曇りなき眼で見定めブログ

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【キー・ワードは非対称性】ネット上の反出生主義言説を読む(東浩紀、川上未映子、永井均)

 反出生主義シリーズ。↓ベネターの基本書を読んで得た知見をもとにいろいろ書いていくぞ!

cut-elimination.hatenablog.com

 インターネッツ上で反出生主義に関する言説をいろいろと見たので物申していくのが今回のテーマ。

トゥイッター上の@反出生主義者たち

 Twitterで反出生主義を検索してみると驚くほどたくさんヒットする。名前の後ろに「@反出生主義」と付けている人なんかもいる。もちろん否定的に言及する人も多い。見た感じの印象ではベネター先生の本をしっかりと読んでいる人は少なそうである。反出生主義という思想がどういうものでどういう動機や根拠を持つものとTwitter上で捉えられているか、パターンとしてはこんな感じか

  • なんらかの辛い体験から生れてこないほうが良かったと考えるようになった人の思想
  • そういった経験から自分は産むまいと考えている人の思想
  • この世はヒドい世の中だから子どもを作るべきではないという思想
  • (なかなか差別的だが)障害のある人やトラウマ的な経験がある人はそれらを再生産しないために子どもを作るべきではないと考える思想

 この思想に至った、あるいは知った筋道は人それぞれだろうからいろんな意見がある。ただ哲学的な中身のある議論はTwitter上ではまあ見られない。しかしこれは当然で、むしろ哲学的に中身のある論争をスタートさせたベネター先生が偉いのだろう。

 でまあとにかく非対称性というのを理解している人はTwitter上には少なそうだった。しかし実はこれはプロの哲学者?思想家?でもそうであるというのがここからのお話。

東浩紀

 東浩紀大先生*1がゲンロンのウェブサイトで会員の方からの反出生主義に関する質問に答えていた。これを読んでみる。

www.genron-alpha.com

 「東さんは自身の子どもが生まれるに際して、反出生主義的な言説(子どもが幸福になれるか分からないのに子どもをこの世界に生み出すことへの躊躇い)をいかにして退けましたか?」というような質問である。それと「親は子どもの幸福という倫理的責任をどこまで引き受け、どこまで開き直るべきなのか」というのと。これに対してあずまんはまず

ぼくの娘が生まれたのは2005年です。当時は反出生主義という言葉はありませんでした。しかしそういう戸惑いはだれでもあり、むろんぼくにもありました。それでも娘ができたのは、べつにその問題を哲学的に乗り越えたからというのではなく「なんとなく」としか答えようがない。

と答える。なるほど。しかしこの後で

そもそも子どもって欲しいからできるというものでもない。欲しいと思ってもできないことはあるし、逆に欲しくないと思ってもできることはある。

と述べているのはおかしいのではないか。だって欲しくないと思っていたら避妊(や中絶(はちょっと負担があるかもしれないが))をすればよいのだから。欲しくないと思っていてできるということは現代日本の成人ならばものすごく可能性の低いことだと思う。性知識のない子どものセックスとかレイプによる妊娠とかを想定しているのだろうか。だとしたらまあそうか。

 さて、その先。

また、子どもを幸せにしたいと努力したからといって、必ずしも子どもが幸せになるわけでもない。いくら努力しても子どもが不幸になることはあるし、逆に放置していても子どもが幸せになることもある。

なるほど、確かにそうだ。しかし子どもを作るべきかという反出生主義の議論からもう一つの子どもの幸福に対する親の責任という問題のほうへ上手くレトリックですり替えられてしまったようにも感じる。

親は「なんとなく」子どもをつくるしかない。だって、その結果なにが起きるかは、変数が多すぎてほとんどなにも予測できないのだから。子どもが生まれたあとなにが起きるかも、そもそもどんな子が生まれるかも、否、それ以前に生まれるかどうかもわからない。それでもつくるしかない。

雲行きが怪しい。「子どもを作るべきか」というような話が反出生主義なのに「つくるしかない」とか言い出しておられる。特に根拠はない。

親は子を幸せにしたいと願うかもしれない。しかし子はそれとは「無関係に」幸せになったり不幸になったりし、しかもそれを親が原因だと思う。そしてまあ、おまえが原因だといわれれば、たしかに親なんだから責めは一身に負うしかない。その関係こそが、ぼくが親と子の、あるいはより一般に加害者と被害者の「非対称性」と呼んでいるものです。親になるということは、その非対称性を受け入れることです。子どもをつくるとはそういうことです。

子どもを作るとはそういうことかもしれないが、それが良いのか悪いのかということは棚上げされてしまっているではないか。また、この「非対称性」というのはベネター先生のとは違うのでややこしい。あずまんはベネター本を読んでいないのかもしれない。まあ特に関心もなさそうなので読んでいなくても不思議ではないし別に悪くはないよ。

