曇りなき眼で見定めブログ

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「現代思想」の反出生主義特集を読むその5(最終回) 小手川正二郎、橋迫瑞穂、古怒田望人、逆卷しとね【統一教会あり】

 最終回!

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 今回取り上げる四つの論考はどれもジェンダーに関わっていていかにも現代思想っぽい感じである。反出生主義は当然、性の問題にも関わってくる。

小手川正二郎「反出生主義における現実の難しさからの逸れ」

 この小手川先生という人は本を少し見たことがあるが、なかなか真面目で、失礼ながら面白い方という印象である。この論考も著者の熱がかなり入っている。私はまったく同意できないが批判のしがいがあるおもしろい文章だった。

 ベネター先生の議論を(1)生まれてくることは常に害悪である。(2)生まれてくることは、人々が思っている以上に悪い。(3)子どもをつくることは悪い。の三つに分け、それぞれを(b)消極的義務の極端な解釈、(a)理論による直観の矯正、(c)子づくりをめぐる現実の難しさからの逸れ、という観点から批判している。どの批判も間違っていると私は思うので検討していく。

 (a)について。反出生主義の見解が反直観的に映るのは偏見の産物であるとベネター先生は言う。小手川先生はこれを批判する。ベネター先生の用いる奴隷制の例を小手川先生は以下のようにまとめる。

奴隷制が間違っている」という見解は、奴隷制が支配的な時代には「反直観的」だと考えられていたが、現在では自明なこととみなされている。それと同じように、反出生的見解が現在、どれほど「反直観的」だと思われても、それが間違っていることにはならない。(183ページ)

しかし小手川先生は、反出生主義がベネター先生のいうような中立的なものではないだろうと批判している。

 だが、子づくりにまつわる私たちの日常的直観は、そのすべてが「偏見の産物」なのだろうか。ベネターが依拠する奴隷制とのアナロジーは、重要な事実を見過ごしている。それは、「私たちは皆、自分の親によって生み出されてきた人間である」という事実である。奴隷制の場合、奴隷制がない場所や時代から、つまり奴隷制の外側に立って、奴隷制の不正や歪みを考えることができる。これに対して、「私たちは皆、自分の親によって生み出されてきた人間である」という事実は、その外側に立つことができないような、私たちの世界の見方の一部をなしている。それは偏見かどうかを私たちが判断しえない類のものなのだ。(183ページ)

一読して妙なのは「私たちは皆、自分の親によって生み出されてきた人間である」という事実があるからといって偏見かどうかを判断しえないとまでいえるのかということだが、もっとおかしな点がある。我々が奴隷制がダメと言えるのはいま奴隷制がない日本や南アフリカにいるからなのかというとそうではないはずである。事実、奴隷制奴隷制がある時代から悪いものとされはじめ、その結果徐々になくなっていった。なくなってから「悪いものだった」とされるようになったわけではあるまい。出生も同じように減っていくことは考えらる。その際、我々が皆親から生まれたということが決定的に判断を鈍らせるとは思えない。

 続いて(b)。小手川先生は、ベネター先生の見解は「他人に良いことをしなければならない」という積極的義務より「他人に悪いことをしてはならない」という消極的義務を優位に置いているとし、この点を批判する。

 まず、積極的義務に対する消極的義務の優位が、ベネターの言うような最小限の害悪ー「ちょっとしたピンで刺されたような痛み」ーについても妥当するのかは甚だ疑わしい。消極的義務が問題となるのは、日常生活で被ることが避けえない些細な害悪についてではなく、ある程度重大な害悪についてである。さらに、普通、最小限の害悪を与える代わりに他人によいことをしてあげること(例えば、車に轢かれそうな人を突き飛ばして救うこと)は、(命じられはしないが)許容されるし、時には推奨されもする。(184ページ)

これはベネター先生の非対称性の議論を誤解している。ベネター先生が言っているのは存在の害悪が良さを上回るということではなく、存在の良さなどあるとは言えないということだ。存在の良さは「ピンで刺されたような痛み」すらも上回れないのである。

