、特撮、フィギュアそのほか、たがいに深く結びついた一群のサブカルチャーに耽溺する人々の総称である。本書では、この一群のサブカルチャーを「オタク系文化」と呼んでいる。(8ページ)

アイドルはどうした!? と思った。あと電車は!? 本書はオタクの中でも狭い領域を扱っているという事になる。2001年と言ったらモーニング娘。の全盛期なのでアイドルオタクはかなりいた筈である。ここが奇妙である。また女性オタクは扱わないらしく、女性の方がむしろオタク文化を支えている感じもする現代から見るとそこも奇妙だった。それと、私自身はどうかなあと考えてみるに、アニメは好き、マンガもそこそこ好き、特撮とパソコンは興味あるけど詳しくない、ゲーム、SF、フィギュアは興味なし、であるから、まあ軽度オタクなのかも。

 「オタク系文化はJポップのような国民的広がりをもつ文化ではない」(8ページ)とも書いてあって「へ〜」となった。今じゃあアニメこそ文化の中心だが。でも大ヒットするアニメはオタク層を超えて拡がってるとも言えるかも。

 なんてなペースでは進まないので、この章の本題である「疑似日本」について。大塚英志先生や岡田斗司夫大先生や村上隆先生の、オタク文化は江戸文化っぽいという論を引いている。大塚先生や岡田大先生は「趣向」という見方について、村上先生は「奇想」について。しかしそれに付け加えるようにして東先生が述べている事が、この三氏に比べて格段に浅い気がしてならない。

 このような論客たちの議論を横に置いたとしても、オタク系作品がもつ日本的なイメージへの親和性はだれでも簡単に見て取ることができる。たとえば、八○年代の初めにカルト的な支持を集めていた高橋留美子のコミック『うる星やつら』は、民俗学的なアイテムとSFファンタジーが混淆した、独特の作品世界で知られている。鬼や雪女や弁財天をモチーフとした宇宙人=異人たちが、セクシュアルな衣装を纏っては次々と現れて事件を起こしていくというこのドタバタ・コメディは、オタクの幻想が日本的な意匠に囲まれてはじめて成立するものであることをよく表している。(17-18ページ)

前の三氏がオタクの特徴的な受容やオタク系作品の手法に着目していたのに対し、東先生は『うる星やつら』一作を例に(この後いろいろ例は追加されるが)、しかも「日本ぽいキャラクターが出てくる」というただそれだけでちょっと大きすぎることを言っているように思う。

 オタク系作品が日本的かと言われると異論がある。東先生はこの後も『うる星やつら』のさくら先生や『セーラームーン』の火野レイをはじめとした巫女キャラや未来ものSFに出てくる妙に日本的な街並などを根拠として出していく。しかしそんなのごく一部であろう。そもそも日本人が日本で作っているのだから日本的なモチーフが出てくるのは当り前で、問題はその当り前を超えるレベルで日本的意匠が使われているかどうかである。高橋留美子先生のその後の『らんま1/2』は中華的なモチーフが出てくる。『セーラームーン』は西洋的な占星術こそが世界観のベースにある。それと『機動戦士ガンダム』も『ドラゴンクエスト』も『新世紀エヴァンゲリオン』も、オタク系作品の代表格は割と西洋っぽいモチーフを使う(『宇宙戦艦ヤマト』は妙に日本的だが)。東先生が何故日本的モチーフをオタク系文化の特徴としたのか根拠が不明瞭である。

 続いてオタク系文化の源流はアメリカだというのが論じられている。先にいろいろ挙げられていたオタク系文化はどれもアメリカから伝わったものなのでこれはまあそうだろう。しかし日本はそれを日本的なものに発展させてきた。その発展には「ねじれ」があると東先生は言う。だが、これも何がそんなにねじれているというのか解らなかった。ようするにオタク文化は江戸文化の後継者だというのに対して、その間にはアメリカが入っているぞと言いたいようなのだが、別にそれはそうで、歴史がそうなのだからそういうもんだろうとしか思わなかった。

