曇りなき眼で見定めブログ

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ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ拾伍・第7章1-3節(予習編)バーチャルセックス論

 他の回はこちらから。

 恐怖についてはこのあたりの回で触れたが、その伏線回収の章である。そこで私はアダルトビデオを見たときの性的興奮という例も出したが、どうやらウォルトン先生の考えはそうした感情(や情動)と虚構内の感情(や情動)を分けるというものらしい。

 スライムの恐怖映画を見る男が覚えるのは「準恐怖」という恐怖とは区別される感情である。なぜ区別されるのかというと、ここで恐怖というのは身に危険が迫ることで生じる感情とみなしているからである。虚構世界と現実世界の断絶というのは第5章で述べられたが、そこは強調されるべきである。そして現実で感じる準恐怖が、男の心理的参加によるごっこ遊びの虚構のなかで恐怖になっているのである。このとき、準恐怖を感じる男は反射的な小道具になっている。自分自身が準恐怖を感じているというまさにその事実が、自分自身が虚構において恐怖を感じているという想像をうながし、そのように想像される。これはなかなかおもしろい論理展開だと思う。

 悲劇のパラドクスの恐怖バージョンというのを考えてみても、感じているのは準恐怖であって恐怖ではない、すなわち見ている男に実際に危険が迫っているわけではないのでパラドクスとは呼べないことになる。「すばらしき世界」という映画の感想でも述べたが、人は何故わざわざ嫌な気持ちになるような作品を見るのか、それは、現実で感じているのは「準」嫌な気持ちであって、実際の嫌な気持ちを感じているのは虚構内の自分であると考えると、それほど問題とは思えなくなる。

 恐怖以外、またこうした脇台詞パターン以外にも共感のような現象一般にこの論理は使える。準称賛とか準憐憫という例が出ているが、私の例では準性的興奮ということになろうか。AVを見て性的に興奮するのは、脇台詞パターンとそうでないパターンがある。すなわち、POVで撮影されているのと女優男優の絡みを見るのとである。POVの場合はスライムと同じで、絡みを見るパターンは他人のセックスを覗き見する際に覚える興奮と似ているだろう。私はAV鑑賞がセックスの擬似体験だと思っていたが、実際には他人のセックスを見るだけでも性的興奮は得られるはずである。準かどうかは虚構(というか画面)の内か外かの問題になってくるか。POVかそうでないかで問題は違ってきそうだが、それは現実においても自分自身がセックスの当事者かどうかの違いはあるのでたいした問題ではなさそうである。