 しかしそれ以上の問題がベネター先生の議論にはあるという。

当然ながら、子どもを生み出すことは、快苦を感じうる人を生み出すことであり、その人が将来経験することになる苦痛を与えることとは全く異なる。子どもを生み出すことは、子供が将来感じる苦痛の必要条件ではあるが、充分条件ではない。ベネターが好む奴隷制の例を用いるなら、黒人奴隷たちの苦痛は、彼らに酷い仕打ちをした白人たちによって「与えられた」のであり、彼らを生み出した親たちによって「与えられた」のではない。(184ページ)

 

…ベネターは「害悪を与える人々や社会状況」(白人や奴隷制)を改善しようとするのではなく、「害悪を被りうる存在」(黒人奴隷)を消去する世界に向かおうとしている。地球上から害悪が生じる可能性をすべて除去することはできない以上、苦痛などの害悪を感じうる存在がこの世から一掃される世界、つまり人類や苦痛を感じうる生命体が絶滅する世界のほうが望ましいと考えるからだ。(185ページ)

この黒人奴隷の例えが適切とは思えない。何故なら奴隷制は努力次第でなくせるし実際なくなっていくが、存在の害はそうはいかないからだ。死が害だとすればそれは避けられないし、死に向かう苦しみも避け難く思われる。また日常にも空腹や渇きの不快感は付き纏う。これらを完全に取り去る方法などあるだろうか。小手川先生はレヴィナスの用語を用いてベネター先生の見解の裏に「隠された『形而上学』」があると表現しているのだが、私の言葉の感覚ではむしろ「形而上学的には可能だが現実にはありえない」ことを排除した見解のように思える。

 (c)反出生主義は「子どもに害を与えない」という「利他的な動機」によるものだが、子どもを作ろうというときにはまだ子どもは存在しておらず、利他的な動機は誰に向けられたものかはわからないと批判する。しかし私にはこれは詭弁に思える。「子どもに害を与えない」を文字通り受け取って前々回の記事で取り上げたような可能的な人物を想定してもよいし、比喩的な言い回しと解釈してもよいだろう。これ以降の小手川先生の議論はやや情緒的な親目線からの子作りの意味の分析が続く。

実際、自分の子どもをもちたいという親たちの利己的な欲求が子どもの妊娠・出産・養育を通じて、子どもに幸せになってほしいという利他的な欲求へと向け直されていく点に、子どもを産み育てることに固有な価値の一つがあると考えられる。(187ページ)

というところなど、「固有な価値」というのは子どもにとっての害悪を避けることより尊いものなのだろうか。どうも子どもは作る前には存在しないとすることで子どもを作ること自体の良し悪しの子ども目線からの議論を避け、養育ばかりに注目してしまっているように見える。また、子作りと養育は切り離せないというのだが、子どもを作らないという判断が良いとなれば子育てはしないのだから切り離せるだろう。

 結びのところでは、反出生主義者が出生主義的価値観に苦しめられている人々を擁護したり慰めたりできないためベネターに批判的だと述べられている。

 子づくりの能力を欠いた男女に、「子づくりができないなら養子を育てればいいじゃない」と言い放つことは、配慮を欠くことになるだろう。国によって主導された優生政策によって生殖能力を奪われた障碍者に対して、「子どもをもつことができないほうがよいのだ」と言うことは、彼らの尊厳を傷つけることになるだろう。死産で子どもを失った母親に「この世でさらなる苦しみを経験したくてすんだのだから、子どもにとっては死産でよかった」と言うことは、おぞましい。(187ページ)

とあるのだが、これはどうだろう。この慰め方は子どもを持ちたいのにそれができないということ、つまり不全・不能であることをさも良かったかのように上から肯定しているため失礼に感じられるが、反出生主義者ならば子どもを持ちたいという欲のほうに再検討を迫るだろう。それは慰めではないだろうが、侮辱にもならない。そもそも哲学に慰めを期待しなくてもよいと思う。

 最後に追記としていろいろと書いてある。まず、

本論の依頼を受けた数日後の八月初旬に子どもが生まれた。そのため、私は子どもをもった(ばかりの)父親という立場から本論を書いていることになる。妻あやに意見を求め、彼女とのやり取りから数多くの示唆を得た。(188ページ)

私は著者のことと議論の中身は切り離して考えるべきだと思っているが、これを書いているということはこれを踏まえて読んでくれということと受け取って、この点についてコメントさせていただく(小手川先生もベネター先生の議論の背後に踏み込もうとするようなことを書いているしいいだろう)。私が思ったのは、小手川先生は子を持った自分を肯定するために「親になる」ということの価値を過大評価していないだろうか、ということだ子に対する親目線の押付けがましさのようなものを後半の議論からは感じた。こういうことを述べるのは「おぞましい」ことだろうか*1