止め絵の美学にかぎらず、大塚が注目した二次創作の氾濫にしろ、『うる星やつら』の民俗学的世界にしろ、オタク系文化の「日本的」な特徴は、近代以前の日本と素朴に連続するのではなく、むしろ、そのような連続性を破壊させた戦後のアメリカニズム(消費社会の論理)から誕生したと考えたほうがよい。七○年代にコミケ(コミック・マーケット)をパロディマンガで満たした欲望は、江戸時代の粋というよりは、その一○年前にアメリカでポップアートを生み出した欲望に近いものだろうし、『うる星やつら』の作品世界もまた決して、民話の延長線上にあるのではなく、SFとファンタジーの想像力が屈折したところに日本的な意匠が入り込んできた、と捉えるのが自然だろう。オタク系文化の根底には、敗戦でいちど古き良き日本が滅びたあと、アメリカ産の材料でふたたび疑似的な日本を作り上げようとする複雑な欲望が潜んでいるわけだ。(23−24ページ)

歴史というのを単線的・図式的に捉えすぎではないだろうか? まるで日本という一人の人格がずっと一つの意識だけを維持して生き続けているかのようである。「欲望」という語は曖昧である。もっと具体的にポップアートなりの影響を論じて欲しい。アメリカでポップアートが流行ったら自動的に日本のオタク系文化で似た事が起こるのか? という安易さを感じる。「SFとファンタジーの想像力が屈折したところ」というのも具体性に乏しい。要するに高橋留美子先生はSFやファンタジーをやりたいけど普通にはやりたくないと考えたという事だろうか? だとしたら普通である。「止め絵の美学」については後述。

 もう少しこの点について。

 オタク系文化の日本への執着は、伝統のうえに成立したものではなく、むしろその伝統が消滅したあとに成立している。言い換えれば、オタク系文化の存在の背後には、敗戦という心的外傷、すなわち、私たちが伝統的なアイデンティティを決定的に失ってしまったという残酷な事実が隠れている、オタクたちの想像力を「おぞましいもの」として拒否する人々は、じつは無意識のうちにそのことに気がついている。(25ページ)

こういう議論は私には全く解らない。こういう大きな社会状況が無意識のうちに文化に影響するみたいな議論が正しいとは思えないのである。オタク系文化の担い手はこの本の当時でも殆どが戦後生れである。敗戦の心的外傷なんてあるのだろうか。オタク文化が「おぞましい」と感じられるのはもっと色使いとか声とかの性的要素なんかの気持ち悪さだろう。あとミリタリーとかの危険な匂いとか。経験してもいない敗戦が個人の感覚に影響するというのは全く科学的ではない。

 東先生はアレクサンドル・コジェーヴの「アメリカ化」「日本化」なる概念によってポストモダニズムオタク文化の親和性を論じている。ここまで読むと「はは〜ん」となる。ようするに自分の得意分野である現代思想と繋げるためにアニメが日本に屈折した形でアメリカの要素が入った(あるいはその逆)という事にしたかったのではないか。

 続いて細かいアニメ史的指摘を。大塚康生高畑勲宮崎駿をフライシャーやディズニーなどアメリカ的アニメーションの後継者、りんたろう安彦良和富野由悠季を日本的なリミテッド・アニメを作った人のように述べているが、これは違うと思う。高畑先生が最も影響を受けたアニメーションはフランスの『やぶにらみの暴君』で、駿はソヴィエトの『雪の女王』である。ディズニーやフライシャーの影響は余り強くない印象である。大塚&宮崎アニメの動きなんてリミテッドだし。対して後者の人たちの作った宇宙ものの方がハリウッドやアメリカドラマのスペース・オペラやスーパーヒーローものの影響が強いように思う。これは細かい点かもしれないが、やはり東先生が歴史を単線的・図式的に見ている証拠だと思う。みんな色んなものを見て色んな影響を受けて創作するものなのである。

 それと金田伊功について「金田が開発した特殊な演出リズムと画面構成(止め絵の美学)」と書いている(22ページ)がこれは出崎統と混同しているのではないか。金田氏はアニメーターだしめちゃくちゃ大胆に動かす。あと金田を日本的リミテッド・アニメの代表として挙げているが、実際のところ金田氏は宮崎アニメによく参加していて重宝されていたので、事態は複雑なのである。

 まとめると、東先生は、オタク系文化には日本的な意匠が特徴的に現れているがそれはアメリカを経由したものであり疑似的でねじれたものである、と論じている。しかし私は、日本の作品に日本的なものが出てくるのは当然でしかも別に日本的なものばかりではないし、戦後アメリカ文化の影響を受けるのも当然でしかしそのせいで日本文化がおかしくなったとも思えないし、それらが混ざっているのも普通だし、としか思えなかった。本書ではこれから何かその特殊さを論じる事に成功するのかどうか期待である。