曇りなき眼で見定めブログ

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【キー・ワードは非対称性】ネット上の反出生主義言説を読む(東浩紀、川上未映子、永井均)

 反出生主義シリーズ。↓ベネターの基本書を読んで得た知見をもとにいろいろ書いていくぞ!

cut-elimination.hatenablog.com

 インターネッツ上で反出生主義に関する言説をいろいろと見たので物申していくのが今回のテーマ。

トゥイッター上の@反出生主義者たち

 Twitterで反出生主義を検索してみると驚くほどたくさんヒットする。名前の後ろに「@反出生主義」と付けている人なんかもいる。もちろん否定的に言及する人も多い。見た感じの印象ではベネター先生の本をしっかりと読んでいる人は少なそうである。反出生主義という思想がどういうものでどういう動機や根拠を持つものとTwitter上で捉えられているか、パターンとしてはこんな感じか

  • なんらかの辛い体験から生れてこないほうが良かったと考えるようになった人の思想
  • そういった経験から自分は産むまいと考えている人の思想
  • この世はヒドい世の中だから子どもを作るべきではないという思想
  • (なかなか差別的だが)障害のある人やトラウマ的な経験がある人はそれらを再生産しないために子どもを作るべきではないと考える思想

 この思想に至った、あるいは知った筋道は人それぞれだろうからいろんな意見がある。ただ哲学的な中身のある議論はTwitter上ではまあ見られない。しかしこれは当然で、むしろ哲学的に中身のある論争をスタートさせたベネター先生が偉いのだろう。

 でまあとにかく非対称性というのを理解している人はTwitter上には少なそうだった。しかし実はこれはプロの哲学者?思想家?でもそうであるというのがここからのお話。

東浩紀

 東浩紀大先生*1がゲンロンのウェブサイトで会員の方からの反出生主義に関する質問に答えていた。これを読んでみる。

www.genron-alpha.com

 「東さんは自身の子どもが生まれるに際して、反出生主義的な言説(子どもが幸福になれるか分からないのに子どもをこの世界に生み出すことへの躊躇い)をいかにして退けましたか?」というような質問である。それと「親は子どもの幸福という倫理的責任をどこまで引き受け、どこまで開き直るべきなのか」というのと。これに対してあずまんはまず

ぼくの娘が生まれたのは2005年です。当時は反出生主義という言葉はありませんでした。しかしそういう戸惑いはだれでもあり、むろんぼくにもありました。それでも娘ができたのは、べつにその問題を哲学的に乗り越えたからというのではなく「なんとなく」としか答えようがない。

と答える。なるほど。しかしこの後で

そもそも子どもって欲しいからできるというものでもない。欲しいと思ってもできないことはあるし、逆に欲しくないと思ってもできることはある。

と述べているのはおかしいのではないか。だって欲しくないと思っていたら避妊(や中絶(はちょっと負担があるかもしれないが))をすればよいのだから。欲しくないと思っていてできるということは現代日本の成人ならばものすごく可能性の低いことだと思う。性知識のない子どものセックスとかレイプによる妊娠とかを想定しているのだろうか。だとしたらまあそうか。

 さて、その先。

また、子どもを幸せにしたいと努力したからといって、必ずしも子どもが幸せになるわけでもない。いくら努力しても子どもが不幸になることはあるし、逆に放置していても子どもが幸せになることもある。

なるほど、確かにそうだ。しかし子どもを作るべきかという反出生主義の議論からもう一つの子どもの幸福に対する親の責任という問題のほうへ上手くレトリックですり替えられてしまったようにも感じる。

親は「なんとなく」子どもをつくるしかない。だって、その結果なにが起きるかは、変数が多すぎてほとんどなにも予測できないのだから。子どもが生まれたあとなにが起きるかも、そもそもどんな子が生まれるかも、否、それ以前に生まれるかどうかもわからない。それでもつくるしかない。