 またこう書いてあるのには驚いた。

ベネターのような無視を決めこまない限りは、妊娠と出産に係らざるをえない本特集の執筆者の多くが、筆者も含め男性であったことを残念に思う。編者を批判するつもりは毛頭ないが、これもまた哲学や「現代思想」にはびこる症候なのだと言っておきたい。(188ページ)

「無視を決めこむ」とはどういう意味だろう。まさか、子どもを作らないという選択は妊娠と出産をすべきという現実から逃げている、などと言いたいわけではあるまい。それを「無視」と表現してしまったら子作りにまつわる哲学的な議論を無意味なものとしてしまう。だとすれば、子どもを作らないにしても周りの人の子作りや子育てと関わる機会があるはずなのにそれを無視している、ということだろうか。ベネター先生がそういう無視をしているのだろうか。 私は知らないしこの文面からはよくわからない。ここの小手川先生は筆が滑ってしまっていると思われる。女性の論者が増えるべきというのはまあそのほうが望ましいだろうと私も思う。

 というわけで、小手川先生の「自分」がふんだんに入った面白い哲学エッセイだとおもうのだが、私は全面的に疑問だった。

橋迫瑞穂「反出生主義と女性」

 フェミニズムである。私はどうもフェミニズムというものに疑問がある。女性の権利拡大とか地位向上というのはもちろん良いことだと思うが、いわゆる運動としての「フェミニズム」には懐疑的である。というようなことを人文学界で言うのはけっこう勇気がいる。それくらいこの界隈ではフェミニズムはマジョリティで強者になっていると思う。

 さて橋迫先生の本論。まず冒頭から以下のようなことが書かれている。ベネター先生の『生まれてこないほうが良かった』について

さらに本書では、「存在することの害悪」をつくりうる、「産む性」についてそれを否定する議論が展開されている。ただし、ベネターにおいてはこの「産む性」の役割について、十分な論点が提示されているとはいえない。さらに、社会との開きがあるとも指摘される。(189ページ)

と述べているのだが、さて「産む性」とはなんだろうか。おそらくフェニミズム用語で、「子どもを産む存在としての女性」という意味、あるいは「女性の特徴として子どもを産むという役割ないし性質」をクローズアップした表現であろう。こういう用語を定義もなくいきなり導入するのはどうかと思う。ベネター先生がこの用語を用いて論じているわけでもない(はず)。最後の「指摘される」というのも受動態で書かず誰がどこで指摘しているか明記してもらいたい。

 橋迫先生は(ベネターの)反出生主義には反対であるらしい。その根拠として前々回に出てきた加藤秀一先生の、もっと以前のロングフル・ライフ訴訟に関する論考を取り上げている。「私なんて生まれてこないほうが良かった」という考えについて、

加藤はそれを誰もが抱きうる自己否定だとしたうえで、論理的には成立不可能な考えだと指摘する。なぜなら、「生まれてこないほうが良かった」という考えは、すでに生まれた人だけが抱きうるものであり、「自分が生まれた場合に営まれる生の状況(すなわち現実)」と、「自分が生まれなかった場合の生」を比較することは、論理的に不可能だからである(出典)。加藤の指摘に従うと、反出生主義の考えもまたこの矛盾から逃れることはできないのではないだろうか。(190ページ)

とある。「論理的に」という言葉の解釈にもよるが、論理的に成立はしていると私は思う。古典論理に基づく矛盾はない。「論理的に」を「論理学の道具立てを用いて」という意味に解するのならば、可能世界を用いてもよい。また、加藤先生は前々回取り上げた論考では「生まれてこないほうが良かった」をレトリックだと論じていた。つまり正面から受け取るべきではないのだ。ここの論文を読んでいないのでわからないが、これは反出生主義への批判ではないのではなかろうか。ベネター先生の反出生主義も別に「生まれてこないほうが良かった」という感覚を根拠にしているわけではない。

 さて橋迫先生は青木やよひという人のエコ・フェミニズム的出生論を引いている。私はエコ・フェミニズムというのを調べたことがあるが、実体が乏しいものではないかと懐疑的に見ている。青木は未開社会を参照して「産む性」は「自然」であると述べているという。

