曇りなき眼で見定めブログ

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東浩紀『動物化するポストモダン』をネットリ読む 第2章「データベース的動物」

 ↓これの続きじゃ!

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↓この本を読んでまっせ。東浩紀動物化するポストモダン』。

 第1章の疑似日本の話は第2章では全く出てこなかった。章ごとに独立しとるんですなこの本は。

 はじめに第2章の問題点を箇条書きしておく。

  • オタク(あるいはコギャル)の実態に関する実証的なデータが全く出てこないので「ホンマか?」となる。参照しているのも大澤真幸とか宮台真司とか斎藤環とか実証的とは言い難い学者ばかりである。
  • 定義を明確化して頂きたい。データベースとは何なのか二転三転する。
  • 「○年代」で区切り過ぎである。そんなにキレイに区切れる訳がない。

みたいな。

 データベースと動物という重要概念が出てくるのが第2章である。私の感想としては、データベースというのは定義を狭く取ればとても良くオタク系文化を表現していると思う。動物というのは私の知らない哲学史的用語らしく、これもなかなか面白い。

 まずデータベースについて。明確な定義がなく、また言葉が何層かに分れて使われているようなので整理しておく。これも箇条書きする。

  • 大きな物語」なる社会構造(の譬喩的表現)が崩壊した後に現れる。
  • 例えば小説では読者は「小さな物語」を読んでその背後にある「大きな物語(世界観や歴史)」を想像する、というのが大塚英志先生の論で、90年代のオタク系作品では、大きな物語がない。そこにあるのが「大きな非物語」でその構造がデータベース。
  • 大きな非物語はキャラクターの設定だけで出来ている。これに特化したファンの消費傾向をキャラ萌えという。
  • キャラクターの猫耳とかの要素も分解されてデータベース化されており、キャラクターの創作はそのデータの組合せでしかない。その組合せでしかない創作をシミュラークルという。

 解り難いのが、大きな物語というのが社会構造でもありフィクションの世界観の事でもあるという点である。東先生はこれらの崩壊が連動しているというのだが、全く説得的ではない。そんな訳ないだろとしか思えない。やるならもっと色んなデータを漁って構築すべき研究である。「○年代には〜で」みたいな主観的抽象論しかない。

 もう一つ解りづらいのが、データベースは作品ごとのものと作品を跨いだものとがある点である。創作はデータベースを作る事でもあるし、そこからシミュラークルを作る事でもあるし、もっと大きなデータベースからデータベースとしてのシミュラークルを作る事でもあるし、みたいな感じになる。

 ところで、オリジナルと二次創作の区別がつかないという事とか、二次創作によってオリジナルが出来ていくというような事態を名付けるなら、データベースより並列分散型とかの方が良いような気もする。

 それと「物語」という語の用法が微妙である。東先生は世界観設定のようなものを大きな物語、作品内で描かれる事実を小さな物語と読んでいるようなのだが、普通「物語」といったら筋の事だと思う。大きな物語のない作品として『新世紀エヴァンゲリオン』や京極夏彦森博嗣清涼院流水や「デ・ジ・キャラット」や様々なギャルゲーを挙げているのだが、『エヴァ』や京極や森や流水やギャルゲーは筋が結構しっかりしている。本書が出た直後にデビューした西尾維新などライトノベルの展開はむしろ物語の復権という感じがする。『エヴァ』に関しては世界観設定もかなり充実している。なのでこの論はおかしい。ギャルゲー論としては、大きな世界観設定がないというのはそうだと思う。ギャルゲーの物語もデータベース化されているというが、ここでいう物語は筋なのかが気になる所。またエロゲーに関しては本書よりやや後に出た「Fate」などかなり筋も世界観も充実している。「デ・ジ・キャラット」論としては、世界観設定も筋も予め存在していないというのはかなり良い指摘である。キャラ萌えしかない感じ。

 で、果してこのキャラ萌え現象はオタク系文化特有なのか、という点が気になる。西洋中世の絵画なんて図像を読み解くものだった。登場する人物や動物はだいたい決まった要素に沿って描かれていて、その趣向を読むのが鑑賞だったと考えられる(よく知らないけど)。1960年代の劇画なんかもだいたい同じような太眉のキャラクターの同じような筋のものばかりだったのではないか。パロディも大昔からある。東先生は『ガンダム』と90年代の作品を比べるばかりだが、もっと大きな文化史を参照すべきではなかろうか。

 それと、果してオタクたちが本当にキャラ萌えばかり重視していたのかどうか。「デ・ジ・キャラット」方式のキャラクターが先行するメディアミックスはその後「ラブライブ」とか「けものフレンズ」があった。どちらもアニメで人気が爆発した。「ラブライブ」はアニメの筋が良かったんだろうし「けもフレ」はアニメの世界観が良かったのだと思う。まあこれは2010年代なので状況が変ったという事か。

 ただし、どうも東先生はエロ同人はキャラクターのガワ(萌え要素)だけを取り出してセックスさせるものと思っているフシがあるが、これは当時からそうではなかったろう。二次創作の動機としてはキャラクターの物語が重要である。公式の物語を強く意識しているからこそifを描くのだろう。また、腐女子のBL二次創作が全く扱われていないのも結局なんでなのかよく判らない。女性はキャラクターの萌え要素よりキャラクター同士の関係(性)*1を重視する。それで妄想して二次創作する。これは男性向けエロでもそうかもしれない。こうした二次創作は『エヴァ』でも大量にあった筈だしエヴァと対置される『ガンダム』の頃にも既にあった筈なので、東先生はあまり二次創作に詳しくないのかもしれない。

 それとコギャル論は宮台先生を真に受け過ぎだと思う。

 という訳で、またもや否定的な感想が多くなってしまったのだけれど、データベース論というのはオタク系文化の一側面を上手く言い表していると思う。特に記述的「デ・ジ・キャラット」論としてなら申し分ない。

 で、動物に関しては私が『お兄ちゃんはおしまい!』のアニメを論じた際に書いた事と似ている。

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私は動物的な創作と消費はどんどん批判していくよ。もっと精神を求めて作ったり見たりしなさい!

*1:私は「関係性」という言葉を好かない。「関係」でええやろ。