曇りなき眼で見定めブログ

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「現代思想」の反出生主義特集を読む その1 森岡正博×戸谷洋志、小泉義之、木澤佐登志

 森岡先生はエゴサしてそうで怖い…

 

 雑誌「現代思想」の反出生主義特集号をちょっとずつ読んでコメントしていきます。

 今回は最初の記事3つだけ。

森岡正博×戸谷洋志「生きることの意味を問う哲学」

 反出生主義とベネターの議論を日本に広めた(ただしご自身は反反出生主義者である)森岡先生と、ハンス・ヨナスの経験から反出生主義に関心を持った戸谷先生の対談。前半はベネターの話が多く後半はいろいろなことに話題が拡がっていく。

 気になるのはお二人ともベネターの議論の中身よりもベネターの人物そのものに興味があるのかなという点である。特に森岡先生はこんなことを述べている。

ただ私がベネターについて結局よくわからないのは、生まれてこなければ良かったという主張を、彼がどこまで彼自身にとっての実存的な問題として主張しているのかということです。反出生主義に対する批判への彼の応答を聞いていると、やはりどこか分析哲学の知的なゲームとして捉えている面があるような気もします。(11ページ)

森岡先生も戸谷先生も「知的なゲーム」「論理的なパズル」「思考パズル」という言葉をネガティヴなニュアンスで使って論じている。しかし私は別にそれで良いと思う。問題を思考パズルに落し込むことこそが哲学の強みではなかろうか。というか哲学にできることなんてせいぜいそれくらいのものだと思う。森岡先生が反出生主義に興味を持ったのはご自身の悲しい過去がきっかけとのことだが、だからといって森岡先生が優れた反出生主義の論客になるわけではない(「タフ」じゃあるまいし)。また、実存的に捉えていようといまいと反出生主義者がやることは子どもを作らないことくらいなので別に問題はないように思う。実存的に捉えたうえで子どもを作らないから立派、ということもないだろう。ベネター先生は多分子どもはいないですよね? 知らないのだけれど。

 というわけで、前半は哲学というよりゴシップ的な興味が強い対談であった。戸谷先生のおっしゃるようなユダヤ系の思想家に出生主義が多いのではという話も私にはゴシップ的なものとしか思えなかった。後半はというとお二人が今後の展望なんかを語っていてあまり具体性がない。哲学徒には得るもののない記事かもしれない。思想史的には重要かもしれないが*1

 雑誌の後のほうで寄稿しておられる西條玲奈先生がトゥイッターで以下のように反応していた。

私は「ぶしつけ」とまでは思わなかったが(単に詮索しても意味がないというだけで)、まあ私と似たようなご指摘である。これに対する森岡先生の反応が以下

反論になっていないように思える。森岡先生の意図はなんだろう。

小泉義之「天気の大人 二一世紀初めにおける終末論的論調について」

 この小泉先生という方は郡司ペギオ幸夫先生のよくわからない本によくわからない褒め方をしていたことがあって信用ならんと私は思っている。

 一応読んだのだが、この記事が巻頭対談の次に来るということは「現代思想」の読者のニーズがあると思われているのかなあと悲しい気持ちになるものだった。「天気の大人」というタイトルは「天気の子」のパロディである。この号が出た頃は「天気の子」が流行っていたので。う〜ん。そして本論ではいきなりアベンジャーズの話から始まる。う〜ん。タイトルといいアベンジャーズといいなんというかスベっているような…。まあまあまあ。

 私はアベンジャーズを全然知らないのだが、サノスというのが悪役で生命体の絶滅を目論んでいてアイアンマンやアベンジャーズがそれを防ぐべく戦うらしい。で、ベネターが『生まれてこなければ良かった』第6章で「段階的絶滅」を提唱するのをサノスとアベンジャーズ双方に配慮したかのような「日和見」だと小泉先生はいう。今まで極論を述べてきたのに段階的と言い出すのはどうなのか、ということらしい。

 さらに、

ベネターは、こう言い訳をしている。「私の擁護する見解への抵抗は強いでしょうから、この本や中身の議論が、現実の子作りに対して何らかの影響を及ぼすことは期待していません。多大な害悪を引き起こすにもかかわらず、子作りは今後も阻止はされないでしょう」。理屈をご覧あれ、楽しんでいただけたでしょうか、でも、現実は理屈通りにならんので、あとは諦観。それが昨今の「学」である。(22ページ)