青木はこうした「未開社会」における性のあり方を参考にして、われわれの社会における妊娠、出産をめぐる「産む性」の位置づけを検討すべきだと主張するのである。このように、青木は社会が問題を抱えているからこそ、「自然」に依拠して「産む性」を肯定すべきだという思想を展開する。これは、現実社会には問題が山積しているからこそ、子どもをつくることは否定すべきだというベネターの主張と対照的である。(192ページ)

とあるのだが、これは未開社会に戻れということなのだろうか。また、

…青木はより大きな意味で、「母性機能がマイナス要因とされない社会」の構築を目指している。青木によると、今日の環境破壊は、文化が「自然」と対立することによって生じている。その結果、特に文明の発達が激しいキリスト教文化圏において、「文明化=自然の抑圧=身体性の疎外=性の蔑視(=性差別)」(出典)が、女性を抑圧する形で起こっている。そのような女性に対する抑圧を克服するものこそ、エコロジーと「女性によるみずからの「産む性」」の結びつきに他ならない。(192ページ)

とあるのだが、ここのところは随分雑な図式化に思える。未開社会のようにセックスをして子どもを産めば環境破壊が止まるわけではあるまい。

 中絶の議論に関しても批判している。

 しかし、ベネターの議論は不妊や中絶の意味をドラスティックに変えるものではない。せいぜい異なる身体性を持つ、男性に特有の視点で、女性の身体性から「産む性」を取り出してフェティッシュに考察してみせているに過ぎない。つまりベネターの主張からは、「産む性」としての女性を文字通り「産む性」としてのみとらえる、反出生主義の中核的な思想が透けてみえるのである。反出生主義が時としてマチズモを露呈するのも、このような単純な誤謬によるものであると考えられる。(193ページ)

これはどうなのだろう。「男性に特有の視点で」というのは決めつけではないだろうか。「マチズモ」というが、後述するように反出生主義はネット上ではむしろフェミニズムと結び付けられている。むしろ出生を奨励する雰囲気(正確にはそれを含む楽観主義)の方がマッチョだとベネター先生は書いていたし、私もそう思う。また、女性を「産む性」としてのみ捉えるというが、逆のようにも思える。何故なら「産まない」ことを推奨するのが反出生主義なのだから。産むことを奨励する人の方がよっぽど女性を「産む性」としか見ていないのではないか。ただし、以下の指摘は肯ける。

 そして何より…指摘しておきたいのは、反出生主義が「産む性」、すなわち「母」の決断にかなりの比重を置いていることである。そして、「存在することの害悪」を「母」に帰属させてしまうにもかかわらず、中絶ということを軽々と言ってのけることを含めて、逆説的に反出生主義もまた、「母」なるものの呪縛から逃れられていない窮屈な議論であることが指摘される。(193ページ)

「母」なるものの呪縛」というのは意味がわからないが、ベネター先生が中絶の負担を軽視しているというのはその通りだと思う。ただし「母」に帰属させているわけではあるまい。男が膣内射精しなければよいということも反出生主義は含んでるはずなので。ただ注釈でパイプカットなどの男の避妊法が言及されないと指摘しているのは確かにそうだ。射精の快楽を捨てられない男の問題もあるだろう。

 さて橋迫先生の専門は宗教社会学で、終わりの方で日本のスピリチュアル市場のことが触れられている。「自然なお産」とか胎内記憶とか近年盛んになっている妊娠・出産に関わるスピリチュアルと反出生主義を結びつけて論じようとしているのだが、あまり確かな議論になっていないように感じる。しかしまあ「産む性」の否定である反出生主義の流行と極端な肯定であるそれらとが表裏一体だというのはありそうである。私としてはTwitterで「反出生フェミ」という言葉がよく見られるのが気になる。どうもフェミニストの女性が反出生主義に傾倒するというケースがよくあるようだ。これは自らの「産む性」を嫌悪する女性が少なからずいるということではなかろうか。この点について橋迫先生は調べてくれないかな〜と思う。

古怒田望人「トランスジェンダーの未来=ユートピア

 やたらとカギカッコが多い文章である。用語・術語をカギカッコで括ることで意味に含みを持たせるような書き方を多用しているのだが、それ故にちゃんと読み取れているのか不安になった。

