曇りなき眼で見定めブログ

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【ゲーデル】クライゼルの注意に注意【不完全性定理】

 前原昭二『数学基礎論入門』で不完全性定理を勉強した。

不完全性定理というのはもちろん哲学的にも興味深い定理だと思う*1不完全性定理に関連して哲学の文脈でよく聴く(気がする)のがクライゼルの注意というやつで、前原基礎論にも解説が載っていた。前原先生曰く

 わたくしは、局所的な意味においては、クライゼルによるこの注意を評価しない。けれども、論理式による命題の表現法が明々白々に確定しているわけではない、という一般的視野に立てば、これは、やはり重要かつ適切な注意である、と思っている。(163ページ)

とのこと。この意味を考えてみたい。

第二不完全性定理とは!? クライゼルの注意とは!?

 第二不完全性定理とは「何とかかんとかの条件を満す形式体系*2が無矛盾ならば自身の無矛盾性を証明できない」というような定理だが、クライゼルの注意によると、場合によっては無矛盾性を証明できてしまうように見えることがある。

 前原基礎論では体系*3 K の無矛盾性を表現する論理式はこうなる。

 \lnot \exists x [{\rm {\bf Bew}}_K(x) \land {\rm {\bf Bew}}_K({\rm {\bf Neg}}(x))]

{\rm {\bf Bew}}_K(x) というのは(ゲーデル数)x(の論理式)は K で証明できるということを意味する(しかしそれを意味する述語を数値別に表現した形式内の述語を使っているというわけではない)。{\rm {\bf Neg}}(x) は(ゲーデル数)x(の論理式)に否定をつけた論理式(のゲーデル数)である。これは、それ自身もその否定も証明できるような論理式は存在しないという意味と解釈でき、K の無矛盾性を定義通りに表現した論理式に見える。これが K で証明できないということなのだが、これはこうしても良い。

 \lnot {\rm {\bf Bew}}_K({\bf \lceil 1 = 0 \rceil})

{\bf \lceil 1 = 0 \rceil} というのは 1 = 0 を表す論理式のゲーデル数の(いわゆる)数項である。これも証明できない。つまり、何らかの証明できない論理式があるということを表していて、それが証明できないということを証明できない、みたいな。矛盾した体系からはどんな論理式も証明できるので、証明できない論理式があるということは体系は矛盾していないということになる。なので何らかの証明できない論理式の存在を表す論理式もまた無矛盾性を表現しているように見える。

 しかし以下は証明できてしまう。

 \lnot {\rm {\bf Bew}}_K^*({\bf \lceil 1 = 0 \rceil})

{\rm {\bf Bew}}_K^* はロッサー述語というやつである。これが何を表現しているのかということが問題なのである。トゥイッターで木原先生がいろいろ述べているのを発見した。

togetter.com

クライゼルの注意で「無矛盾性を表す文」とされているものは全然無矛盾性を表しちゃいないんじゃないか、とのことである。

考察

 {\rm {\bf Bew}}_K^*(x) は、「ゲーデルx の論理式は証明でき、その否定の証明のゲーデル数はその証明のゲーデル数以下の数にはない」というような意味となる。これの否定を考えてみると、クライゼルの注意で無矛盾性を表すとされる文の意味は木原先生の仰る「自分は無矛盾である or 矛盾も無矛盾も証明するが無矛盾の証明の方が簡単」というようなものとなる。

 ロッサー述語は、K が無矛盾であればゲーデルの述語と同値になる。無矛盾ならば証明できる論理式の否定の証明は存在しないので。そう考えるとクライゼルの注意は無矛盾性が証明できているようにも思える。

 しかし形式体系内では同値にならない(K が無矛盾ならば同値性を証明できないことが証明できる)。これは不完全性定理の帰結である。ここが味噌ではなかろうか。「K が無矛盾ならば」という条件は形式体系の内部では証明できない。これは第二不完全性定理の主張である。ということは K の内部では「無矛盾性を表現した文」ではなくなる。そんな感じじゃなかろうか。

 数学的な言明の論理式による表現というのを恣意的に解さず、数値別に表現する論理式に限ってしまうとどうか。しかし {\rm {\bf Bew}}_K(x){\rm {\bf Bew}}_K^*(x) も証明可能性の数値別表現になっていない。これは第一不完全性定理の主張の一部である。なんか上手く出来ている。

まとめ的な

 木原先生が仰るように、クライゼルの注意はそのまま「無矛盾性を表す文が証明できる」と解せるようなものではない。しかし前原先生の仰るように無矛盾性の表現や解釈はいろいろだということを示唆している。その際に不完全性定理への理解が重要となる。

 無矛盾性証明というのはヒルベルト・プログラム以来の重要概念である。不完全性定理はそれが不可能であることを証明したと俗に言われるが、そもそも「無矛盾性を証明できない」といった時の無矛盾性とか証明とかいうのはメタ数学的言明の形式体系における対応物であって、私はメタとオブジェクトの対応があんまり信じられない人間なので、まああんまり気にすることもないようにも思えてくる。なのでゲンツェンとかダイアレクティカ解釈とかいろいろな無矛盾性の解釈とその正当化を考えるのが重要なのでしょうな*4。そういうターニング・ポイントとして不完全性定理はやはり興味深い。

*1:それ以上に俗流テツガクの格好の題材になってもうてますが…。

*2:ここでは論理式の集合(理論)も含めた意味で使います

*3:これも「理論」と書くべきか。形式体系と論理式の集合を合せたもの

*4:と思うのだけれど無矛盾性証明の解釈はいろいろあれど無矛盾性の解釈を変更することってあるんスかね。ゲンツェンはそんなことしていないと思うけどダイアレクティカ解釈については何も知りません。

【品田遊】反出生主義啓蒙小説『ただしい人類滅亡計画』がとても良い本だった【ダ・ヴィンチ・恐山】

 ↓この本の感想を書きます。

 最近オモコロのYouTubeをよく見ている。川柳を作って応募するシリーズが好きである。なかでもダ・ヴィンチ・恐山先生の川柳のセンスはなかなかのもの。

 恐山先生は哲学にも造詣が深いらしい。アイコンをウィトゲンシュタインにしてるあたりなんか哲学好きが滲み出ている。大学なんかでどれくらい専門的な訓練を積んだのかはわからないが、以下のnoteに書かれている反出生主義シンポジウムのメモなんかを見ると頭が切れる人という印象を受ける。まあでなきゃあれほどの川柳は詠めないでしょうな。

note.com

 シンポジウムに行くくらいだから反出生主義に関心があったのだろう。そんな恐山先生が満を辞して反出生主義をテーマに小説を書いたのが本書『ただしい人類滅亡計画』である。恐山先生は品田遊という名義で作家活動もしている。知らなかった。最近は反出生主義プロパガンダ・メディアと化している当ブログで取り上げないわけにはいくまい。軽く感想やメモを書いておく。

この本の特徴

 魔王が人類を滅亡させようとするのだが、その前に人間に滅亡させるかどうか議論させてその結論を聴いてから考えるという話である。ブラックという人間が反出生主義者で滅亡を支持して話がややこしくなっていく。

 反出生主義の入門書と言えるかどうかは難しいところである。現在哲学の世界で盛んに議論されている論点がそのまま紹介されている訳ではない。巻末に参考文献が載っているが、本書からスムーズにそれらに入っていけるようには思えない。反出生主義と言えばまずデイヴィッド・ベネターだが、本書はベネター先生の哲学説を解説したものにとどまっていない。最初そういうもんだろうと思って読み出したがそういうわけではなかった。割と恐山先生のオリジナルな議論になっていると思う(私が不勉強で知らないだけかもしれないが)。

何故良い本なのか

 この本はとても良い本である。

 哲学についてなんの知識もなくても議論を追っていけば読めるようになっている*1。読み物としては理想的である。とはいえちゃんと頭を使わないと分らなくなる。殆ど常識的な前提から人類滅亡という結論を引出すのだから当然である。

 やや専門的には、そもそも道徳とは? なんでそんなものが必要なの? といったメタ倫理的な論点に議論の多くを割いているのが良い。倫理学について素朴に考えるとこういう問題は大きく立ち塞がる。私は反出生主義という応用倫理的な話題ばかり考えてしまっていてメタ倫理的観点を疎かにしていたなあと気付かされた。また倫理学を知らない人にとって気になるのはそこだということにも気付かされる。

 当ブログで雑誌「現代思想」の反出生主義特集に頑張ってコメントを書いていったが(カテゴリ「反出生主義」から探してみてね)、本書を読むとなんかあんまり良い特集でなかったような気がしてきた。哲学の能力に疑問がある人や第一線の哲学者でも反出生主義に大して興味が無さそうな人ばかりだったなあ、と。恐山先生の方が大半の執筆者より哲学を分っているし反出生主義と向合っている。川柳も上手い。「現代思想」に恐山先生が寄稿しても良かったなあ。

