曇りなき眼で見定めブログ

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ツンデレツンデレ言うのをやめませんかね…

 ツンデレという言葉は本来は、ツンツンしていた人がある時からデレデレしだすという、態度の豹変を表すものだったのではないかと思う。しかし現在よく使われる用法は、本当は好意を抱いているのにそれを表に出せずツンツンしてしまう、みたいな感じだと思う。本記事では後者の意味のツンデレについて述べたい。

 そういう意味でのツンデレキャラは現代では溢れている。いつ頃から溢れ出したのか分らないが、涼宮ハルヒとか三千院ナギとかああいうのが模倣されて類型化したんではないか。音無響子とか惣流アスカとかはまだちょっと違うような(こいつらは現代ではヤンデレに近いかも)。

 そしてツンデレは記号化されてしまった。キャラがツンデレと言われ出すのではなく、もう最初から「ツンデレキャラ作ったろ」という意図を持ってツンデレキャラが作られるようになっている。だからみんな同じようなセリフを言うし同じような振舞いをする。そしてそれを見るオタクどもも「ツンデレですな〜」と言って喜んでいる。ツンデレを作ろうとして作ってそれをツンデレとして享受していったい何がおもしろいのか!?

 と言うような事を考えたのは、いま高畑勲監督の『赤毛のアン』を見ているからである。アンの養母のマリラ・カスバートは今だったらツンデレと言われていたかもしれない。アンを本当は気に入っているようなのだが、それを言葉や態度に出す事がない。アンの話を聴いてちょっと口許を綻ばす程度である(いまのところ)。しかしそもそも心と態度はなかなか一致しないものである。高畑監督は、そういう人間の複雑さを描こうとした人である。それを読み解く楽しさが見る側にはある。ツンデレという性格はそうした複雑さを表現しようとして誕生したのだろうが、ツンデレという用語ができて広まってしまった結果、もうそういう作品づくりに挑戦する機運がなくなってしまったし、オタクどももそれを求める貪欲さがなくなっとりゃせんか。