不完全性定理やチューリングマシンの停止性の議論を使って人間の心は機械以上のものであると主張する人がちょくちょくいる。有名なのが大数学者・物理学者のロジャー・ペンローズ大先生である。モギケン先生もこう言っている。
チューリングマシンに万能性がある以上、形式的には何でもできるはずだが、ゲーデルの不完全性定理を援用しての、(真の)知性には意識、そして理解が必要だというペンローズ博士の議論にも説得力がある。意識と知性の関係についてはまだまだ議論すべきことがある。
— 茂木健一郎 (@kenichiromogi) 2022年8月21日
しかしこの種の議論はロジシャンからは概ね評判が悪い。ちょっとだけ調べてみた。ペンローズの『皇帝の新しい心』『心の影』は読んでいない。
この本で飯田隆先生がいろいろ書いている。
ネーゲルとニューマンの有名なゲーデル入門書に既に不完全性定理が人間が機械以上のものであるというような議論が書かれていたらしい。そういうのをパトナムが整理して批判した。ところがルーカスという人がそれをまた主張し、その後ペンローズが現れ、パトナムが呆れて批判を繰り返したらしい。
人間は機械以上だという議論の骨組み(パトナムによる再構成)はこうである。人間の証明能力と同等の能力を持ったチューリングマシンを作る。しかし第一不完全性定理によれば、この機械に証明できないが我々には真だと分る命題がある。よって我々は機械以上のものである。
これに対する批判はこうである。第一不完全性定理が示しているのは「真だが証明できない命題が存在する」ではなく「体系が無矛盾だとすれば真だが証明できない命題が存在する」である。「無矛盾ならば真だが証明できない」の方はべつに機械でも示すことができるのである。そして、我々がその命題を真だと知るためには体系の無矛盾性を示す必要があるが、これは困難であろうし、(ここからは飯田先生のには書いていなかったが)人間の知性と同等のシステムならばその無矛盾性を人間が示すのは第二不完全性定理によって不可能であるように思える。
フランセーンの本でも同様の議論でルーカスを批判している。
ペンローズへの批判はもう少し複雑であった。そしてよく分らなかった。
ペンローズの議論についてなのだが、「谷村ノート」で科学哲学や心の哲学を批判した物理学者の谷村先生が講演で取り上げていた。
しかしよく分らなかった。谷村先生の説明が端折りすぎなのだろうか。チューリングマシンの停止性はチューリングマシンで決定不能であるが、人間の心は考えを停止できる、よって人間は機械以上のものである、というようなことをペンローズは述べていると谷村先生は述べている。議論が繋がっていない。チューリングマシンの停止性問題とは停止するかどうかを一般的に決定できないということで、個々のチューリングマシンは停止するかどうか分ることもあるだろう。停止させることが出来るからと言って人間がチューリングマシン以上の計算能力を持つ訳ではあるまい。では自分の心の停止性を一般にその心が決定できるかというと、やはり自己言及パラドクスのような状況が発生して無理なんかじゃないかと思う。
じゃあということは人間は機械なのだろうか? この不完全性定理やチューリングマシンを使った論法がダメそうというだけで、この問題に結論が出た訳ではない。ゲーデル当人は人間の知性は機械以上のものだと考えていた節があるという。また調べます。ゲーデルの哲学思想もなかなか面白そうである。
あとホフスタッター先生のGEBはまだ読んでる途中。