批判的コメントをいくつか

 本書の大きな問題として、反出生主義と人類滅亡というテーマが微妙にズレているのではないか、というのがある。この点に関しては以下の記事でも指摘されている↓。

note.com

子供を産まないことと人類を滅亡させることはイコールではない。

 また、本書の設定上の問題なのだが、魔王の介入というのは現実にはあり得ないことで、これを考えると現実の議論とはけっこう違ってくるはずだと思った。人類滅亡には同意だが魔王の力で達成されることには反対、とかいう意見も考えられるので。

 議論の中身についても述べる。道徳と法が混同されているように見える箇所があるのが気になった。道徳と法と何が違うのかというのは素人の私には上手く説明できないのだが、本書には罰や償いの話が出てきたりして、それは倫理学の議論では必ずしも前提としないのではないかと思った次第。

 反出生主義者ブラックの議論の核心には、幸福を生み出すことよりも苦痛や不幸の回避の方が優先される、というのがあるように思われる。これの根拠として慣習や直観のようなものを持出しているが、まだ十分でないと思う。ベネター先生の本を一所懸命読んだ私だから指摘できるのであるが、例えば、生れる子供の苦痛の量がごく小さいと予想されたら、回避すべき不幸なんて無視できるのではないか、という反論をブラックは退けられないように思う。ベネター先生の非対称性の議論ならば退けられるが*2。また、功利主義者ならば根拠となっている慣習や直観を否定しにかかるのではないかとも思う。

 まあこんな風にしていろいろ議論の土台になるという点で結局は良い本なのである。間違っているとしてもどこが間違いか探すことで有益な議論に繋がるから良い。

どうでもいい感想

 恐山先生がどれくらい哲学の専門的訓練を積んだか分らないと書いた。しかし

シルバー:「あなたはあなたのために生きよ」という命題と同時に「他者の内にも『あなた』を見い出せ」という命題も発している。

とあるところでは「命題」という語を誤用している。論理学や言語哲学を勉強していたらこういう誤用はしないんじゃないかと思うので、恐山先生はそれらで卒論とかを書いてはいないだろうなあと思った。

*1:哲学の知識が少々ある私の見解なので微妙ですが…

*2:途中のQ&Aのところで「幸福を増やすことは少なくとも絶対にやらなければならない義務ではない一方で、不幸を増やす行為は「行うべきではない」という道徳的義務がある。」とあるのはベネター的であるよ。

「現代思想」の反出生主義特集を読むその5(最終回) 小手川正二郎、橋迫瑞穂、古怒田望人、逆卷しとね【統一教会あり】

 最終回!

 過去の記事↓

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 今回取り上げる四つの論考はどれもジェンダーに関わっていていかにも現代思想っぽい感じである。反出生主義は当然、性の問題にも関わってくる。

小手川正二郎「反出生主義における現実の難しさからの逸れ」

 この小手川先生という人は本を少し見たことがあるが、なかなか真面目で、失礼ながら面白い方という印象である。この論考も著者の熱がかなり入っている。私はまったく同意できないが批判のしがいがあるおもしろい文章だった。

 ベネター先生の議論を(1)生まれてくることは常に害悪である。(2)生まれてくることは、人々が思っている以上に悪い。(3)子どもをつくることは悪い。の三つに分け、それぞれを(b)消極的義務の極端な解釈、(a)理論による直観の矯正、(c)子づくりをめぐる現実の難しさからの逸れ、という観点から批判している。どの批判も間違っていると私は思うので検討していく。

 (a)について。反出生主義の見解が反直観的に映るのは偏見の産物であるとベネター先生は言う。小手川先生はこれを批判する。ベネター先生の用いる奴隷制の例を小手川先生は以下のようにまとめる。

奴隷制が間違っている」という見解は、奴隷制が支配的な時代には「反直観的」だと考えられていたが、現在では自明なこととみなされている。それと同じように、反出生的見解が現在、どれほど「反直観的」だと思われても、それが間違っていることにはならない。(183ページ)

しかし小手川先生は、反出生主義がベネター先生のいうような中立的なものではないだろうと批判している。

 だが、子づくりにまつわる私たちの日常的直観は、そのすべてが「偏見の産物」なのだろうか。ベネターが依拠する奴隷制とのアナロジーは、重要な事実を見過ごしている。それは、「私たちは皆、自分の親によって生み出されてきた人間である」という事実である。奴隷制の場合、奴隷制がない場所や時代から、つまり奴隷制の外側に立って、奴隷制の不正や歪みを考えることができる。これに対して、「私たちは皆、自分の親によって生み出されてきた人間である」という事実は、その外側に立つことができないような、私たちの世界の見方の一部をなしている。それは偏見かどうかを私たちが判断しえない類のものなのだ。(183ページ)

一読して妙なのは「私たちは皆、自分の親によって生み出されてきた人間である」という事実があるからといって偏見かどうかを判断しえないとまでいえるのかということだが、もっとおかしな点がある。我々が奴隷制がダメと言えるのはいま奴隷制がない日本や南アフリカにいるからなのかというとそうではないはずである。事実、奴隷制奴隷制がある時代から悪いものとされはじめ、その結果徐々になくなっていった。なくなってから「悪いものだった」とされるようになったわけではあるまい。出生も同じように減っていくことは考えらる。その際、我々が皆親から生まれたということが決定的に判断を鈍らせるとは思えない。

 続いて(b)。小手川先生は、ベネター先生の見解は「他人に良いことをしなければならない」という積極的義務より「他人に悪いことをしてはならない」という消極的義務を優位に置いているとし、この点を批判する。

 まず、積極的義務に対する消極的義務の優位が、ベネターの言うような最小限の害悪ー「ちょっとしたピンで刺されたような痛み」ーについても妥当するのかは甚だ疑わしい。消極的義務が問題となるのは、日常生活で被ることが避けえない些細な害悪についてではなく、ある程度重大な害悪についてである。さらに、普通、最小限の害悪を与える代わりに他人によいことをしてあげること(例えば、車に轢かれそうな人を突き飛ばして救うこと)は、(命じられはしないが)許容されるし、時には推奨されもする。(184ページ)

これはベネター先生の非対称性の議論を誤解している。ベネター先生が言っているのは存在の害悪が良さを上回るということではなく、存在の良さなどあるとは言えないということだ。存在の良さは「ピンで刺されたような痛み」すらも上回れないのである。

 しかしそれ以上の問題がベネター先生の議論にはあるという。

当然ながら、子どもを生み出すことは、快苦を感じうる人を生み出すことであり、その人が将来経験することになる苦痛を与えることとは全く異なる。子どもを生み出すことは、子供が将来感じる苦痛の必要条件ではあるが、充分条件ではない。ベネターが好む奴隷制の例を用いるなら、黒人奴隷たちの苦痛は、彼らに酷い仕打ちをした白人たちによって「与えられた」のであり、彼らを生み出した親たちによって「与えられた」のではない。(184ページ)

 

…ベネターは「害悪を与える人々や社会状況」(白人や奴隷制)を改善しようとするのではなく、「害悪を被りうる存在」(黒人奴隷)を消去する世界に向かおうとしている。地球上から害悪が生じる可能性をすべて除去することはできない以上、苦痛などの害悪を感じうる存在がこの世から一掃される世界、つまり人類や苦痛を感じうる生命体が絶滅する世界のほうが望ましいと考えるからだ。(185ページ)

この黒人奴隷の例えが適切とは思えない。何故なら奴隷制は努力次第でなくせるし実際なくなっていくが、存在の害はそうはいかないからだ。死が害だとすればそれは避けられないし、死に向かう苦しみも避け難く思われる。また日常にも空腹や渇きの不快感は付き纏う。これらを完全に取り去る方法などあるだろうか。小手川先生はレヴィナスの用語を用いてベネター先生の見解の裏に「隠された『形而上学』」があると表現しているのだが、私の言葉の感覚ではむしろ「形而上学的には可能だが現実にはありえない」ことを排除した見解のように思える。

 (c)反出生主義は「子どもに害を与えない」という「利他的な動機」によるものだが、子どもを作ろうというときにはまだ子どもは存在しておらず、利他的な動機は誰に向けられたものかはわからないと批判する。しかし私にはこれは詭弁に思える。「子どもに害を与えない」を文字通り受け取って前々回の記事で取り上げたような可能的な人物を想定してもよいし、比喩的な言い回しと解釈してもよいだろう。これ以降の小手川先生の議論はやや情緒的な親目線からの子作りの意味の分析が続く。

実際、自分の子どもをもちたいという親たちの利己的な欲求が子どもの妊娠・出産・養育を通じて、子どもに幸せになってほしいという利他的な欲求へと向け直されていく点に、子どもを産み育てることに固有な価値の一つがあると考えられる。(187ページ)

というところなど、「固有な価値」というのは子どもにとっての害悪を避けることより尊いものなのだろうか。どうも子どもは作る前には存在しないとすることで子どもを作ること自体の良し悪しの子ども目線からの議論を避け、養育ばかりに注目してしまっているように見える。また、子作りと養育は切り離せないというのだが、子どもを作らないという判断が良いとなれば子育てはしないのだから切り離せるだろう。