 ブロッホ的な未来=ユートピアとは「到来せざるもの」という「失望」を伴う。しかし、だからこそ「抽象的ユートピア」の「おぼろげな現在」が「完了」していると夢想する「歴史」に抗する「時間」としての「歴史」、言い換えれば「いまだ存在しない」未来、「どこにもない場所」というユートピアへの「希望」は、この「おぼろげな現在」の楽観主義的夢想への批判的視座をもち「変化を想像する行為」、「未来への跳躍」へと繋がるのだ。(206ページ)

この段落などわけがわからなかった。

 石原慎太郎杉田水脈の、生殖や「生産性」への拘りに基づくLGBT差別発言が引かれる。また性同一性障害特例法というトランスジェンダーの性別変更に関する法律でも生殖の能力や子どもの有無が関わってくる。何故生殖や子どもがやたらと重視されるのか、エーデルマンという人の本に基づいて論じられる。しかしどうも抽象的である。子どもは未来の象徴であるとか。

 当ブログは全く時事を扱わないけどそれだと読み返した時に趣がないように思えるので触れておきたいと変心したのだが、先日安倍晋三が銃で撃たれて殺された。犯人の動機がいわゆる統一教会に家庭を破壊されたことによる恨みによるものだったと報じられ、以後統一教会の実態が次々と明るみになっている(というかしっかりと注目されるようになった。私はあまり知らなかった)。与党や保守系の議員の妙に古臭い家族観は統一教会の教義の影響である可能性もある。もともとそういう家族観があったために統一教会に共鳴してしまったという逆パターンの人もいようが。とにかく、このあたりの解明は現代日本にとって特に重要になってくるかもしれないし、抽象論だけではダメでリアルな政治や宗教の裏の実態も知りたいところ。

 さて、エーデルマンはクィアというのは子どもを作らないから規制の秩序を擾乱させうると論じているようだ。しかし古怒田先生は子どもを作るトランスジェンダー男性の例を挙げる。ここからトランスジェンダーの「未来」を論じていく。

 全体としてはトランスジェンダーを常識とは異なる角度から捉えたおもしろい論考だと思うのだが、しかしこれが反出生主義特集に置かれた意味はなんだろうと考えてしまう。子どもを産むことをポジティヴに論じてそれで終っているように思える。それを検証するのが本特集の意味ではないのか。どうも多用されるカギカッコに加えてここにも著者の含みというか隠された意図があるようで、気味が悪かった。

逆卷しとね「未来による搾取に抗し、今ここを育むあやとりを学ぶ」

 この論考はハッキリ言ってダメだった。終始意味がわからない。橋迫先生以上に、意味のわからない語が意味のわからないまま使われ、論旨も明確でない。一応ダナ・ハラウェイという人に依拠して反出生主義を批判する論考である。

 クトゥルー新世ってなんなのか。まともな定義もない。人新世というのが流行っているが、それに乗っかって更にホラー文学の用語(綴りはちょっと違うけど)も盛り込んだコケ脅しではないのか。「あやとり」がクトゥルー新世の形象だというのだが、だったらなんなのか。「kinを響かせる」ってなんなのか。意味がわからない。

 意味のありそうな箇所としては、ベネター先生の反出生主義を「同一線上で整理された時間感覚に依拠し、今ここにある苦しみの対処を未来へ先送りするという思考法」と言って批判するところくらいであろうか(215ページ)。しかし反出生主義はそんなに大層なものではないと思う。これは要するに親を批判せず子を作らないことへ向うのは何故だという指摘のようなのだが、親を殴ったって仕方がないし親は大事にしたいし、できることは子どもを作らないだけとかその程度のものだろう。

まとめ

 けっこう熱くなってしまった。

特集全体のまとめ

 全体としてはいろいろな視点から反出生主義を論じていて面白かったと思う。基本的に賛同しかねる論考ばかりだったが、きちんとした批判を考えることで私自身の反出生主義理解は深まった。ありがとう「現代思想」!

 ただ、ベネター先生の非対称性の議論を正しく理解していないような論考は多かった。日本よりも南アフリカの方が哲学のレベルは高そうである。

 ところでそもそも「現代思想」という雑誌は毎月バラエティに富みすぎである。編集者はちゃんと特集するテーマを理解しているのだろうか。

*1:皮肉みたいなことを言ってごめんなさい。