 で、

あちこちでいっているように、ぼくは最近は親=加害者側から哲学を組み立てることに関心があります。「親」という言葉に反応して誤解も広がっていますが、それはべつに、みな子どもをつくるべきとかいった単純な主張ではない(というか、そんな主張をぼくがするわけがないと思うのだけど)。そうではなく、加害を恐れるなという主張です。人間は、子どもを作ろうと作らなかろうと、一定時間生きていればかならず親=加害者側に立たされることがある。それを恐れていてはなにもできない。そもそも生きることができない。哲学はその原点に立ち戻るべきだと、「政治的正しさ」に満ちたリベラルの言論界を見てつねづね考えています。そんなぼくからすれば、反出生主義は典型的な子=被害者側の哲学なわけですね。──と、まあ、哲学的な回答はそんな感じですが、

ここがあずまんの議論の核心と思われるので長めに引用したが、正直なにを言っているのかよくわからなかった。これがあずまんの「哲学」らしいのだが哲学というよりなんだか人生訓のようだ。

 最後のほうは(良くない言い方をすると)「老害」っぽさが炸裂してしまっていてなんだか悲しい。

プロフィールをみると質問者の方は20代で男性。ぼくもむかし「20代の男性」だったのでなんとなくわかるのですが、その時期の男性、というといまやジェンダー的に問題かもしれないので「妊娠できない生殖器をもつ性自認が男性のひと」といったほうが正確かもしれませんが、とにかくそういうひとは、なんといっても妊娠するのは他者の身体なのでやたらと観念的に家族とか子どもとか考えがちで、きっとこの質問もそういう悩みのはてに投稿されているのだと思います(誤解かもしれませんが)。

誤解だったらどうするのか。あと私はこういう哲学的な問いに対して背後の人生観なんかを持ち出すのはフェアでないと思っている。どういう人のどんな問いも普遍的なものと捉えて普遍的な答えを出すのが学問ではないのか。ただ実はあずまんは哲学を学問ではないと捉えている節もあるので難しいところだが。

 最後の最後

しかし、じっさいに子どもができればわかりますが、現実はいささかも哲学的ではなく、まったく解釈の余地のない膨大な量の雑事がじゃんじゃかじゃんじゃか襲ってくるだけのたいへん唯物論的な経験です。子どもをつくり育てる可能性を検討するのであれば、じっさいに考えるべきは、反出生主義の乗り越えとかではなく、職場の近さとか家の広さとか保育園の当選確率とか親のサポートとか車の運転免許とか、あと金とか金とか金とかでしょう。

やはり変である。反出生主義の乗り越えというのは子どもを作るべきか否かという話なのに何故か子どもができた後の心配のことを言っている。

 なんじゃらほい。東先生はたぶん反出生主義について調べたり考えたりしたことはそんなにないのだと思う。だったらそう書けばいいのにな〜と思った。しかしそれだと娘さんが可哀想かもしれず、ここが反出生主義の論争をやるうえでの難しさだ。

川上未映子×永井均

 作家の川上未映子先生の小説『夏物語』が反出生主義をテーマにしたものらしい。これはそのうち読むこととする。この作品を巡る川上先生とその師匠であるらしい永井均先生との対談がウェッブにあったので読んでみた。作品の内容に踏み込むところは読んでいないので触れないこととする。

web.kawade.co.jp

 対談は「反出生主義は可能か~シオラン、ベネター、善百合子」と題されていてベネターの名前が出てくる。ベネターについての部分を読んでみる。ちなみに善百合子というのが小説に登場する反出生主義者の名前らしい。シオランについては私はまだ不勉強でよくわかっていない。対談の後には永井先生の論考「善百合子の主張」も掲載されていてこれも読んだ。

 冒頭でこんなことが言われている。

川上 … 反出生主義について説明をすると、大きく2つに分けられると思うんですね。まず、「生まれてきたくなかった」という気持ちを軸に、「産むべきじゃない」と主張するのが一つ。人間は愚かで、こんなことを繰り返している世界に産んでもしょうがないじゃないかと。あるいは、経済的に自分たちが生きていくだけで精一杯なんだから、子どもなんか育てられないという、資本などの条件が絡んだチャイルドフリー的な考え方。

 もうひとつは、そういった形而下的なことに軸をおかず、「産む」ということ自体が倫理的ではないのではないか、というゼロ次元的な反出生主義。

これは前半で触れたTwitter上の言説をよく表していると思う。「ゼロ次元的」というのの意味はよくわからないが。

 対談で私が気になったところを取り上げる。

川上 … 中でも、「生まれてくることは害悪である」とし、初めてそれを分析しようとしたのがベネターで、それに比べると、シオランショーペンハウアーなど文学者の言う反出生主義の手触りってふわっとしていますよね。

永井 そうですね。要するに自分が生まれたくなかったということですね。簡単に言えば、人生が嫌だ、と。

川上 そうそう。「人生はこんなにも素晴らしい!」というのと同じですよね。いっぽうベネターは、功利主義的な立場から踏み込んで、ロジックを組み立てています。私たちは生まれてきて幸せなことがある、でも不幸や苦痛もあるということを軸に論を展開していきます。たとえば、十人いるうちの九人の子どもが幸せに生きたとしても、確率的に言うとその中の一人が苦痛に満ちた人生を送る。全員が全員幸せであることはないし、自分に災いが起きなくても誰かに災いが起きたときに、それに対して心を痛めるといった悲しみや苦しみが常に人生にある以上、やはり人は生まれてくるべきではないのだという論を展開しています。

