メイク・ビリーブの読書会(雑談)だ!
第6章では「参加」という言葉で子どものごっこ遊びと表象体の鑑賞との類似点と相違点を論じている。
ごっこ遊びに参加するものはその遊びのなかで反射的小道具になっている(「反射的」についてはこのあたりを参照)。表象体はしばしば反射的なごっこ遊びの小道具となる。というのはこれまでも述べられてきた。この章ではいままでとは違った例として、風景画が挙げられている。船が描かれた風景画を見て我々はそこに船があるように想像する。風景画は反射的小道具ではないが鑑賞者の参加を促す。
真剣に断定するふり
絵を見て「船がある」というのは、本当は「その絵の表象する虚構において船がある」ということだが、意図的にそうした虚構オペレータを外すことで発話者は「真剣に断定するふり」をする。これは虚構以外にも反語的な表現とかいろいろ効能があるとか。
参加の制約による利点
子どものごっこ遊びとは違った制約が鑑賞にはある。それは観客が悲劇のヒロインを救えないとかそういうやつである。しかし、そうした隔たりがあることで虚構を心理的なもの、「内省的で思索的」なものとする効果もあるという(229ページ)。
もうひとつ、芸術家の裁量でコントロールできる範囲が拡がるとか。
脇台詞って!?
虚構の内側から鑑賞者に参加を促すかのように見えるのが脇台詞である。これはセリフに限らず、虚構のなかから鑑賞者に語りかけたりこっちを見てきたりするようなやつである。制約によって鑑賞者の参加が限定されるが、ウォルトンによると脇台詞は鑑賞者も参加しているということを気付かせる効果があるのだという。
本書でもいろいろ例が挙げられているが、私からも付け加える。
本書では映画『列車大強盗』で強盗がカメラに向かって発砲するラストシーンが挙げられている。似たような演出が北野武監督の『アウトレイジ ビヨンド』でもある。ラストでたけし演ずるヤクザが小日向さん演ずる刑事を銃殺する。『列車大強盗』はどうなのかわからないが、たけしのやつは明らかに小日向さんを撃っているにもかかわらず観客に向って発砲しているようにも見える。
本書で鑑賞者と登場人物の「相互作用」という言葉も使われているが、それでいうとサザエさんのじゃんけんとか「こち亀」の「テッテッテレビを見るときは〜」とかも良い例だと思う。これらは作中から語りかけているとはいいにくい。作品の中でも外でもないような。