曇りなき眼で見定めブログ

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「上岡龍太郎のパラドクス」は何がどうパラドクスなのか?

 タイトルはさも「上岡龍太郎のパラドクス」なるものが存在しているかのように書いているが、これは私が提唱しているだけでまったく市民権を得ていない。というかこうやって一般に公表するのはこれが初めてである。

 上岡龍太郎(1942〜)は、2000年に惜しまれつつ芸能界を引退した元芸人である。「探偵ナイトスクープ」や「パペポTV」など数々の伝説的な番組に出演し(ナイトスクープはのちに西田敏行に交代していまは松本人志)、関西吉本の重鎮的な人だった。私は関西出身ではないし物心ついた頃には引退していたので、大人になってからYouTubeの違法アップロードで知るようになった。その芸風はフリートークが主体で、品格と知性を感じさせる話術が特徴である。時にはテレビや社会のあり方へ鋭い批評もする。しかしそれが本当に知性に基いたものなのか話術でごまかしているだけなのかよくわからず、しかもそれを芸として狙ってやっているふうなのがかっこいい。

 さて、その上岡さんだが、特に有名なのが超常現象やオカルトの類が大嫌いということで、オカルト肯定派と上岡さんが激論を交わす特番がしばしば放送されていたらしい。そんななかで以下のようなやりとりがあったという。

 ある占い師が出演していて、未来がわかるというようなことを言う。すると上岡さんは「じゃあ僕がいまからあなたを殴るかどうか占ってみてください」と言った。対して占い師は「殴らないと思います」と返す。すかさず上岡さんは占い師をぶん殴った。

 この番組のこのやりとりは動画を探しても見つからず、事実かどうかはわからない。上岡さん自身がこの件について語っているのを見たことがあるが、どうも細部は違っているようだ*1。しかし上岡さんのオカルト嫌いと怖さ、そして話術の巧みさを物語るエピソードとして広く流布している。

 さて、ここで問題が生ずる。占い師は「殴らないと思う」と答えた結果として殴られたが、「殴ると思う」と答えたらどうなっていただろう。おそらく上岡さんは殴らなかったんじゃないかと思う。「殴らないと思う」と答えたら殴られ、「殴ると思う」と答えたら殴らなれない。つまり、占い師はどう答えても占いがはずれるようになっているのだ*2。私はこれは非常に奇妙な現象だと思う。この奇妙な現象を私は「上岡龍太郎のパラドクス」と読んでいるのである。

嘘つきのパラドクス

 これは嘘つきのパラドクスという有名なパラドクスと似ている。嘘つきのパラドクスとは以下のようなものである。

 ある人が「私は嘘つきです」と言った。この発言が本当だとするとこの人は嘘つきだということになる。しかしだとすると本当のことは言わないはずなので矛盾が生じる。ということはこの発言は嘘だということになる。すると今度はこの人は本当のことを言うことになり、発言が嘘だということと矛盾する。

 このパラドクスは「嘘」とか「本当」ということをカッチリと文字通りに捉えすぎている。これらをもっと厳密に定義すると真の問題が浮かび上がってくる。論理学者のアルフレッド・タルスキがそういった研究をし、真理の形式的な定義というものを提案した。しかしそこでも嘘つきのパラドクスは依然として難問であり、これが論理や真理の理論にとって本質的な困難であることが一層浮き彫りになった。

 上岡パラドクスがこれと似ているのは、占い師が真偽の判定に近いことを行っているためである。しかし異なる点もある。まず、上記のような嘘つきのパラドクスは自己言及的であるが、上岡パラドクスは二人の間のやりとりであるという点。しかしこれはたいした違いではない。嘘つきのパラドクスには二人のやりとりで発生するバージョンもある。もうひとつの違いは、これが真理と違って時間とともに、あるいは相手の反応次第で変るという点である。

 さて、では上岡パラドクスの何がパラドクスなのか?