 結びのところでは、反出生主義者が出生主義的価値観に苦しめられている人々を擁護したり慰めたりできないためベネターに批判的だと述べられている。

 子づくりの能力を欠いた男女に、「子づくりができないなら養子を育てればいいじゃない」と言い放つことは、配慮を欠くことになるだろう。国によって主導された優生政策によって生殖能力を奪われた障碍者に対して、「子どもをもつことができないほうがよいのだ」と言うことは、彼らの尊厳を傷つけることになるだろう。死産で子どもを失った母親に「この世でさらなる苦しみを経験したくてすんだのだから、子どもにとっては死産でよかった」と言うことは、おぞましい。(187ページ)

とあるのだが、これはどうだろう。この慰め方は子どもを持ちたいのにそれができないということ、つまり不全・不能であることをさも良かったかのように上から肯定しているため失礼に感じられるが、反出生主義者ならば子どもを持ちたいという欲のほうに再検討を迫るだろう。それは慰めではないだろうが、侮辱にもならない。そもそも哲学に慰めを期待しなくてもよいと思う。

 最後に追記としていろいろと書いてある。まず、

本論の依頼を受けた数日後の八月初旬に子どもが生まれた。そのため、私は子どもをもった(ばかりの)父親という立場から本論を書いていることになる。妻あやに意見を求め、彼女とのやり取りから数多くの示唆を得た。(188ページ)

私は著者のことと議論の中身は切り離して考えるべきだと思っているが、これを書いているということはこれを踏まえて読んでくれということと受け取って、この点についてコメントさせていただく(小手川先生もベネター先生の議論の背後に踏み込もうとするようなことを書いているしいいだろう)。私が思ったのは、小手川先生は子を持った自分を肯定するために「親になる」ということの価値を過大評価していないだろうか、ということだ子に対する親目線の押付けがましさのようなものを後半の議論からは感じた。こういうことを述べるのは「おぞましい」ことだろうか*1

 またこう書いてあるのには驚いた。

ベネターのような無視を決めこまない限りは、妊娠と出産に係らざるをえない本特集の執筆者の多くが、筆者も含め男性であったことを残念に思う。編者を批判するつもりは毛頭ないが、これもまた哲学や「現代思想」にはびこる症候なのだと言っておきたい。(188ページ)

「無視を決めこむ」とはどういう意味だろう。まさか、子どもを作らないという選択は妊娠と出産をすべきという現実から逃げている、などと言いたいわけではあるまい。それを「無視」と表現してしまったら子作りにまつわる哲学的な議論を無意味なものとしてしまう。だとすれば、子どもを作らないにしても周りの人の子作りや子育てと関わる機会があるはずなのにそれを無視している、ということだろうか。ベネター先生がそういう無視をしているのだろうか。 私は知らないしこの文面からはよくわからない。ここの小手川先生は筆が滑ってしまっていると思われる。女性の論者が増えるべきというのはまあそのほうが望ましいだろうと私も思う。

 というわけで、小手川先生の「自分」がふんだんに入った面白い哲学エッセイだとおもうのだが、私は全面的に疑問だった。

橋迫瑞穂「反出生主義と女性」

 フェミニズムである。私はどうもフェミニズムというものに疑問がある。女性の権利拡大とか地位向上というのはもちろん良いことだと思うが、いわゆる運動としての「フェミニズム」には懐疑的である。というようなことを人文学界で言うのはけっこう勇気がいる。それくらいこの界隈ではフェミニズムはマジョリティで強者になっていると思う。

 さて橋迫先生の本論。まず冒頭から以下のようなことが書かれている。ベネター先生の『生まれてこないほうが良かった』について

さらに本書では、「存在することの害悪」をつくりうる、「産む性」についてそれを否定する議論が展開されている。ただし、ベネターにおいてはこの「産む性」の役割について、十分な論点が提示されているとはいえない。さらに、社会との開きがあるとも指摘される。(189ページ)

と述べているのだが、さて「産む性」とはなんだろうか。おそらくフェニミズム用語で、「子どもを産む存在としての女性」という意味、あるいは「女性の特徴として子どもを産むという役割ないし性質」をクローズアップした表現であろう。こういう用語を定義もなくいきなり導入するのはどうかと思う。ベネター先生がこの用語を用いて論じているわけでもない(はず)。最後の「指摘される」というのも受動態で書かず誰がどこで指摘しているか明記してもらいたい。

 橋迫先生は(ベネターの)反出生主義には反対であるらしい。その根拠として前々回に出てきた加藤秀一先生の、もっと以前のロングフル・ライフ訴訟に関する論考を取り上げている。「私なんて生まれてこないほうが良かった」という考えについて、

加藤はそれを誰もが抱きうる自己否定だとしたうえで、論理的には成立不可能な考えだと指摘する。なぜなら、「生まれてこないほうが良かった」という考えは、すでに生まれた人だけが抱きうるものであり、「自分が生まれた場合に営まれる生の状況(すなわち現実)」と、「自分が生まれなかった場合の生」を比較することは、論理的に不可能だからである(出典)。加藤の指摘に従うと、反出生主義の考えもまたこの矛盾から逃れることはできないのではないだろうか。(190ページ)

とある。「論理的に」という言葉の解釈にもよるが、論理的に成立はしていると私は思う。古典論理に基づく矛盾はない。「論理的に」を「論理学の道具立てを用いて」という意味に解するのならば、可能世界を用いてもよい。また、加藤先生は前々回取り上げた論考では「生まれてこないほうが良かった」をレトリックだと論じていた。つまり正面から受け取るべきではないのだ。ここの論文を読んでいないのでわからないが、これは反出生主義への批判ではないのではなかろうか。ベネター先生の反出生主義も別に「生まれてこないほうが良かった」という感覚を根拠にしているわけではない。

 さて橋迫先生は青木やよひという人のエコ・フェミニズム的出生論を引いている。私はエコ・フェミニズムというのを調べたことがあるが、実体が乏しいものではないかと懐疑的に見ている。青木は未開社会を参照して「産む性」は「自然」であると述べているという。

青木はこうした「未開社会」における性のあり方を参考にして、われわれの社会における妊娠、出産をめぐる「産む性」の位置づけを検討すべきだと主張するのである。このように、青木は社会が問題を抱えているからこそ、「自然」に依拠して「産む性」を肯定すべきだという思想を展開する。これは、現実社会には問題が山積しているからこそ、子どもをつくることは否定すべきだというベネターの主張と対照的である。(192ページ)

とあるのだが、これは未開社会に戻れということなのだろうか。また、

…青木はより大きな意味で、「母性機能がマイナス要因とされない社会」の構築を目指している。青木によると、今日の環境破壊は、文化が「自然」と対立することによって生じている。その結果、特に文明の発達が激しいキリスト教文化圏において、「文明化=自然の抑圧=身体性の疎外=性の蔑視(=性差別)」(出典)が、女性を抑圧する形で起こっている。そのような女性に対する抑圧を克服するものこそ、エコロジーと「女性によるみずからの「産む性」」の結びつきに他ならない。(192ページ)

とあるのだが、ここのところは随分雑な図式化に思える。未開社会のようにセックスをして子どもを産めば環境破壊が止まるわけではあるまい。

 中絶の議論に関しても批判している。

 しかし、ベネターの議論は不妊や中絶の意味をドラスティックに変えるものではない。せいぜい異なる身体性を持つ、男性に特有の視点で、女性の身体性から「産む性」を取り出してフェティッシュに考察してみせているに過ぎない。つまりベネターの主張からは、「産む性」としての女性を文字通り「産む性」としてのみとらえる、反出生主義の中核的な思想が透けてみえるのである。反出生主義が時としてマチズモを露呈するのも、このような単純な誤謬によるものであると考えられる。(193ページ)

これはどうなのだろう。「男性に特有の視点で」というのは決めつけではないだろうか。「マチズモ」というが、後述するように反出生主義はネット上ではむしろフェミニズムと結び付けられている。むしろ出生を奨励する雰囲気(正確にはそれを含む楽観主義)の方がマッチョだとベネター先生は書いていたし、私もそう思う。また、女性を「産む性」としてのみ捉えるというが、逆のようにも思える。何故なら「産まない」ことを推奨するのが反出生主義なのだから。産むことを奨励する人の方がよっぽど女性を「産む性」としか見ていないのではないか。ただし、以下の指摘は肯ける。

 そして何より…指摘しておきたいのは、反出生主義が「産む性」、すなわち「母」の決断にかなりの比重を置いていることである。そして、「存在することの害悪」を「母」に帰属させてしまうにもかかわらず、中絶ということを軽々と言ってのけることを含めて、逆説的に反出生主義もまた、「母」なるものの呪縛から逃れられていない窮屈な議論であることが指摘される。(193ページ)

「母」なるものの呪縛」というのは意味がわからないが、ベネター先生が中絶の負担を軽視しているというのはその通りだと思う。ただし「母」に帰属させているわけではあるまい。男が膣内射精しなければよいということも反出生主義は含んでるはずなので。ただ注釈でパイプカットなどの男の避妊法が言及されないと指摘しているのは確かにそうだ。射精の快楽を捨てられない男の問題もあるだろう。

