メイク・ビリーブを題材とした雑談の記録。最終章であるよ。
他の回はこちらから。
10章後半では「非公式のごっこ遊び」というなかなか応用が効きそうな概念が出てくる。最終11章ではごっこ遊び的な存在に関する興味深い考察がなされる。私は前回の議論をちょっと修正するか撤回するかしたいかもしれない。
非公式のごっこ遊び
公認のごっこ遊び
まず「公認のごっこ遊び」というのが出てきていた。その定義は「その中で小道具として用いられることが作品の機能であるような遊び」というものである(401ページ)。作品にとってオーソドックスな観賞はこれである。
非公式のごっこ遊びの積極的意義
非公式のごっこ遊びというのは公認されていないごっこ遊びのことなのだが、ウォルトンはもっと積極的な意義を持たせている。いろいろ例を挙げている。おもしろいのは
野蛮人が聖母マリアを大槌で襲った。
これはマリアの像を壊すことが虚構においてはこうなる、という例である。もっとおもしろいのが
ロビンソン・クルーソーはガリヴァーよりも臨機応変の才があった。
というように作品を跨いだ論評のような言明である。
こうした非公式のごっこ遊びという考え方を用いることで虚構や架空の存在に関する言明を自然に解釈できるというのがウォルトンの方針である。
二次創作について考えよう
たびたび二次創作について論じてきた本シリーズだが、二次創作というのは非公式のごっこ遊びではなかろうかとも思える。けど違うかもしれない。
まずまちがいなく公認のごっこ遊びではなかろう。では、二次創作はもとの作品を道具として用いるごっこ遊びなのかどうか。そうではあろうが、非公式のごっこ遊びの例とは違う面も多い。
例えば殺伐としたマンガのキャラクターがほのぼのとした学園生活を送っている二次創作作品があるとする。「主人公A*1は平和な学園生活を送る学生だ」という言明は、二次創作作品に関して虚構的に成り立つ言明、あるいはそう言うことが虚構的に成り立つが、元の作品についての言明でもあるように思える。本作品と二次創作とのこうした依存関係のようなものはキャラクターによって結びついていると私は思う。まだあまり考えがまとまっていない。
論理形式
架空の存在を指示するように見える文の論理形式について詳細に論じられているが、難しくてよくわからなかった! 私の専門的にはこういうのこそわかっているべきなのであろうが……。ただしヴァン・インワーゲンに言及していて、ヴァン・インワーゲンの論文は次に読む予定だったのでそちらをじっくり読みながらまた考えたい。
存在についていろいろ
ふり行為の暴露
これは難しいがおもしろい。
グレゴール・ザムザは『変身』の登場人物である。
と言ったとき、これはグレゴール・ザムザを指示するふりをしているのだが、そのふり行為が暴露されているという。それは『変身』という作品名にも言及していることからわかる。さらに、
グレゴール・ザムザは存在しない。
というのは、指示するふりの暴露であると考えられる。発話者はこう言うことでいま自分がふりをしていると暴露しているのである。
虚構作品と結びつかない言明でもこの考え方が使える。
ヴァルカンは存在しない。
なんかも(ただし、これの発話者はヴァルカンが存在しないことをわかっているとするのだと思う)。
引用
私がいま記述した類いの非公式のごっこ遊びにおいて虚構として成り立つ事柄、つまり私たちが事実であるふりをする事柄は、まさに、実在論的な立場をとる理論家たちが現実において事実であると主張する事柄である、ということが注目されるだろう。それらの事柄とは、例えば、「たんに虚構的な登場人物にすぎない」といった述語によって表現される特性を備えたものが存在するとか、「存在する」はある特性を表現しており、その特性をある事物は欠いている、といったことである。そういう理論家たちの誤りは、文字どおりにしか考えない傾向が過剰だということである。彼らは、ふり行為を、ふり行為によって提示される事柄と取り違えるのである。(421ページ)
私の考え
上の引用はなかなか耳が痛い。分析哲学は言語の分析をするが、ウォルトンはそれはふり行為かもしれないのだから文字どおり受け取りなさんなと述べている。確かにそうだ。なのでキャラクターの存在は慎重に扱うべきである。
他方で、前半で述べた二次創作の例なんかは、キャラクターへの言明が作品の単位を超えて起りうることを示唆している。本書でもオデュッセウスとユリシーズの比較とかがあったが、これらも結局は個々の作品似根ざしたものであった。キャラクターへの指示はふり行為なのかもしれないが、しかし本書の分析で尽きてはいない。私はやはりキャラクターというのは虚構性にプラスして意匠とか人工概念とか種とかプロダクトとかそういう観点からの分析も必要とするものだと思う。
*1:具体例が思いつかなくてごめんなさい