パラドクスとは何か

 何がパラドクスかを考えるにはまずパラドクスとは何かということを整理しておかねばなるまい。哲学においてパラドクスはだいたい以下のような意味で使われる(なんとなくで使っている人も多いだろうし完全なコンセンサスが得られているわけではないが)。すなわち、「前提や過程は正しいのに間違った結論(あるいは矛盾など、おかしな結論)が得られるような論証」のことである*3。嘘つきのパラドクスには「文は真か偽かどちらかに決まる」とか「『〇〇は嘘つきだ』という表現も普通に文のなかで使える」とか「その〇〇にそれを含んだ文自身を入れてもいい」とか隠れた前提がある。これらの前提がおかしいということができたなら、パラドクスは解決する。

上岡パラドクスは何がどうパラドクスなのか

 パラドクスは論証の一種なのだから、上岡パラドクスというからにはこれはなんらかの論証になっていなければならない。例えば以下のようなものだろうか。

(前提)上岡さんは占い師を殴るか殴らないかどちらかである。

(推論)殴らないと仮定すると上岡さんは殴り、矛盾。しかし殴ると仮定すると上岡さんは殴らないのでやはり矛盾。

(結論)矛盾

これは嘘つきのパラドクスの論証を模倣したものだが、これだと推論仮定にいくつかおかしな点がある。まず、占い師が出てこない。占い師が隠れた真偽の判定装置みたいになってしまっているが、占い師の反応こそこの話の肝なのだからそうはできない。また「殴らない」というのは普遍的な仮定ではなく占い師が口に出した予想で、殴るのは普遍的な帰結ではなく上岡さんの反応である。

 私は上岡パラドクスはこれとはまた別のパラドクスであると思う。

(前提)完璧な占い師、すなわち完全に未来を予知できるシステムがありうるかどうかは、物理学の研究の進歩によって結論づけられるはずだ。

(推論)上のような論証。これは占い師がどんなに優れていても覆しようがないように思われる。

(帰結)お笑い芸人の屁理屈によって、完璧な占い師の存在が否定された。これは前提と矛盾する。

 つまり何がおかしいのかというと、理屈のみで未来予知が否定されている、という点である。これは未来が予知できるかどうかは物理学の課題だという前提に反する。

 実は上岡パラドクスはタイムパラドクスに近いのかもしれない。親殺しのパラドクスというのがあるが、あれがパラドクスである理由もこれと同じだと思う。つまり、単なる論理的な困難がそのまま物理法則への制約に見えるというパラドクスである。

 もちろん、予知が可能かどうかは物理学が解決する問題だという前提が間違っている可能性はある。とすれば結論はなにもおかしくなくなる。例えばこれは決定論因果論という哲学っぽい問題と関連してくるので、論理的な困難から否定的に解決されるとしてもいいのかもしれない。また上の論証のどこかに穴があるのかもしれない。しかしアキレスと亀のように解決された(とされている)パラドクスも依然としてパラドクスと呼ばれるので、これがいずれ解決されるとしても「上岡龍太郎のパラドクス」と呼ぶのは変ではないと思う。

*1:詳しくは次の注を見てください。

*2:調べてみると「いろもん」という番組でこの件について語っているのが見つかる。実際は上岡さんは「素手で殴るか灰皿で殴るか」と訊き、占い師が「そういうことをする人じゃないと思います」と答えたので「そういうことをする人じゃ!」と言って殴ったらしい。上岡さん曰く、これはよく聞けば救いは与えているとのこと。つまり、素手か灰皿かどちらかを答えていれば「そんなことしませんよ」と言って殴らなかったのだと思う。しかし占い師はそれを見抜けなかったので殴られたのだ。これは本論で取り上げている噂として広まった簡略版よりも高度な駆け引きだと私は思う。以下の動画の7分10秒あたりから。特に核心部分は8分35秒あたり。


www.youtube.com

*3:以下の本に収録されている都留竜馬「嘘つきのパラドクス」という論考を参考にしています。

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