 さて橋迫先生の専門は宗教社会学で、終わりの方で日本のスピリチュアル市場のことが触れられている。「自然なお産」とか胎内記憶とか近年盛んになっている妊娠・出産に関わるスピリチュアルと反出生主義を結びつけて論じようとしているのだが、あまり確かな議論になっていないように感じる。しかしまあ「産む性」の否定である反出生主義の流行と極端な肯定であるそれらとが表裏一体だというのはありそうである。私としてはTwitterで「反出生フェミ」という言葉がよく見られるのが気になる。どうもフェミニストの女性が反出生主義に傾倒するというケースがよくあるようだ。これは自らの「産む性」を嫌悪する女性が少なからずいるということではなかろうか。この点について橋迫先生は調べてくれないかな〜と思う。

古怒田望人「トランスジェンダーの未来=ユートピア

 やたらとカギカッコが多い文章である。用語・術語をカギカッコで括ることで意味に含みを持たせるような書き方を多用しているのだが、それ故にちゃんと読み取れているのか不安になった。

 ブロッホ的な未来=ユートピアとは「到来せざるもの」という「失望」を伴う。しかし、だからこそ「抽象的ユートピア」の「おぼろげな現在」が「完了」していると夢想する「歴史」に抗する「時間」としての「歴史」、言い換えれば「いまだ存在しない」未来、「どこにもない場所」というユートピアへの「希望」は、この「おぼろげな現在」の楽観主義的夢想への批判的視座をもち「変化を想像する行為」、「未来への跳躍」へと繋がるのだ。(206ページ)

この段落などわけがわからなかった。

 石原慎太郎杉田水脈の、生殖や「生産性」への拘りに基づくLGBT差別発言が引かれる。また性同一性障害特例法というトランスジェンダーの性別変更に関する法律でも生殖の能力や子どもの有無が関わってくる。何故生殖や子どもがやたらと重視されるのか、エーデルマンという人の本に基づいて論じられる。しかしどうも抽象的である。子どもは未来の象徴であるとか。

 当ブログは全く時事を扱わないけどそれだと読み返した時に趣がないように思えるので触れておきたいと変心したのだが、先日安倍晋三が銃で撃たれて殺された。犯人の動機がいわゆる統一教会に家庭を破壊されたことによる恨みによるものだったと報じられ、以後統一教会の実態が次々と明るみになっている(というかしっかりと注目されるようになった。私はあまり知らなかった)。与党や保守系の議員の妙に古臭い家族観は統一教会の教義の影響である可能性もある。もともとそういう家族観があったために統一教会に共鳴してしまったという逆パターンの人もいようが。とにかく、このあたりの解明は現代日本にとって特に重要になってくるかもしれないし、抽象論だけではダメでリアルな政治や宗教の裏の実態も知りたいところ。

 さて、エーデルマンはクィアというのは子どもを作らないから規制の秩序を擾乱させうると論じているようだ。しかし古怒田先生は子どもを作るトランスジェンダー男性の例を挙げる。ここからトランスジェンダーの「未来」を論じていく。

 全体としてはトランスジェンダーを常識とは異なる角度から捉えたおもしろい論考だと思うのだが、しかしこれが反出生主義特集に置かれた意味はなんだろうと考えてしまう。子どもを産むことをポジティヴに論じてそれで終っているように思える。それを検証するのが本特集の意味ではないのか。どうも多用されるカギカッコに加えてここにも著者の含みというか隠された意図があるようで、気味が悪かった。

逆卷しとね「未来による搾取に抗し、今ここを育むあやとりを学ぶ」

 この論考はハッキリ言ってダメだった。終始意味がわからない。橋迫先生以上に、意味のわからない語が意味のわからないまま使われ、論旨も明確でない。一応ダナ・ハラウェイという人に依拠して反出生主義を批判する論考である。

 クトゥルー新世ってなんなのか。まともな定義もない。人新世というのが流行っているが、それに乗っかって更にホラー文学の用語(綴りはちょっと違うけど)も盛り込んだコケ脅しではないのか。「あやとり」がクトゥルー新世の形象だというのだが、だったらなんなのか。「kinを響かせる」ってなんなのか。意味がわからない。

 意味のありそうな箇所としては、ベネター先生の反出生主義を「同一線上で整理された時間感覚に依拠し、今ここにある苦しみの対処を未来へ先送りするという思考法」と言って批判するところくらいであろうか(215ページ)。しかし反出生主義はそんなに大層なものではないと思う。これは要するに親を批判せず子を作らないことへ向うのは何故だという指摘のようなのだが、親を殴ったって仕方がないし親は大事にしたいし、できることは子どもを作らないだけとかその程度のものだろう。

まとめ

 けっこう熱くなってしまった。

特集全体のまとめ

 全体としてはいろいろな視点から反出生主義を論じていて面白かったと思う。基本的に賛同しかねる論考ばかりだったが、きちんとした批判を考えることで私自身の反出生主義理解は深まった。ありがとう「現代思想」!

 ただ、ベネター先生の非対称性の議論を正しく理解していないような論考は多かった。日本よりも南アフリカの方が哲学のレベルは高そうである。

 ところでそもそも「現代思想」という雑誌は毎月バラエティに富みすぎである。編集者はちゃんと特集するテーマを理解しているのだろうか。

*1:皮肉みたいなことを言ってごめんなさい。

「現代思想」の反出生主義特集を読むその4 佐々木閑、島薗進、戸谷洋志

 連続投稿! シリーズ第4回!

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 今回取り上げる3つの論考は正直言ってどれもあんまりよくわからなかった。どれも私の勉強してきたこととは違う分野の話なので。まあでも一応メモを。

佐々木閑「釈迦の死生観」

 僧侶で仏教学者の著者による釈迦の思想の解説。私は仏教のことをよく知らないので普通に勉強になった。

 しかし反出生主義とはそれほど関係がないように思えた。最後のほうでベネターが取り上げられるのだがその解釈はなんだか変で、佐々木先生は『生まれてこないほうが良かった』を読んでないんじゃないかとちょっと疑ってしまう。そんな感じだった。

 ただ、

生きることを苦であると自覚した人にとって子供は、自己をその苦しみの世界に縛り付けるくびきとなるので、作ってはならず、作ったなら捨てねばならない。(162ページ)

とあったのはなるほどと思った。

島薗進「生ま(れ)ない方がよいという思想と信仰」

 ユダヤ教キリスト教イスラームグノーシス、仏教、日本仏教などといった宗教の思想はそれぞれ、産むことを肯定したり否定したり様々であるらしい。情報が豊富な論考であったが特にコメントはない…。勉強になりました。

戸谷洋志「ハンス・ヨナスと反出生主義」

 ハンス・ヨナスは独創的な哲学者だがグノーシスの研究者でもあり、私はグノーシス関連の本をちょっと見たことがあった。私が知っているのはそれくらいである。戸谷先生の研究・解説書をよく本屋で目にするが読んではいない。

 独創的な哲学者といっても独創的すぎるように思った。私があんまりこういう大思想家のような人の本を読まないからかもしれないが、けっこう議論に違和感はある。独りよがりすぎて説得的でないように思うのだ。そういう人のテクストをのちの研究者たちが頑張って読み解くというのは人文科学ではよく見られる光景だが、果して健全なことなのかどうか。私にはまだよくわからない(まあ私もジャン=イヴ・ジラール という大論理学者のテクストを頑張って読もうとしているわけだけれど…)。

 存在論的命令というものの定義がいまいちわからず、全体的にもよくわからなかった。難しい論考である。

 乳飲み子が呼吸によって当為を喚起するというのはやや詩的すぎると思ったがなかなかユニークでおもしろくもある。

 しかし子どもを作ることが責任とか命令とか義務とかいうのはなかなか暴力的な結論である。私は子どもを育てる自信なんてないし結婚する自信もないのだが、そんな私も子どもを作らなければいけないのだろうか。私という個人に課せられた義務ではないのかもしれないが。

まとめ

 難しかった。精進します。

 

「現代思想」の反出生主義特集を読むその3 鈴木生郎、佐藤岳詩、加藤秀一、西條玲奈

 シリーズ第3回。

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 今回取り上げる四本はどれも現代哲学の最先端の論考である。骨太である。

鈴木生郎「非対称性をめぐる攻防」

 鈴木先生は『ワードマップ 現代形而上学』という本の著者の一人で形而上学が専門である。でこの本はなかなか素晴しい本でこれで勉強した私は思い入れが深い。

 さて本論考はベネター先生の議論の中でも特に非対称性によるものを取り上げて批判するものである。しかし全体の構成はベネター先生の議論をまとめてさらにマグヌソンとブーニンという二人の先生の批判を取り上げるというもので、鈴木先生自身の見解というのはいまいち見えてこない。こういう論文はJ哲学を標榜する森岡正博先生なんかは不満だろうなあと思った。

 それはさておき。まず第一のマグヌソン先生による批判とは、快楽と苦痛の非対称性の議論における、快楽と苦痛があることやないことによる良さや悪さが誰にとってのものかを考えると、非対称性は消滅する、というものである。誰にとってかという点の掘り下げが不十分なのは直後の佐藤先生の論考でも触れられている。ベネター先生は苦痛の不在の良さは可能的人物によって良いのだと述べている。だとしたら快の不在はその可能的人物にとって悪いのではないか、というのがここでの批判である。

