曇りなき眼で見定めブログ

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ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ弐拾八・第10章4節〜11章(復習編)学園パロディとキャラクターの存在論

 こちらの復習編。そして最終回。

作品の奥に存在するキャラクター

 最近は学園パロディを公式でやることが多いので二次創作と言いにくくなっている。しかも原作者が自ら描いたりもする。ということを念頭に『鬼滅の刃』の公式学パロの「キメツ学園」を題材にする。

 まず、

 

  竈門炭治郎は鬼殺隊の一員である。

 

はもちろん『鬼滅の刃』という作品に関して虚構的に真である。また、

 

  竈門炭治郎は高校生である。

 

は「キメツ学園」について成立している。そして本書において、作品をまたいでオデュッセウスユリシーズに言及する例のように、

 

  鬼殺隊の一員だった竈門炭治郎が高校生をやっている。

 

というのが『鬼滅の刃』と「キメツ学園」との非公式のごっこ遊びとして言及できる。

 これらに私が付け加えたいのが、

 

  竈門炭治郎は『鬼滅の刃』本編では鬼殺隊の一員だが学園パロディ「キメツ学園」では高校生である。

 

というような文である。これはキャラクターは個々の作品の奥に存在していることを示しているように思われるのである。そしてごっこ遊び説の指示論とも両立しているはず。

 私は、キャラクターの存在論は美学の範疇を超えて議論されるべきだと思う。キャラクターというのは藝術作品の性質だけでは説明できないのではなかろうかと。

 

VTuber論まとめ

 本書では表象体という語を導入したが後半ではあんまり使われなくなっている気がする(全集中というのも後半ではあんまり出てこなくなる。これはわざわざ宣言しなくてもできるようになるからだけどね)。一般的な「作品」というのに沿った議論が増える。

 しかしVTuberは作品という単位を持たない。これぞごっこ遊びですね。そしてVTuberは明らかに存在しているように思う。であるにもかかわらず明らかに虚構的な文化であろう。