雑誌「現代思想」の反出生主義特集にコメントしていくシリーズ第2回!
前回はこちら
cut-elimination.hatenablog.com
今回取り上げるのは反出生主義の第一人者ベネター先生の論文とベネター『生まれてこないほうが良かった』を訳した小島先生の論考と『生まれてこないほうが良かった』のメッツ先生による書評。
デイヴィッド・ベネター「考え得るすべての害悪」小島和男訳
ベネター先生が『生まれてこないほうが良かった』への批判やコメントに反論・回答した論文。ぶっちゃけ批判者たちの原論文を読んでいないので(メッツ先生の批判はあとで掲載さていて当記事でも触れる)あんまりよくわからなかった。のでそんなにコメントはない。
ただし後半でベネター先生の説は死亡促進主義に繋がるのではないかという批判への反論があって、これは興味深かった。実はTwitterでいろいろな反出生主義言説を検索していても「反出生主義者ってなんで自殺しないの?」というのはよく見られる。Twitterで言ってる人は深く考えていないだろうが、主張としてはこういうのに対する反論である(死亡促進主義は自殺だけでなくさらに殺人も促進するものであろうが)。しかしベネター先生はそれほど積極的な反論は提示していない。批判者は、ベネターはエピクロス派の考え方(死は害悪ではない)への反論に成功していないという。そしてそのために死亡促進主義が導かれるという。ベネター先生の反論は、そもそもエピクロス派は受け入れられていないしそれほど真面目に反論するようなものではない、というものである。存在害悪論とエピクロス派が合わさるとそこから死亡促進主義が導かれるとしても、存在害悪論が死亡促進主義を含意しているとは限らないので。
私がした主張は極めて限定的なものだ。すなわち「存在してしまうことが害であるという見解は、私が存在し続けることよりも良いということや、またなおのこと自殺は(常に)望ましいということを意味していない」という主張だ。(68ページ)
とのこと。また、恐ろしいことは人生の後半に起こるのでいまは自殺しないとか、自分の人生を継続するに値しなくなるほどではないとか、そういうことも考えられるという。
とりあえず反出生主義と死亡促進主義は別のものなので、Twitterで見られるような「自殺すれば?」論はまあそもそも乱暴であろう。エピクロス派の考えなどを導入したもう少しちゃんとした議論も確かなものとは言い難いと思う。
小島和男「反-出生奨励主義と生の価値への不可知論」
これはなかなかおもしろい論考であった。小島先生は分析哲学がご専門ではなく、ベネター先生の複雑で難解な論文とはだいぶ毛色が違ってシンプルかつ大胆かつ実践的な議論であった。
反出生主義が正しいのか否か、結論はなかなか出ない。またもしベネターの主張が正しいとしても反出生主義が受け入れられることはないだろう。なので不可知論を採用し、どちらでもないとしておこうという論である。その帰結として反出生主義ほど強くない反-出生奨励主義が導かれる。つまり子どもを作ることは悪ではないが事実としてあり、奨励はしない、と。これば反出生主義よりは受け入れやすいだろう。
なかなか大胆な主張であると思う。哲学のあり方をメタ的に問い直している。小島先生はギリシア哲学の専門家であり、ソクラテス(プラトン)の言葉が引かれたりする。そうした哲学の原点からの現代分析哲学への批判である。この主張が正しいのかどうか私にはなかなか判断がつきかねるが、今後も勉強するに際して不可知論ということは意識しておきたい。
一点コメントすべきことがある。私の専門(一応)である論理学の観点から。
… 「生が良いのか悪いのか分からない」という言明は、「生は悪い」という言明よりも意味の範囲が広い。「生は良いもしくは良くはない」かつ「生は悪いもしくは悪くはない」を意味している。二つとも完全なトートロジーであり、真理であると言える。(89ページ)
とある。「生は良いもしくは良くはない」と「生は悪いもしくは悪くはない」がトートロジーであるというのはその通りと思うが、「生が良いのか悪いのか分からない」の形式化としてこれらの連言を採用するのはあまり良くないと思う(そういうやり方もなくはないとは思うが)。様相論理の一種である知識論理のように、「〜と知っている」を意味する演算子を導入した論理もある。これを使うと「生が良いのか悪いのか分からない」はトートロジーとはならないのである。
サディアス・メッツ「生まれてこないほうが良いのか?」山口尚訳
『生まれてこないほうが良かった』に対する批判的書評である。けっこうクリティカルな批判であるように私には思えた。非対称性の議論、QOLの議論に出てくる「永遠の相の下」云々、また全体の論理構成それぞれに対して批判が展開されている。ベネター先生は先述の論文でこれに反論しているのだが、ほとんどが非対称性批判への反論に費やされている。この反論は私には上手くいっているように思えた*1が、では永遠の相と全体の構成に対する批判はどうか。
メッツ先生は「ベネターの議論のうちで最も脆弱なーとはいえ最も興味深いー部分は客観的リスト説を論じるところに現れる」と書いている(108ページ)。私もそう思う。リストは人間の観点から作られているが宇宙的観点からは大したものではない、という議論についてである。メッツ先生はいろいろと批判をしているのだが、ここはもうちょっと考えるべきところであると思う。なんというかまだまだ熟していない。
また、全体の論理的構成について、メッツ先生によれば、「生まれてこないほうが良かった」というのは福利の次元に属するもので反出生主義という道徳の次元へ行くには橋渡しが必要となる。これは確かにそうだと思う。メッツ先生はこう書く。
…ベネターがいくつかの箇所で次の事態を認めていることも事実である。すなわち、つくり出されるひとに生じる害悪が十分に小さいときには、その他のひとへのより大きな害悪を予防するためにその小さい害悪を生み出すことは道徳的に正当化されうる、あるいはこれはその他のひとへより大きな利益を与えるためであってもそうである、と。そもそも、たいへん貧しい他者を助けるために、力も嘘もつかわず正当に富を得たひとへ税を課すことは許容されうる、というのは今日ほとんどすべてのひとが認めていることである。そしてここではまさに、他者(貧しいひと)の生活の質を高めるために、あるひと(富めるひと)の生活の質を下げる、ということが行われているのである。(98ページ)
これはなるほどである。こういうわけなのでメッツ先生は、反出生主義を導くのに誕生が単に害悪であるだけでなく大きな害悪であることも示す必要があるという。ベネター先生は非対称性による存在害悪論とQOLによる存在がとても大きな害悪であるという論とを分けているが、これらはどちらも必要となる。そしてQOL論証の中で出てくる永遠の相の議論を人生の意味の哲学などを援用して批判する。存在が悪いからと言って意味がないわけではない、など。ベネター先生のこれに対して反論できていないように思えた。
しかし私の見た感じでは、引用で出てくる税の例は十分ではない。税と違い子どもを作ることは子どもへの同意を伴わないなどの問題があるので。しかしいずれにせよベネター先生の議論では福利と道徳の区別は十分でないということは確かに思われ、反出生主義を導くには同意不在の議論やQOLの議論なんかが不可欠のように思えてきた。今のところ反出生主義はベネター先生ひとりの存在感が大きいが、こうやって徐々にきめ細やかな反出生主義として彫琢*2されていくのだろう。とか言ってる間にもどんどん子どもは生れていくのだが。
まとめ
前回の段階ではあんまり良い特集ではないというテンションだったのだが、今回取り上げた三つの記事はどれも良かった。