これはちょっと怪しい。何が怪しいのかというのはこのあとの永井先生の話でよくわかる。

永井 まずはこの表を見てください。ここにベネターと善百合子に共通する思想が示されています。「幸福(快楽)」と「不幸(苦痛)」については、漠然と理解してください。「幸福(快楽)」というのは、なんとなく快適なこと、気持ちのよこと、幸せなことで、「不幸(苦痛)」はその逆の、なんとなく嫌なこと、苦痛なこと、というふうに。ともあれ人生にはこういう対比があって、人はみな「不幸(苦痛)」の側を避けて「幸福(快楽)」の側を得ようとしている。これが功利主義という考え方の基本前提です。「産む(存在させる)」と「産まない(存在させない)」のほうは、そういう曖昧さはありませんが、善百合子が出している、十人の眠っている子どもを目ざめさせるという比喩で表せるような意味で考えてもいいし、「善百合子の主張」にも書いたように、一人の子どもを産む場合で考えて、その子がどういう経験するか、を考えてもいい、そういう問題の広がりはあります。

 この二つを照らし合わせてみると、「幸福な人生を生み出す」ことはもちろんよいことなので○。「不幸な人生を生み出す」のはよくないので×。「幸福な人生を生み出さない」ことは、とくによくはないけど、そんなに悪いわけではないので△。「不幸な人生を生み出さない」ことは、そうすべきことなので、○。

 このような考え方を、ネガティブ・ユーティリタリアニズム(消極的功利主義)と言うのですが、この考え方をベネターはとっています。善百合子も理論的バックボーンとしてはこれを使っている。これはこれ自体で色々な問題があるのですが、反出生主義の議論ではこれが独特の仕方で使われるわけです。

怪しいどころか間違っている。その前にまず、「この表」と言っているのは私が前回のブログでも書いた非対称性を表す4つの状態を表にしたものである(前回のブログと対談のリンクを見てね)。また「このような考え方を、ネガティブ・ユーティリタリアニズム(消極的功利主義)と言うのですが」と言っているが「このような考え方」というのは幸福の総量を最大化するのではなく不幸の総量を最小化することを最優先とする功利主義のことである。

 ベネターの反出生主義は消極的功利主義を採用しているわけではない。本の中でそれに触れて支持している箇所もあるのだが、非対称性の議論の核心はそこではない。おそらく永井先生は『生れてこなければ良かった(Better Never to Have Been)』を読んでいないのではないかと思う。

 確かに消極的功利主義を採用すれば反出生主義が導かれそうだ。人生にちょっとでも不幸があるということは誰にとってもそうだし、生れなければ/産まなければそのような不幸をゼロにできる。しかしそうすると不幸はちょっとだけであとは概ね幸福であるような人生を否定する際に論拠として弱いように思う。何故そういう人生はいけないのか? という問いに「消極的功利主義なので」という答えでは不十分だろう。ベネター先生の非対称性の議論はそういった人生も悪いものであると主張するほど強いことを言っている。すなわち表でいう左下の△は左上の○と比べて悪くないという主張なのである。こうすれば存在することは不幸の総量など考えるまでもなく、ちょっとでも不幸のある人生は悪い。ちょっとでも不幸が生じた時点であらゆる面で表の下側が上側を上回るからだ。人生に不幸はつきものなのでよって人生は常に悪い。永井先生は「「幸福な人生を生み出さない」ことは、とくによくはないけど、そんなに悪いわけではないので△」と述べているが、ベネターが言うのは「そんなに悪いわけではない」とかそういう功利計算上の悪くなさではない。実際にどう考えても悪くない、のである。

 対談では「賭け」という言葉が頻出する。つまり産んでしまったら表でいう○になるかもしれないし×になるかもしれないということだ。しかしベネターの議論では賭けになるまでもなく産むことは悪いことである。この対談はあんまりベネターの議論が踏まえられていないちょっと悲しいものであったなあと思った。

 後半は妙に観念的な話になるので割愛。神とか宇宙とか。作家にとってはそういう話のほうがおもしろいのだろう。

とかいいつつも

 ベネター本の書評記事でも書いたが、私はネガティヴなのでどうしても反出生主義に共感してしまう。東浩紀大先生はいろいろ大変そうだがなんだかんだ人生楽しそうだし、川上未映子先生など自分のことが大好きそうだ。やはりこういう人たちとは相容れないものがあるのだろうか…。まあ川上先生はその割に(とか言ったら失礼だが)よく考えてらっしゃると思うが。

*1:大先生とか書くと皮肉みたいですが最早この人は大先生としか呼びようのない存在になっているように思われます。