ベネターがいう可能的人物は、生まれてきた場合には苦痛を避けたいという関心をもつとされる。しかし、そうであるならばこの人物は、当然生まれた場合には快楽を得たいという関心ももつはずだろう(もたないとすればかなり異様な人物である)。すると、この可能的人物が実際に生まれずに快楽を得られないことは、この人物の関心に合致しないので、この人物にとって悪いと言わざるをえないはずである。(119ページ)

 私はこれは違うと思う。後の佐藤先生の論考でも少し触れられているが(129ページ)、ベネター先生のいう非対称性では快楽の不在は奪われていないのであれば悪くないということである。可能的人物が生れなかったらその人物にとって快楽はもとからなかったのであるから奪われたことにはならない。鈴木先生は非対称性の議論をまとめたところで「快楽が生じないことは、現に存在する人が快楽を得る機会を奪われているという場合でないかぎりは、悪いことではない。」としている(119ページ)。しかしベネター先生の原文に「機会」という言葉はない。機会という言葉は誤った方向へ誘導している感じがする。存在しなかったら機会はなくなるだろうが、快楽を得ることそのものは「奪われ」はしないのだと思う。しかし私もあんまりうまく書けている気がしなくて自信がない。

 もう一つはお馴染み(?)の四つの非対称性の最善の説明論証に対するブーニン先生の批判である。これに対してはベネター先生も前回取り上げた論文で反論している。鈴木先生はその反論はあたらないとしている。ブーニン先生は鈴木先生が「生殖の選択に関する非対称性」と呼ぶ非対称性を導入し、これが四つの非対称性の最善の説明になっていると主張する。それとはすなわち、幸福ばかりの人生を送る子どもをつくる祝福されたカップルと不幸ばかりの人生を送る子どもをつくる呪われたカップルとを想定し、以下を考えることから定義される。

…幸福な子供が生まれる場合には、カップルが子供をつくる選択をしても、つくらない選択をしても、現実の子供は不幸にならない。しかし、不幸な子供が生まれる場合には、一方の選択(子供をつくる選択)をすると、現実の子供を不幸にする。これが、ブーニンにとって重要な非対称性である。(121ページ)

 私はこれは変だと思う。少なくとも最善の説明を提供するとは思えない。逆も言えるからである。すなわち、不幸な子どもが生れる場合にはどちらの選択をしても現実の子どもは幸福にならないが幸福な子どもが生れる場合には一方の選択では現実の子どもを幸福にする、という非対称性も言える。何故ブーニン先生のほうの非対称性が優先されるのかわからない。不幸を避けるほうが大事という他の原理が想定されているのだろうか? だとしたらベネター先生の非対称性のほうがよりシンプルで包括的に思える。鈴木先生によるとベネター先生の反論は、ブーニン先生が生殖の義務に関する非対称性を生殖の選択に関する非対称性から説明する際に導入したAPPという別の原理への批判に過ぎず不十分だと注で述べている。しかし、私は生殖の選択に関する非対称性は成立していないか説明として不十分と思っているので、APPがダメならばブーニン先生の説はやはりダメということになると考える。

佐藤岳詩「ベネターの反出生主義における「良さ」と「悪さ」について」

 この特集中で最も重厚な論文であると思う。佐藤先生は気鋭の倫理学者で、さすがだと思った。しかしいろいろな点で私は賛同しかねる。

 佐藤先生の議論の構成は、ベネター先生の基本非対称性における「良さ」「悪さ」は絶対的なものか相対的なものかを考え、絶対的ならば非対称性は消滅し相対的ならば反出生主義と齟齬をきたす、また基本的非対称性を欠いた反出生主義は説得力を欠く、という三段階である。

 相対的か絶対的かというのは、良さや悪さが誰か(何か)にとってのものかそれ自体としてか、ということである。鈴木先生のところで述べた通り、私は相対的と考えれば非対称性は成り立つと考える。佐藤先生もそう書いている。なのでここは良い。ひとつ指摘しておきたいのは、佐藤先生は苦の不在は「悪くない」と考えていることが述べられているのだが、ベネター先生の前の論文いわく苦の不在の良さは苦の存在に対する相対的なものらしいので少しズレているように思った、ということである。これについては後でも出てくるのでそこで詳述する。この議論の流れでベネター先生の功利主義観に触れているのだが、ここはさらに注目である。ほとんどが注で処理されてしまっているのだが、私にはこれがめちゃくちゃ重要であるように思われる。

(ベネターの引用)「更なる幸福をもたらしてくれるから人々には価値がある、というのはおかしい。そうではなく、更なる幸福は人々の人生をより良くしてくれるからなのだ。そう考えないと人々を幸福を入れる単なる器だと個々人を見なすということになる」。しかし、これはベネター自身の福利論についての実質的な主張であって、現に個々人を単なる器だと見なす功利主義に対する決定的な反論にはならない。(133-134ページ)

幸福は人々にとって良いのであって、幸福の総量を増やすために人を作るのは本末転倒ではなかろうか、ということだ。私はこれはベネター先生の功利主義批判と受け取った。ベネター先生のいち考えであって功利主義への反論ではない、とは思わない。実はこの功利主義批判こそ非対称性の根底にあるのではないかという気もしているのである。

 

 では相対的だとするとどういう問題があるか。佐藤先生は否定的責任と完全な相対性という二つの論点を使って反出生主義という主張は正当性を欠くと述べている。否定的責任の議論において、佐藤先生は二つの思考実験(と言って良いのか分らないが)を提示している。まず、

今この瞬間にも、論理的には、私のせいで存在してしまう可能性があるが実際には存在しない無数の私(以下、現在のこの私と因果的なつながりをもって存在してしまう可能性があるが、現在は存在していない私をYとしよう)がいるだろう。ここでそれぞれの彼らを現実に存在させていないことが彼らにとって苦痛の不在という意味で、「より良い」ことであるなら、私は寝ているときですら無数のYたちに対して、「より良い」ことをし続けていることになる。

これはベネター先生が、もし子どもを作っていたら存在していたというような可能的な人物の存在を持出していることを受けての議論である。それを受入れるのならばこのような議論も成立するだろうということだ。しかしこの辺りからどうも佐藤先生は「存在すること」と「存在してしまうこと(coming into existence)」の区別、そしてそれによる「存在すること」と「存在させること(「存在してしまうこと」の使役形)」の区別を軽視しているように見受けられる。無数の私はどれも私だが、可能的な子どもは新しい存在である。これは続く第二の思考実験でより明らかとなる。

 他方で、私は「より悪いこと」もし続けている。というのも、私は存在をやめることなく生き続けていることで、可能性でしかなかった様々な自分を現実の存在にし続けているからだ。一〇分後の私はまだ存在していない。今、私が研究室の窓から飛び降りたなら、一〇分後の私はそのまま永遠に存在しないだろう。しかし、それだけではない。それは一年後の私や一〇年後の私を存在させないことでもある。存在しないことでYにとっての「良さ」を享受できたはずの無数の未来のYたちを存在させてしまうことを、私は今、窓から飛び降りないことで選択し続けている。現在の私は未来のたくさんのYに対して、悪いことをしているのだろうか。(130ページ)

反出生主義の論点は「存在すること」あるいは「存在してしまうこと」が「害悪」であるが故に「存在させてしまうこと」が「悪」だということである。苦の不在は良い、快の不在は悪くない、故に「存在させてしまうこと」は悪い、「存在すること」でなく、こういう議論の経過を辿る。よって「存在し続けること」が常に悪いことという訳ではない。生き続けることが「存在させ続けること」であるようには私には思えない。単に今ある存在を続けているだけだろう。よってこの思考実験には無理があると私は考えるのだが、その無理は佐藤先生が「存在すること」と「存在させること」の区別を軽視したために生じたのではないかと思う。この区別をしないためにかなり危うい形而上学に陥ってしまっている。この結果例えば、「存在させる」というように使役形を使っていることからも分るが、佐藤先生は未来の自分を他者と考えてしまっている(後でもう一度触れる)。しかしこれはおかしな主張であるように思える。自分は自分である。また「可能性でしかなかった様々な自分を現実の存在にし続けている」と書いているが、これは書き方に問題があり、単に自分が死なずに存在し続けているということを「存在にし続けている」という大袈裟な表現で歪めてしまっていないだろうか。もしかしたらここはもっと四次元主義とかを持出して議論すべきなのかもしれない。その辺りは今後の課題とする。

 さて、これらの思考実験が成功しているとしたら以下のようなことが言えるという。

 この二つの事例から見られるように、不作為がもたらすすべての因果的結果に良い・悪いを割り振ってしまうと、現在の私の責任が無限に重くなってしまうという、直観に反する帰結が生じるというのが否定的責任の問題である。それを避けるためには、このような不作為から導き出される帰結は「良い」というよりは、せいぜいが「良いことも悪いこともしていない」とみなすほかない。しかし、その道はベネターが非対称性を主張し、苦痛の不在はYにとって「より良い」とすることで、閉ざされてしまうのである。(130ページ)

