曇りなき眼で見定めブログ

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「二次創作の哲学と倫理」構築のための調査記録その1・著作権に入門する

 私はアニメやマンガが好きだが、二次創作というのがおおむね好きではない。しかしだからといってこの世から二次創作文化が無くなれと思っているわけではない。まず、あくまで「おおむね」であって、良いと思う二次創作作品もそれなりにある。またそもそも、例えば嫌いな食べ物なんてたくさんあるが、別にそういう食べ物が好きな人がいてもなんとも思わないので、そう考えると問題はない。ただ自分の嫌いなもののせいで好きなものの生産が減ったりしたら悲しいだろうなとは思う*1。果して二次創作はそういったことを引き起こすだろうか。

 現代のオタク文化の大きな部分を二次創作の生産と消費が占めている。これは間違いないだろう。しかし一般論として、二次創作という文化を嫌う人もある程度いると思う*2。先述のとおり私は、まあそこまで嫌ってはいないが、好きではない。この自分自身の感覚を出発点として、二次創作の倫理を調べて考えたいのよ。つまりこれは今後の(主に)日本の文化のあり方を考えるという壮大なテーマであるが、自分自身が好きになれない文化とどう向き合っていくかという個人的な問題でもある。またその際、そもそも二次創作とはどういう現象かという哲学的(?)な問いにも踏み込みたい。

 さて、現時点でもいろいろ書きたいことはあるが、少しずついく。まずは著作権という法的な観点を調べたのでそれについて書く。といっても以下の新書を一冊読んだだけである。

著者の福井健策先生は著作権を専門とする弁護士で、一般向けの執筆や講演を多く行っている方である。これを参考にいろいろメモする。以下この本を「福井本」と呼称する。カッコ内に参照したページを書く。

基本

著作権法の基本

 著作権法の条文を見ておく。

第一条 この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする。

福井本ではこの条文は第3章4節で引用され解説されている。ここには著作権法立法趣旨が書かれていて、それは「文化の発展に寄与すること」、すなわち文化振興であるという。またこれとは別に自然権*3として自分の創作したものを人に真似されないようにできるという説もあるようだ(110ページ)。

 続いて著作物

第二条一 著作物 思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。

これは福井本では最初のほうで出てくる。「文芸、学術、美術又は音楽」と書いてあるが、著作権法にはコンピュータ・プログラムも著作物として出てくるので、けっこう範囲は広い。またさらに重要なのは「思想又は感情を創作的に表現したもの」であるという点だろう。これは、事実を述べただけのものは著作物ではない、ということの根拠になる。

著作権とは

 さて、福井本で述べられる著作権のポイントを自分なりに書くと、こうなる(福井本でも同じようなのが出てくるが、ちょっと言葉を改めている)。

というわけなので、著作物の範囲と権利の範囲が重要となる。

二次創作へ 

 福井本ではいろいろな事例が扱われているのだが、なかでも二次創作を考えるうえで重要そうなポイントを抜き出しておく。

翻案と二次的著作物

 著作権にもいろいろな下位区分がある。なかでも、勝手に著作物を翻案されない権利が翻案権である。翻案というのは、なんらかの著作物を改変して新たに著作物を作ることである。アレンジが加わっているので複製ではない。例えば小説を映画化したものなんかも翻案にあたる。二次創作がもし違法だとしたら、この翻案権に関わってくるだろう。

 翻案によってできた著作物は二次的著作物という。対してもとの作品は原著作物という。二次創作の作品も裁判なんかでは二次的著作物と呼ばれる。

キャラクター

 意外なのは、キャラクターは著作物として認められないというのが通説らしいということである。

 まず、名前は著作物にはならない。なので他人が作ったキャラクターの名前は使ってもよい。これは、名前程度では二条一にあるような「創作的」な「表現」とは言えないということらしい(しかし創作や表現の定義ももちろん難しい)。同様に、性格や基本設定を借りたとしても、それらも著作物ではないから大丈夫だという(48ページ)。これには反論したいが、まあそのうちちゃんと書こう。

 この議論は小説のキャラクターには当てはまるが、マンガのキャラクターで絵を伴う場合、この絵は美術であるから著作物となる。しかしあくまで絵の話で、キャラクターという単位が著作物として認められる可能性はどうも薄いようだ。

引用とパロディ

 他人の著作物を許可なく利用できるケースもある。それが引用である。

第三十二条 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。

私は福井健策氏の本を研究を目的として引用している。引用の基準は著作権法にはないが最高裁の判決がある。曰く、①明瞭区別性と②主従関係である(174ページ)。明瞭区別性というのは引用した側とされる側がちゃんと区別できるということで、主従関係は引用が中心になってはいけないということである。

 また微妙なケースとしてパロディがある。パロディは引用のようでもあるが、明瞭区別性に欠けそうである。パロディとはなにかという規定は決まったものがない。そういうのをかいくぐるのがパロディという面もある。上手なパロディをした作品はおもしろい。これは確かであろう。文化振興という立法趣旨を考えると、パロディを過剰に規制すべきではない。しかし他人の創作に乗っかる人ばかりになっても文化は衰退しそうなので難しい。

 福井先生は、パロディをする人が著作権とどう向き合っているかという分類をするなかで、二次創作にも触れている。

 ③著作権上の問題があることは多少なりとも知っており、承知の上でパロディをおこなっている。

 

 ネット上での匿名のパロディや、コミケコミックマーケット)などの二次創作を筆頭に、このタイプは非常に多いでしょう。特に、紹介したような批評的な(狭い意味の)パロディより、原作愛に基づくファン活動の延長のような「二次創作」が多いのが、日本型のパロディの特徴と言えそうです。そこでは、やり過ぎでなければ大目に見るといった、オリジナル側と二次創作側の絶妙の間合いによる生態系が存在しているように思います。

 こうした「あうんの呼吸」は日本文化の大きな強みではありますが、同時に、壊れやすいもろさといった課題もあるのが、日本型の二次創作だと言えるかもしれません。(156−157ページ)

私は二次創作とパロディはまったく別物だと思うが、起源としては近いかもしれない。しかし福井本では他に二次創作文化を扱っている箇所はなく、そもそもパロディの文脈でしか出せないほど二次創作の扱いは難しいのかもしれない。

今回のまとめ

 福井本には作者のインセンティブとかフリーライドの弊害とかも書いてある。いずれにせよ、二次創作文化が文化振興にとってどのような利益と不利益をもたらすか考えるのが、著作権という法的な観点で見るときのポイントだろう。

*1:これはインセンティブとかフリーライドとかいうのの問題である

*2:ちょくちょく"炎上"が起きているのもその証拠かと。

*3:私は一応それなりに近代哲学史の教養があるのでわかりまっせ