曇りなき眼で見定めブログ

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"いじり"の笑いと"誰も傷つけない"笑いに関するメモ

 お笑いも差別とかイジメの助長とかに気をつけるようになってきているらしい。けっこうなことである。思うところもあるので、以下にメモっとく。

いじり

 身体的特徴とかミスとかを笑い物にするのは"いじり"という。これはイジメを助長するのでよくないという意見がある。まあその通りだと思う。よく論点になるのは"いじり"と"イジメ"の境界である。プロの芸人はその境界をわかっているから大丈夫とか、いじられる側の人もそういうショーとして了承しているから大丈夫というのが肯定的な意見としてよくある。対して、そんなものはわからないし、プロの芸人がそうやっていても見ている人は真似するかもしれないという否定的意見もある。

 私がここに付け加えたいのは、"いじり"の笑いというのは、自分より劣った人間を笑い物にする快楽というより、あえて相手の嫌がりそうなことを言ったりやったりしてそれを許し合うという行為では、ということである。なので例えば、立場が上の人が下の人を一方的にいじるとなるとこれはマズい。しかし、相手の軽い悪意を認めてあげる、あるいは相手にそれを認めてもらうということは、より深い関係を築くためにありえなくもないコミュニケーションだと思うので、完全に否定することもできないのではないか。でもやはりその境界は難しい。

誰も傷つけない笑い

 このフレーズはいつ頃からかよく聞くようになった。サンドウイッチマンの人気が発端だったかもしれない。とんねるずのような過激なお笑いが減っていったこととも関連するだろう。しかし注意すべきなのは、このフレーズにはどうやら二通りの用法があるという点である。

 そもそもは漫才のツッコミで相手を叩いたり、またリアクション芸のような、暴力(というのは大袈裟かもしれないが)を含んだお笑いを否定する言葉として「誰も傷つけない」と言われ出したような気がする。つまりここでいう「誰も」は「共演者を誰も」なのである。この段階では「人を」傷つけない笑いだったかもしれない。ところが2019年のM-1グランプリでミルクボーイやぺこぱといった"いじり"や毒の薄い*1お笑いが脚光浴びたことで、「誰も傷つけない」のもうひとつの用法が優勢になったように思われる。すなわち、「見ている人を(あるいは見ていない人をも)誰も」傷つけない、ということである。

 二つ目の用法はかなり危険だと私は思う。というかオードリーのオールナイトニッポンで若林さんがそのようなことを仰っていた。「誰も」なんてそれこそ誰も判断できない。自分の狭い了見で「誰も」などと言ってしまうことこそ暴力的なように感じられる。そもそもこの言葉が出てきた当初は一つ目の用法だったんじゃないかと思うので、一つ目と二つ目のすり替えや混同に注意すべきだと思う。

*1:ミルクボーイの漫才はかなり毒があると思いますけどね。