曇りなき眼で見定めブログ

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ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ壱・序章(予習編)

 ケンダル・ウォルトンの『フィクションとは何か』も勉強していきます。現題は"Mimesis as Make-Believe: On the Foundations of the Representational Arts"で、田村均先生による訳を使用*1

 そんなにガチではなくラフにいきます。今回は序章。

いろんな例

 1ページ目の冒頭を引用する。

 私の出発点は、絵画、小説、物語、戯曲、映画、といったものを単純に観察することである。例えばスーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』や、ディケンズの『二都物語』、ヒッチコックの『北北西に進路を取れ』、イプセンの『ヘッダガーブラー』、モーツァルトの『魔笛』、ミケランジェロの『ダヴィデ像』、エドガー・アラン・ポーの『告げ口心臓』といった作品を、それが人生と文化に対してもっている重要性に十分注意しながらよく見るのである。

 これらは表象藝術(representational arts)虚構(fiction)といったものの例である。原著が出たのは1990年だが、けっこう古典的な例が多い。この後で棒馬(棒を馬に見立てて跨るやつ)などの境界事例を出しているが、こういった曖昧さがそのまま文化になったようなものはたくさんある。現代日本に住んでいれば、絵画や小説といったジャンル分けができないが文化として成立しているものを見るのは日常茶飯事だろう。我々が興味があるのはそこである。例えばアイドルとか、プロレスとか、VTuberとか、漫才とか、そういったものだ。

表象体(representations)

 このような境界事例がたくさんあるため、ウォルトンはこれらを表象体(representations)という漠然とした言葉で総称する。なぜ表象(representation)などという手垢にまみれた言葉を使うのかというと、みなが適当に使っている言葉だからこそ意味が固定されないという利点があるからである(3, 4ページ)。

 これはとても良い方針である。このブログを誰が読んでいるのかわからないが、大学生にアドバイスしたい。履修登録をする際に科目名に「表象」と付いた講義は取らないほうがいい。もし取ったなら先生に「表象ってどういう意味ですか?」と訊いてみるといい。奥歯に物が挟まった感じになると思う。それくらい表象という言葉は意味が定まらないままなんとなくかっこいいフレーズとして広まっているのである。

 それをあえて使っての表象体。

メイク・ビリーブ

 本書のテーマであるmake-believeだが、訳すのが難しいと訳注[4]にも書いてある。邦訳の副題にもあるが「ごっこ遊び」と訳すのが一般的である。だが実際にはこれは「『ごっこ遊びにおけるように、事実でないと分かってはいるが進んで受け入れることにする』という心的態度」を言う(序章訳注[4])。これは注意。

二種類の問い

 本書では二種類の問いを扱うという。一方は表象体の役割や鑑賞のあり方、私なりにいえば表象体に内在する固有の問題である。もう一方は登場人物の存在やそれを指示する言語表現の意味など、わりと伝統的な問題を表象体に適用することである。前者は美学的問題で後者は形而上学的あるいは意味論的問題とされる。

 ウォルトンによればこれら二つは密接に関係している。メイク・ビリーブの考え方を利用して統一的な理論を作ろうというのが本書のテーマである。また、これはさらにスポーツや宗教にも応用できるという。この射程の広さが先述の我々の興味にとって心強いのである。