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ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ七・第3章(予習編)

※本記事は竹本健治匣の中の失楽』と手塚治虫アドルフに告ぐ』の大きめのネタバレを含みます。

新装版 匣の中の失楽 (講談社文庫)

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アドルフに告ぐ 1

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 他の回はこちらから。

 

 第3章は「表象の対象」に関する考察である。表象体が何かに「ついて」のものであるとき、それを表象の対象という。例えとして出てくるのは、『戦争と平和』はナポレオンについての小説である、とかである。

表象と指示

 しかし、表象体がいかにして対象を決定するのかは必ずしも明確ではない。著者はやはりかっちりとした理論化を拒む。

 言語哲学の指示の理論を適用できそうであるが、そうはいかない。これも後で批判される。指示と表象の違いが明瞭に現れるのは寓意的な表象体においてである。ヴォルテールの『カンディード』に出てくるパングロス博士はライプニッツをモデルにしていることで有名である。パングロス博士はライプニッツを寓意的に指示しているが、しかし『カンディード』はライプニッツについての表象体とは言い難い。何故なら、パングロス博士について虚構的に成り立つことはライプニッツについて成り立つわけではないからである。本書のいう「表象」は、あくまで虚構的真理と関わっている。

「想像活動のオブジェクト」再考

 反射的表象体という興味深い概念が出てくるが、その前に想像活動のオブジェクトを再考しておく。

 アンパンマンショーは、アンパンマンばいきんまんを倒すという想像を促すとともに、着ぐるみのアンパンマンアンパンマンそのものであるかのように想像させる。

 VTuberの機構もそのようなものではないかと思う。私はVTuberという文化は(決してディスっているわけではなく)「ごっこ遊び(メイク・ビリーブ)」という言葉に相応しいものだと思っている。人形遊びの人形のように、あの動く絵がキャラクターそのものであるかのように想像させる。「バーチャル」という言葉深みがある。これについては勉強会で考えたい。

 しかし実はいわゆる二次元キャラクター文化全般にこれは当てはまるのではないかと思う。キャラクターの存在論的身分が難しいところであるが、キャラクターを確固たる単位として認めるならば、アニメの絵それ自体がそのキャラクターであるかのように想像するということはありえる。アンパンマンショーの事例を認めるならばこれもよさそうである。抱き枕とかならもっと考えやすいかもしれない。しかし架空の存在者や形而上学的な考察は本書の後半になる。

反射的表象体の例

 今回はこれがキモである。表象体それ自体が想像のオブジェクトとなるようなものである。例として挙げられているのが『ガリバー旅行記』がそれ自体も登場人物が書いた手記であるかのように想像することを命令している。これについて自分なりの具体例を出していく。

 日本の作品で私の知る限り最も有名なのが『ドグラ・マグラ』である。

ドグラ・マグラ(上) (角川文庫)

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作中に「ドグラ・マグラ」という手記が登場し、その冒頭とさらには末尾までもが語られ、それが『ドグラ・マグラ』という当の小説と一致している。これはその手記が出版されたものと考えられ、なおかつ自己言及的なループが発生するという複雑な構造を持っている。

 ジャンルが変るものもある。どういうことかというと、作中では文学的なノンフィクションとして登場するがその作品自体はマンガ、という例である。手塚治虫アドルフに告ぐ』である。登場人物が書いた『アドルフに告ぐ』という手記が最終回で登場し、このマンガ作品全体がその手記であることが示唆される。登場人物が書いたものは明らかにマンガではないがこれ自体はマンガであり、その不連続性は想像で補っているということか。

 半分反射的(?)な作品もある。竹本健治の『匣の中の失楽』というミステリ小説である。これは奇数章と偶数章で虚実が入れ替わるという仕掛けになっている。奇数章は偶数章の世界における作中作で、偶数章は奇数章の世界における作中作、そして章が進むにつれて入子構造がどんどん深まっていくのである。反射的表象体が作中の半分を占め、しかも偶奇どちらの半分かが章ごとに反転し、なおかつそれが叙述トリックというミステリのギミックにもなっているというたいへんおもしろい作品である。

 アニメ作品でメタフィクショナルなものとして有名なのが今敏監督の『千年女優』である。

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これは映画についてのアニメである。藤原千代子という引退した往年の大女優にインタビューをして記録映画を撮るという話なのだが、千代子の半生と出演作品とが交錯し、虚実がないまぜになっていく。そのインタビューを撮影する監督とスタッフも千代子の記憶と虚構のなかに入っていく。この『千年女優』というアニメ映画も千代子の出演作の一つであると考えればこれは反射的表象体となる。しかし話はもっと複雑な気もするので、これについてはまた改めて考えたい。

 反射性がありそうなのにごまかす作品もある。さくらももこコジコジ』はその例だと思う。主人公コジコジはメルヘンの国の住人であり、ミッキーマウスなどのキャラクターはみなそこの出身らしい。そして同じくさくらももこ作の『ちびまる子ちゃん』のまる子は、それに類する「クンチャン漫画」の世界の住人であるという*1コジコジはまる子にあったことがあるらしいのだが、そのまる子というのは静岡県清水市に住んでいるあのまる子ではなく、クンチャン漫画界のまる子である。つまり同じさくらももこ作品でも、虚構度合いに階層がある。『まる子』の世界の現実は『コジコジ』の世界では虚構なのである。そして『コジコジ』というマンガ作品もミッキーのアニメのような虚構なのだが、『コジコジ』の作中でその点に触れられることはないっぽい。

またもや言語アプローチ批判

 言語行為論ではなく指示の理論を使ったアプローチが批判されている。ネルソン・グッドマンの指示概念に基づく藝術理論への批判である。やはりここでも文学作品を基礎としてしまうことがまずいようである。

…文学的表象体が根本的に表示的*2であるとしても、それはそれらが文学だからであって、それらが表象体だからではない。表象作用が表示的作用によって説明されることにはならない。表象作用の対象という概念は、表象的なるものの概念にとっては非本質的なのである。(125ページ)

そして架空の存在、すなわちキャラクターへの指示をどう扱うかという言語哲学の難問に対しては以下のように述べている。

 心に留めておく価値があるのは、ごっこ遊び説ならば、架空の存在を認めるか否かにかかわりなく、表象体の「創造的」な働きをうまく取り入れられる見込みがあるということである。表象体は、存在命題を真とするのではなく、それを虚構として成り立つようにすることによって「創造する」というのが、その筋書きの一部分である。残る部分はこれから語らねばならない。(127ページ)

非現実の対象に関する分析は第3章の終りでなされるのだが決定的なものではなく、第10章で詳述されるらしい。

*1:「クンチャン漫画」というのは『ちびまる子ちゃん』や『となりの山田くん』のようにタイトルに「くん」や「ちゃん」が付くマンガのことで、さくらももこ先生が提唱したものの根付いていない概念らしいです。メルヘンではなく日常を主題にした作品でこういうタイトルが多いとのことで。これを『コジコジ』作中でキャラクターが説明しているので、その点でもメタフィクショナルなのがややこしくておもしろい。

*2:ウォルトン先生は「指示(reference)」と「表示(denotation)」を区別していない模様。