この結論は思考実験が失敗していたとしても成立つ可能性はあるが、しかしベネター先生が以下に述べることに注意すれば、反出生主義の議論においては反直観的なことは何も起きていないように思える。佐藤先生は苦痛の不在を「悪くはない」と考えているのだが、少し前で述べたように苦痛の不在の良さを勘違いしている。同じことが前回取り上げたベネター先生の論文で、もう一つのメッツ先生の論文に対する反論として取り上げられているのである。

 次に苦の不在へのメッツ教授の評価だ。彼はそれを「悪くはない」と言う。私はXが存在していない場合の苦の不在と快の不在を評価するにあたって、それらの存在しない経験に内在的価値についての主張をしているわけではないとはっきりと述べたはずだ。そうではなくて私はそれらの相対的なーXが存在するシナリオと比べて相対的なー価値について主張をしていたのだ。故に、苦がないのを「良い」と言うとき、私はシナリオAにおいて苦の存在よりも良いという意味で言っているのである。(45ページ)

「より良い」を「苦の存在よりは」という意味にとれば、それが無限に積み重なったとしても反直観的とは言えない。何もしないことが何かをした時よりも良いということは日常的にもよくあるからである。

 もうひとつ、完全な相対性のほうの議論である。以下のような思考実験(のようなもの)が述べられる。

ベネターは、現在の自分は生き続けることに対して強い利害関心を持つがゆえに、基本的には、反出生主義から自殺は推奨されないと述べる(出典)。現在の人類がただちに絶滅すべきでないことにも同様の議論があてはまる(出典)。しかし、なぜ現在の私や現在の人類の利害関心は、現在存在していない未来の自分Yや未来の人類にとっての「良さ」と「悪さ」に優先するのだろうか。そしてまた、現在の私の利害関心をYの利害関心に優先させてよいのなら、なぜ今、子どもをもとうとしているカップルの利害関心をXの利害関心に優先させてはならないのだろうか。つまり、この問題は、今、判断の主体であるカップルにとっての利害と、他者であるXにとっての利害については、Xの利害が優先されるのに対し、同じく判断の主体である私にとっての利害と、未来のYにとっての利害については、現在の私の利害が優先される、その違った扱いを正当化する根拠は何か、ということである。(130ページ)

(引用中のXとは生れてくる子どものことである。)これは誤解だと思われる。先述のような「存在すること」と「存在させること」の混同と似たような問題がここにもある。「存在しない」ことと「存在させないようにする」あるいは「存在し(てしまわ)なくなる」こと、つまり死ぬことも別なのである。『生まれてこないほうが良かった』では以下のように述べられている。

…存在してしまうことは常に害悪であるという見解は、死が存在し続けるよりも良いということや、自殺が(常に)望ましいということの有力な根拠を含んでいない。人生は、存在してしまわない方が良いと言えるほど悪いかもしれないが、存在し続けるのを止めた方が良いと言えるまでは悪くはないかもしれないのである。(邦訳220ページ)

存在しないことが存在することよりも良いことだとしても、存在しなくなることが良いこととは限らない。存在するものが存在しないものになるには存在しなくなることを必ず経由する必要がある。自殺すること、即ち意思を持って存在し続けるのを止めることの害悪はかなり大きいと私は見積っている。ベネター先生はここをやや曖昧に書いている感じなのだが、私はそう思う。また例えば、ある程度生きるうちに死ぬことの害悪は徐々に弱まっていき、自然な死を迎える頃にはかなり小さくなる、というようなことは十分考えられるのではないだろうか。未来の害悪のなさよりも現在の害悪の少なさを取っているために自殺をしない、という訳ではないと考えうるのである。生き続けることが大きな苦痛を伴う人、例えば重度の障害に苦しみ希望が見えない人や、これ以上生き続けても死の害が弱まることがない人、例えば物凄く長生きしてやることがない人、などは死が推奨されることとなる。しかし以上の議論はだいぶ恣意的である。もしかしたら死亡促進主義が正しいのかもしれない。いずれにせよ佐藤先生の議論は誤った前提に基いていると思う。

 人類全体に関しては、現在未来を合せた人類全体の苦痛の総量を考えた上で段階的絶滅をベネター先生は提案しているはずである。

 つまり、自殺に関しても絶滅に関しても、現在と未来を天秤にかけて現在を取っている訳ではない。それらは地続きであり、場合によっては選択も変りうる。それでも反出生主義や絶滅すべきという主張は変らないのである。

 そうだとしたらカップルが子どもを作ってはいけないという根拠は何か。ここには前回取り上げたメッツ先生によるベネター先生の議論構造への批判と同じものが含まれているようだ。カップルが子どもを産みたいと思い産んだら幸福が得られるということはよくある。そのカップルの幸せと存在させられてしまう子どもの害悪の回避とどちらを取るか。ベネター先生ならば子どもを自分たちの幸せの手段とするなと答えるだろう。メッツ先生はこれは不十分だと指摘している。それに対し私は、存在することの害悪がとても大きいことや生れてくる子どもの同意がないことなども根拠とすべきと考えたのだった。佐藤先生はこのように述べている。

 利害がもたらす理由がおよそ完全に相対的であるなら、どちらのケースでも、判断主体は自分自身の理由に基づいて行為すべきである。すなわち、現在の私は現在の私の利害関心に基づいて生き続けるべきであり、カップルも自分の利害関心に基づいて子どもを作るべきである。(130ページ)

そしてベネター先生の議論では相対的な良さ・悪さを取るはずだから、カップルは子どもを産むべきとなる。だが、その人にとって良いということからその人がそれをすべきということは導かれないだろう。そうだとすれば殺したい人がいる人は殺すべきということも容易に導かれてしまうので。よって他者危害の原則などを考慮したらどうかということになり、しかしそれだと未来の自分という他者の危害を考慮してただちに自殺すべきということも導かれると佐藤先生は論ずる。注で他者危害の原則と非対称性は相性が悪いとも書いている。だが、他者危害の原則のような一般的な原則よりももっと出生に即したものの方が良かろう。それが同意不在の議論である。これは他者危害よりも深刻だと私は考える。また端的に言って、未来の自分は他者ではないのではないか。ここにも同一性の形而上学についての(四次元主義なんかも含む)丁寧な議論が必要だったはずである。これも存在することと存在させることの混同から続いている。生き続けることは未来の自分という他者を存在させることとは違う。ここのところを丁寧に議論すると先程のような自殺回避論になるのである。

 

 私は基本的非対称性は依然として成り立っていると考えるが、佐藤先生の論の流れとしては続いて基本的非対称性が成り立っていないとしたら反出生主義は存在が常に悪いとは言えないために起こる問題を取り上げる。パーフィットの議論に基づいている。これも私にはおかしく思えた。いずれ来る幸福が不幸を上回る時代のために人類を存続させるべきだという。

 たとえば、人類が生きていく上での不幸をなくすのにあと一億年かかったとする。しかしそれでも、そこから先の数十億年は幸福だけを積み重ねていくことができる。したがって、現在、人生において不幸の方が幸福よりも多いとしても、私たちは人類を存続させて、不幸のない世界を生み出すことで、それらを必要な犠牲とみなすことができる。そうすると、私たちの義務は絶滅を受け入れることではなく、それが一億年に及ぶ努力を必要とするとしても、人類の歴史をつなぎ、不幸のない未来の世界を創り出すことになるだろう。(132ページ)

もちろん存在が常に害悪ならばこうはならない。しかし「必要な犠牲」という考え方はよいのだろうか。やや危険に思える。また先述の功利主義批判はここでも当てはまる。わざわざ幸福の総量を増やすために人を作る必要があるだろうか。最大の疑問は、本当にそのような未来が訪れるのか、ということである。ベネター先生はもちろん人生の質の悪さを論じているが、佐藤先生は『ファクトフルネス』を引いて人間にはポリアンナ効果と逆(?)で世界が悪いと思い込む性質もあること、世界は災害や疫病や飢餓に対してより強くなって良くなっていること、を述べている。私はこのベストセラーを読んだことがないかったのでちょっと見てみた。どうもベネター先生と逆のことを言っているわけではなさそうだった。ベネター先生は人が人生の質を高く見積もることを述べているが、『ファクトフルネス』は世界が実際以上に悪いと思い込む人が多い、ということを述べている。また、「世界はどんどん悪くなっている」という思い込みと「現に世界は悪い」という事実は両立するとも書いてあった。世界がどんどん良くなっているとして、現に悪いことに変りないと私は思う。また、本論考が出た後で新型コロナウィルスの流行が始まったのだが、やはりこの頃は楽観的だったのではなかろうか。戦争や気候変動もあるし。

 私が倫理学に疎いからかもしれないが、全体的におかしな形而上学に基いた議論だと感じた。いずれにせよ子どもを産むということの存在論的な意味はもう少し考えられて然るべきで、森岡先生の言うような生命の哲学が望まれると私も思う。

加藤秀一「「非同一性問題」再考」

 これはあまりわからなかった。著者の加藤先生は社会学者という肩書だがかなり現代哲学に精通しておられるようだ。なかなか難しくて私の知識不足でいまいち議論が掴めなかったように思う。私は『生まれてこないほうが良かった』を読んだときも非同一性問題についてはあんまりわからなかったので。