と続ける。ベネター本の前書きから引用している。またもやベネター本人への非難である。後半では気候変動と活動家のグレタさんを持ち出しているのだが(小泉先生はグレタさんのことを「天気の子」と呼んで日和見的な人びとを「天気の大人」と呼んでいる)(そういえばこの頃はグレタさんも流行っていた)、どうもベネター先生がグレタさんのようにならないことが小泉先生は不満らしい。しかし先述の通り私は哲学にそんな大層な力はないと思う。まして哲学者はヒーローでもヴィランでもないんだからアベンジャーズを持ち出されたとて、である。

 一つ指摘しなけらばならない。小泉先生は段階的絶滅の提唱と「現実の子作りに対して何らかの影響を及ぼすことは期待していません」という言葉とを日和見として同列に扱っているが、前者は議論の中身で後者はベネター先生の感想である。これらは違う。仮にベネター先生がグレタさんのような活動家になったとしても、別に段階的絶滅という主張は変らないと思う。

 2022年のいま、コロナ禍とか陰謀論とかロシア=ウクライナ戦争とか終末論的な傾向はより深まっているので、この記事で書かれていることもまだまだ日和見的だったなあ、とも思った。

木澤佐登志「生に抗って生きること 断章と覚書」

 木澤先生という人はロシア宇宙主義についておかしなことを書いていたことがあるのであまり信用していない。このことについてはいずれ書く機会があれば。。。

 さて今度は「断章と覚書」ときた。読めばわかるが明らかに未完成の論考である。体言止めのような形の完結していないような文がちらほらある(そういうレトリックかもしれないがだとしたら尚更感心しない)。どうした「現代思想」!

 木澤先生という方は博識というか衒学家で美文家のようである。まあ私のような歴史の勉強をサボってきた人間にはなかなか勉強になることが書かれているのも事実である。

 優生学貨幣論(?)を中心に据えて、そこから反出生主義にちょっとだけ触れている。シオランが引用されていてベネターの話はなかった。議論の過程をまとめるとこんな感じである。

  • 世の中には生産性というものに対する根強い信仰がある。
  • 優生学はその現れである。生産性のない人間は存在しないべき。
  • 貨幣の起源は負債の記録である。
  • 人間は生れながらに負債を負っていて、それを返すために生産する、という考え方が根底にある。
  • そのようにして国や共同体はできている。

さて、貨幣論と人生負債論がどのように繋がるのかというと、こんなことが書かれていた。

 原初的負債論に従うならば、貨幣の起源には人間本性に備わっている存在論的な表象作用としての〈原負債〉の観念があり、それは同時に主権的諸権力の発生と宗教的ないし社会的共同体の起源に結びついている、ということになる。(36ページ)

よくわからない。存在論的な表象作用ってなんだろうか。表象作用に存在論的なものがあるのだろうか。存在論的ってそもそもなんだろう。人間本性にそんなものがあるというのもここで唐突に出てくるのだが俄かに信じがたい。おそらく「貨幣の起源は負債だ」「貨幣は人間の本質を反映している」よって「人間の共同体は負債を基礎としている」というような議論だろう。しかし貨幣論と人間や共同体の議論を繋ぐ架け橋がこのような一文で済まされてしまっているが、そうはいかないだろう。ここのところは勢いで書かれてしまっている感じがする。故に貨幣論や貨幣の蘊蓄を持ち出した意味があまり感じられない。まあ覚書だから仕方ないか。

 反出生主義はこうした負債をあらかじめゼロにすることで生に抗う思想だ、というのが木澤先生の考えのようである。反出生主義について述べられている箇所があまりに少ないので読解に自信は持てないが。しかしトゥイッターなどで観測される反出生主義はそういうものではないように思う(シオランはそうなのかもしれないが)。生産性への嫌悪感というより辛い経験への悔しさみたいなののほうが多いのではないか。

まとめ

 というわけで冒頭の三つの記事はあんまり良くなかった。「現代思想」読者はこういうのを呼んで勉強した気になるのだろうか。まあ後のほうの佐藤岳詩先生の論考なんかははじめのほうに置くにはいかつすぎるか。

 このシリーズ記事はまだ始まったばかりなので乞うご期待。

*1:哲学と思想史は違うのか、とか言い出すとややこしいかもしれませんが…