曇りなき眼で見定めブログ

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ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ弐拾参・第9章(予習編)

 過去の回はこちらから。

 フェミニズムと萌え絵批判の問題について考えていて、メイク・ビリーブを援用したい所存。あと佐々木敦先生の本をチラ見したら、(もちろん分析哲学に詳しくないのだろうが)メイク・ビリーブで解決してしまうことを延々と考えてるっぽくもあり。詳しく読んで考えてみたい所存。

 

 さあ本題だ!

 

 言語による表象作用は基本的には描出ではないということだった。ではどういうものか、というのがこの章である。いろいろと用語が出てくるのでまとめる。

用語

作者と語り手

 作者と語り手を区別せよというのはよく言われる。しかし「作者が語り手である」ということが虚構的に成立することはある。ただ、この場合の作者=語り手に関する虚構的真理が現実においても真理であるとは言えない。

仲立ち

 出来事は語り手を通じて間接的に示される。描出ではこのようなことはない。

語り手の二種類の信頼性

 信頼できない語り手というのはミステリーやポストモダン的な文学によく出てくる。本書の立場からすると信頼性には二種類がある。すなわち「語り手が人として信頼できることが虚構として成り立つ」という意味と「語り手が虚構において語ることは、それが虚構において本当である」という意味とである(353ページ)。

 これらの概念は似ているが、必ずしも一致しない。

全知の語り手、不在の語り手、消された語り手

 よく「神の視点」とかいう。語り手は何故そんなに登場人物の内面までわかるのか、とか言われるが、まあこういうのは「愚かな問い」ということで。

 語り手の存在感が希薄な作品がある。ウォルトンは語り手が「不在」ではなく「消されている」とするよう提案する(361ページ)。語り手がいなさそうな作品でもなんか匂わされることがあるので。

報告する語り手と物語を語る語り手

 今までのはだいたいが報告する語り手というものである(そうですよね?)。これは、語り手が作品世界のなかにいる。

 物語を語る語り手というのは、語り手が物語を語ったり作ったりしていることが虚構として成り立つ、そのような語り手のことである。

 物語を語る語り手が仲立ちをするのかどうかというのがいろいろ論じられている。しかしそれは置いといて、興味深いのは、物語を語る語り手についての虚構的真理は物語の中身についての虚構的真理に依存する、という指摘である(368-369ページ)。読者は中身の様子から作者がどういう人物かを推測するからである。ここで「作者」と言っているのは以下のことである。

内在する作者あるいは見かけ上の作者

 よく「作者の考えは〜」みたいなことをいうが、あれである。小説を読むときに漠然とイメージする作者のことである。これが物語を語る語り手とそこそこ一致する。

視点

 ジェラール・ジュネットは語り手(話している人物)と視点の人物(みている人物)を分けろという。これを論じた『物語のディスクール』は文学理論の聖典なので、ウォルトンのコメントを見ておく。

私が強く主張したいのは、次のことだけである。「語りのパースペクティヴを方向付ける視点を持った」唯一の登場人物、単一の登場人物といったものが(その作品のたった一つの文章においてでさえ)存在するはずだと思い込まないようにすること、そして、報告する語り手(話している人物)のパースペクティヴが、 多くの例で、少なくとも形の上では存在しているのを認めること、である。このパースペクティヴは、主要な視点が別の登場人物の視点である場合でさえ、形の上では存在するのである。(371ページ)(「」内は『物語のディスクール』からの引用)

メイク・ビリーブ説の柔軟さがよくわかる。