 しかし非同一性問題というのが『ドラゴンボール』のトランクスのタイム・トラベルと似ているということはわかった。

 数的同一性の起源説の話は少し知っていたしおもしろかったが特にコメントはない。

西條玲奈「「痛み」を感じるロボットを作ることの倫理的問題と反出生主義」

 これも斬新でおもしろい論考だった。西條先生は現代形而上学をベースに藝術哲学とロボット倫理をやっておられてなかなかユニークな哲学者だとお見受けする。

 痛みを感じることができるロボットというのは様々な局面で便利であるらしい。確かにそうかもしれない。

 ベネター先生の反出生主義は苦痛を感じる存在すべてに当てはまるので、痛みを感じるロボットを生み出すことにも当然反対することとなる。さらにいうと、例の四つの非対称性はロボットを想定したらよりクリアにすらなるという。私の感覚では、ロボットを作ることは子どもを作ることより不自然なのでより「わざわざ」作った感が出るためかなあと思う。おもしろい。

 痛みを感じるロボットを作ることは倫理的に問題がありそうだが、しかしロボットは所詮ロボットで生き物とは違うということも当然言いうるため、そういうロボットをどんどん作っていこうという流れもあるという。SF作品なんかでは例えばドラえもんのように情緒豊かなロボットがいるわけだが、なんだか急に怖くなってきた。

 さらに衝撃的な主張として、ベネター先生も認める通り人工物にとっても良さや悪さの議論は機能が正常に働くかという面からできるのだから、痛みだけが基準ではない反出生主義の適用もありうるという。つまり、もしかしたら家を建てたりすることも悪しき出生となるのかもしれない(さすがに西條先生はそこまでは書いていないが)。そんなバカな! とも思うのだが、反出生主義も十分そんなバカなという主張なのでなんとも言えない。

まとめ

 今回取り上げた四つの論考は私のような哲学徒にとっては本特集の白眉であったと思う。前半の二つはベネター先生に批判的だったが、私的にはベネター先生の論がより強化されたように思った。

「現代思想」の反出生主義特集を読むその2 デイヴィッド・ベネター、小島和男、サディアス・メッツ

 雑誌「現代思想」の反出生主義特集にコメントしていくシリーズ第2回!

 前回はこちら

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 今回取り上げるのは反出生主義の第一人者ベネター先生の論文とベネター『生まれてこないほうが良かった』を訳した小島先生の論考と『生まれてこないほうが良かった』のメッツ先生による書評。

デイヴィッド・ベネター「考え得るすべての害悪」小島和男訳

 ベネター先生が『生まれてこないほうが良かった』への批判やコメントに反論・回答した論文。ぶっちゃけ批判者たちの原論文を読んでいないので(メッツ先生の批判はあとで掲載さていて当記事でも触れる)あんまりよくわからなかった。のでそんなにコメントはない。

 ただし後半でベネター先生の説は死亡促進主義に繋がるのではないかという批判への反論があって、これは興味深かった。実はTwitterでいろいろな反出生主義言説を検索していても「反出生主義者ってなんで自殺しないの?」というのはよく見られる。Twitterで言ってる人は深く考えていないだろうが、主張としてはこういうのに対する反論である(死亡促進主義は自殺だけでなくさらに殺人も促進するものであろうが)。しかしベネター先生はそれほど積極的な反論は提示していない。批判者は、ベネターはエピクロス派の考え方(死は害悪ではない)への反論に成功していないという。そしてそのために死亡促進主義が導かれるという。ベネター先生の反論は、そもそもエピクロス派は受け入れられていないしそれほど真面目に反論するようなものではない、というものである。存在害悪論とエピクロス派が合わさるとそこから死亡促進主義が導かれるとしても、存在害悪論が死亡促進主義を含意しているとは限らないので。

 私がした主張は極めて限定的なものだ。すなわち「存在してしまうことが害であるという見解は、私が存在し続けることよりも良いということや、またなおのこと自殺は(常に)望ましいということを意味していない」という主張だ。(68ページ)

とのこと。また、恐ろしいことは人生の後半に起こるのでいまは自殺しないとか、自分の人生を継続するに値しなくなるほどではないとか、そういうことも考えられるという。

 とりあえず反出生主義と死亡促進主義は別のものなので、Twitterで見られるような「自殺すれば?」論はまあそもそも乱暴であろう。エピクロス派の考えなどを導入したもう少しちゃんとした議論も確かなものとは言い難いと思う。

小島和男「反-出生奨励主義と生の価値への不可知論」

 これはなかなかおもしろい論考であった。小島先生は分析哲学がご専門ではなく、ベネター先生の複雑で難解な論文とはだいぶ毛色が違ってシンプルかつ大胆かつ実践的な議論であった。

 反出生主義が正しいのか否か、結論はなかなか出ない。またもしベネターの主張が正しいとしても反出生主義が受け入れられることはないだろう。なので不可知論を採用し、どちらでもないとしておこうという論である。その帰結として反出生主義ほど強くない反-出生奨励主義が導かれる。つまり子どもを作ることは悪ではないが事実としてあり、奨励はしない、と。これば反出生主義よりは受け入れやすいだろう。

 なかなか大胆な主張であると思う。哲学のあり方をメタ的に問い直している。小島先生はギリシア哲学の専門家であり、ソクラテスプラトン)の言葉が引かれたりする。そうした哲学の原点からの現代分析哲学への批判である。この主張が正しいのかどうか私にはなかなか判断がつきかねるが、今後も勉強するに際して不可知論ということは意識しておきたい。

 一点コメントすべきことがある。私の専門(一応)である論理学の観点から。

… 「生が良いのか悪いのか分からない」という言明は、「生は悪い」という言明よりも意味の範囲が広い。「生は良いもしくは良くはない」かつ「生は悪いもしくは悪くはない」を意味している。二つとも完全なトートロジーであり、真理であると言える。(89ページ)

とある。「生は良いもしくは良くはない」と「生は悪いもしくは悪くはない」がトートロジーであるというのはその通りと思うが、「生が良いのか悪いのか分からない」の形式化としてこれらの連言を採用するのはあまり良くないと思う(そういうやり方もなくはないとは思うが)。様相論理の一種である知識論理のように、「〜と知っている」を意味する演算子を導入した論理もある。これを使うと「生が良いのか悪いのか分からない」はトートロジーとはならないのである。

サディアス・メッツ「生まれてこないほうが良いのか?」山口尚訳

 『生まれてこないほうが良かった』に対する批判的書評である。けっこうクリティカルな批判であるように私には思えた。非対称性の議論、QOLの議論に出てくる「永遠の相の下」云々、また全体の論理構成それぞれに対して批判が展開されている。ベネター先生は先述の論文でこれに反論しているのだが、ほとんどが非対称性批判への反論に費やされている。この反論は私には上手くいっているように思えた*1が、では永遠の相と全体の構成に対する批判はどうか。

 メッツ先生は「ベネターの議論のうちで最も脆弱なーとはいえ最も興味深いー部分は客観的リスト説を論じるところに現れる」と書いている(108ページ)。私もそう思う。リストは人間の観点から作られているが宇宙的観点からは大したものではない、という議論についてである。メッツ先生はいろいろと批判をしているのだが、ここはもうちょっと考えるべきところであると思う。なんというかまだまだ熟していない。

 また、全体の論理的構成について、メッツ先生によれば、「生まれてこないほうが良かった」というのは福利の次元に属するもので反出生主義という道徳の次元へ行くには橋渡しが必要となる。これは確かにそうだと思う。メッツ先生はこう書く。

…ベネターがいくつかの箇所で次の事態を認めていることも事実である。すなわち、つくり出されるひとに生じる害悪が十分に小さいときには、その他のひとへのより大きな害悪を予防するためにその小さい害悪を生み出すことは道徳的に正当化されうる、あるいはこれはその他のひとへより大きな利益を与えるためであってもそうである、と。そもそも、たいへん貧しい他者を助けるために、力も嘘もつかわず正当に富を得たひとへ税を課すことは許容されうる、というのは今日ほとんどすべてのひとが認めていることである。そしてここではまさに、他者(貧しいひと)の生活の質を高めるために、あるひと(富めるひと)の生活の質を下げる、ということが行われているのである。(98ページ)

これはなるほどである。こういうわけなのでメッツ先生は、反出生主義を導くのに誕生が単に害悪であるだけでなく大きな害悪であることも示す必要があるという。ベネター先生は非対称性による存在害悪論とQOLによる存在がとても大きな害悪であるという論とを分けているが、これらはどちらも必要となる。そしてQOL論証の中で出てくる永遠の相の議論を人生の意味の哲学などを援用して批判する。存在が悪いからと言って意味がないわけではない、など。ベネター先生のこれに対して反論できていないように思えた。

 しかし私の見た感じでは、引用で出てくる税の例は十分ではない。税と違い子どもを作ることは子どもへの同意を伴わないなどの問題があるので。しかしいずれにせよベネター先生の議論では福利と道徳の区別は十分でないということは確かに思われ、反出生主義を導くには同意不在の議論やQOLの議論なんかが不可欠のように思えてきた。今のところ反出生主義はベネター先生ひとりの存在感が大きいが、こうやって徐々にきめ細やかな反出生主義として彫琢*2されていくのだろう。とか言ってる間にもどんどん子どもは生れていくのだが。

まとめ

 前回の段階ではあんまり良い特集ではないというテンションだったのだが、今回取り上げた三つの記事はどれも良かった。

 またベネター先生もメッツ先生も南アフリカの人なのだが、南アフリカの哲学はレベルめちゃ高いのかもしれない。

*1:しかし私はバカなので後出ししたほうが正しいように思えてしまうだけかも。。。

*2:この言葉、合ってますかね?

「現代思想」の反出生主義特集を読む その1 森岡正博×戸谷洋志、小泉義之、木澤佐登志

 森岡先生はエゴサしてそうで怖い…

 

 雑誌「現代思想」の反出生主義特集号をちょっとずつ読んでコメントしていきます。

 今回は最初の記事3つだけ。

森岡正博×戸谷洋志「生きることの意味を問う哲学」

 反出生主義とベネターの議論を日本に広めた(ただしご自身は反反出生主義者である)森岡先生と、ハンス・ヨナスの経験から反出生主義に関心を持った戸谷先生の対談。前半はベネターの話が多く後半はいろいろなことに話題が拡がっていく。

 気になるのはお二人ともベネターの議論の中身よりもベネターの人物そのものに興味があるのかなという点である。特に森岡先生はこんなことを述べている。

ただ私がベネターについて結局よくわからないのは、生まれてこなければ良かったという主張を、彼がどこまで彼自身にとっての実存的な問題として主張しているのかということです。反出生主義に対する批判への彼の応答を聞いていると、やはりどこか分析哲学の知的なゲームとして捉えている面があるような気もします。(11ページ)

森岡先生も戸谷先生も「知的なゲーム」「論理的なパズル」「思考パズル」という言葉をネガティヴなニュアンスで使って論じている。しかし私は別にそれで良いと思う。問題を思考パズルに落し込むことこそが哲学の強みではなかろうか。というか哲学にできることなんてせいぜいそれくらいのものだと思う。森岡先生が反出生主義に興味を持ったのはご自身の悲しい過去がきっかけとのことだが、だからといって森岡先生が優れた反出生主義の論客になるわけではない(「タフ」じゃあるまいし)。また、実存的に捉えていようといまいと反出生主義者がやることは子どもを作らないことくらいなので別に問題はないように思う。実存的に捉えたうえで子どもを作らないから立派、ということもないだろう。ベネター先生は多分子どもはいないですよね? 知らないのだけれど。

 というわけで、前半は哲学というよりゴシップ的な興味が強い対談であった。戸谷先生のおっしゃるようなユダヤ系の思想家に出生主義が多いのではという話も私にはゴシップ的なものとしか思えなかった。後半はというとお二人が今後の展望なんかを語っていてあまり具体性がない。哲学徒には得るもののない記事かもしれない。思想史的には重要かもしれないが*1

 雑誌の後のほうで寄稿しておられる西條玲奈先生がトゥイッターで以下のように反応していた。

私は「ぶしつけ」とまでは思わなかったが(単に詮索しても意味がないというだけで)、まあ私と似たようなご指摘である。これに対する森岡先生の反応が以下

反論になっていないように思える。森岡先生の意図はなんだろう。

小泉義之「天気の大人 二一世紀初めにおける終末論的論調について」

 この小泉先生という方は郡司ペギオ幸夫先生のよくわからない本によくわからない褒め方をしていたことがあって信用ならんと私は思っている。

 一応読んだのだが、この記事が巻頭対談の次に来るということは「現代思想」の読者のニーズがあると思われているのかなあと悲しい気持ちになるものだった。「天気の大人」というタイトルは「天気の子」のパロディである。この号が出た頃は「天気の子」が流行っていたので。う〜ん。そして本論ではいきなりアベンジャーズの話から始まる。う〜ん。タイトルといいアベンジャーズといいなんというかスベっているような…。まあまあまあ。

 私はアベンジャーズを全然知らないのだが、サノスというのが悪役で生命体の絶滅を目論んでいてアイアンマンやアベンジャーズがそれを防ぐべく戦うらしい。で、ベネターが『生まれてこなければ良かった』第6章で「段階的絶滅」を提唱するのをサノスとアベンジャーズ双方に配慮したかのような「日和見」だと小泉先生はいう。今まで極論を述べてきたのに段階的と言い出すのはどうなのか、ということらしい。

 さらに、

ベネターは、こう言い訳をしている。「私の擁護する見解への抵抗は強いでしょうから、この本や中身の議論が、現実の子作りに対して何らかの影響を及ぼすことは期待していません。多大な害悪を引き起こすにもかかわらず、子作りは今後も阻止はされないでしょう」。理屈をご覧あれ、楽しんでいただけたでしょうか、でも、現実は理屈通りにならんので、あとは諦観。それが昨今の「学」である。(22ページ)

と続ける。ベネター本の前書きから引用している。またもやベネター本人への非難である。後半では気候変動と活動家のグレタさんを持ち出しているのだが(小泉先生はグレタさんのことを「天気の子」と呼んで日和見的な人びとを「天気の大人」と呼んでいる)(そういえばこの頃はグレタさんも流行っていた)、どうもベネター先生がグレタさんのようにならないことが小泉先生は不満らしい。しかし先述の通り私は哲学にそんな大層な力はないと思う。まして哲学者はヒーローでもヴィランでもないんだからアベンジャーズを持ち出されたとて、である。

 一つ指摘しなけらばならない。小泉先生は段階的絶滅の提唱と「現実の子作りに対して何らかの影響を及ぼすことは期待していません」という言葉とを日和見として同列に扱っているが、前者は議論の中身で後者はベネター先生の感想である。これらは違う。仮にベネター先生がグレタさんのような活動家になったとしても、別に段階的絶滅という主張は変らないと思う。

 2022年のいま、コロナ禍とか陰謀論とかロシア=ウクライナ戦争とか終末論的な傾向はより深まっているので、この記事で書かれていることもまだまだ日和見的だったなあ、とも思った。

木澤佐登志「生に抗って生きること 断章と覚書」

 木澤先生という人はロシア宇宙主義についておかしなことを書いていたことがあるのであまり信用していない。このことについてはいずれ書く機会があれば。。。

 さて今度は「断章と覚書」ときた。読めばわかるが明らかに未完成の論考である。体言止めのような形の完結していないような文がちらほらある(そういうレトリックかもしれないがだとしたら尚更感心しない)。どうした「現代思想」!

 木澤先生という方は博識というか衒学家で美文家のようである。まあ私のような歴史の勉強をサボってきた人間にはなかなか勉強になることが書かれているのも事実である。

 優生学貨幣論(?)を中心に据えて、そこから反出生主義にちょっとだけ触れている。シオランが引用されていてベネターの話はなかった。議論の過程をまとめるとこんな感じである。

  • 世の中には生産性というものに対する根強い信仰がある。
  • 優生学はその現れである。生産性のない人間は存在しないべき。
  • 貨幣の起源は負債の記録である。
  • 人間は生れながらに負債を負っていて、それを返すために生産する、という考え方が根底にある。
  • そのようにして国や共同体はできている。

さて、貨幣論と人生負債論がどのように繋がるのかというと、こんなことが書かれていた。

 原初的負債論に従うならば、貨幣の起源には人間本性に備わっている存在論的な表象作用としての〈原負債〉の観念があり、それは同時に主権的諸権力の発生と宗教的ないし社会的共同体の起源に結びついている、ということになる。(36ページ)

よくわからない。存在論的な表象作用ってなんだろうか。表象作用に存在論的なものがあるのだろうか。存在論的ってそもそもなんだろう。人間本性にそんなものがあるというのもここで唐突に出てくるのだが俄かに信じがたい。おそらく「貨幣の起源は負債だ」「貨幣は人間の本質を反映している」よって「人間の共同体は負債を基礎としている」というような議論だろう。しかし貨幣論と人間や共同体の議論を繋ぐ架け橋がこのような一文で済まされてしまっているが、そうはいかないだろう。ここのところは勢いで書かれてしまっている感じがする。故に貨幣論や貨幣の蘊蓄を持ち出した意味があまり感じられない。まあ覚書だから仕方ないか。

 反出生主義はこうした負債をあらかじめゼロにすることで生に抗う思想だ、というのが木澤先生の考えのようである。反出生主義について述べられている箇所があまりに少ないので読解に自信は持てないが。しかしトゥイッターなどで観測される反出生主義はそういうものではないように思う(シオランはそうなのかもしれないが)。生産性への嫌悪感というより辛い経験への悔しさみたいなののほうが多いのではないか。

まとめ

 というわけで冒頭の三つの記事はあんまり良くなかった。「現代思想」読者はこういうのを呼んで勉強した気になるのだろうか。まあ後のほうの佐藤岳詩先生の論考なんかははじめのほうに置くにはいかつすぎるか。

 このシリーズ記事はまだ始まったばかりなので乞うご期待。

*1:哲学と思想史は違うのか、とか言い出すとややこしいかもしれませんが…