雲行きが怪しい。「子どもを作るべきか」というような話が反出生主義なのに「つくるしかない」とか言い出しておられる。特に根拠はない。

親は子を幸せにしたいと願うかもしれない。しかし子はそれとは「無関係に」幸せになったり不幸になったりし、しかもそれを親が原因だと思う。そしてまあ、おまえが原因だといわれれば、たしかに親なんだから責めは一身に負うしかない。その関係こそが、ぼくが親と子の、あるいはより一般に加害者と被害者の「非対称性」と呼んでいるものです。親になるということは、その非対称性を受け入れることです。子どもをつくるとはそういうことです。

子どもを作るとはそういうことかもしれないが、それが良いのか悪いのかということは棚上げされてしまっているではないか。また、この「非対称性」というのはベネター先生のとは違うのでややこしい。あずまんはベネター本を読んでいないのかもしれない。まあ特に関心もなさそうなので読んでいなくても不思議ではないし別に悪くはないよ。

 で、

あちこちでいっているように、ぼくは最近は親=加害者側から哲学を組み立てることに関心があります。「親」という言葉に反応して誤解も広がっていますが、それはべつに、みな子どもをつくるべきとかいった単純な主張ではない(というか、そんな主張をぼくがするわけがないと思うのだけど)。そうではなく、加害を恐れるなという主張です。人間は、子どもを作ろうと作らなかろうと、一定時間生きていればかならず親=加害者側に立たされることがある。それを恐れていてはなにもできない。そもそも生きることができない。哲学はその原点に立ち戻るべきだと、「政治的正しさ」に満ちたリベラルの言論界を見てつねづね考えています。そんなぼくからすれば、反出生主義は典型的な子=被害者側の哲学なわけですね。──と、まあ、哲学的な回答はそんな感じですが、

ここがあずまんの議論の核心と思われるので長めに引用したが、正直なにを言っているのかよくわからなかった。これがあずまんの「哲学」らしいのだが哲学というよりなんだか人生訓のようだ。

 最後のほうは(良くない言い方をすると)「老害」っぽさが炸裂してしまっていてなんだか悲しい。

プロフィールをみると質問者の方は20代で男性。ぼくもむかし「20代の男性」だったのでなんとなくわかるのですが、その時期の男性、というといまやジェンダー的に問題かもしれないので「妊娠できない生殖器をもつ性自認が男性のひと」といったほうが正確かもしれませんが、とにかくそういうひとは、なんといっても妊娠するのは他者の身体なのでやたらと観念的に家族とか子どもとか考えがちで、きっとこの質問もそういう悩みのはてに投稿されているのだと思います(誤解かもしれませんが)。

誤解だったらどうするのか。あと私はこういう哲学的な問いに対して背後の人生観なんかを持ち出すのはフェアでないと思っている。どういう人のどんな問いも普遍的なものと捉えて普遍的な答えを出すのが学問ではないのか。ただ実はあずまんは哲学を学問ではないと捉えている節もあるので難しいところだが。

 最後の最後

しかし、じっさいに子どもができればわかりますが、現実はいささかも哲学的ではなく、まったく解釈の余地のない膨大な量の雑事がじゃんじゃかじゃんじゃか襲ってくるだけのたいへん唯物論的な経験です。子どもをつくり育てる可能性を検討するのであれば、じっさいに考えるべきは、反出生主義の乗り越えとかではなく、職場の近さとか家の広さとか保育園の当選確率とか親のサポートとか車の運転免許とか、あと金とか金とか金とかでしょう。

やはり変である。反出生主義の乗り越えというのは子どもを作るべきか否かという話なのに何故か子どもができた後の心配のことを言っている。

 なんじゃらほい。東先生はたぶん反出生主義について調べたり考えたりしたことはそんなにないのだと思う。だったらそう書けばいいのにな〜と思った。しかしそれだと娘さんが可哀想かもしれず、ここが反出生主義の論争をやるうえでの難しさだ。

川上未映子×永井均

 作家の川上未映子先生の小説『夏物語』が反出生主義をテーマにしたものらしい。これはそのうち読むこととする。この作品を巡る川上先生とその師匠であるらしい永井均先生との対談がウェッブにあったので読んでみた。作品の内容に踏み込むところは読んでいないので触れないこととする。

web.kawade.co.jp

 対談は「反出生主義は可能か~シオラン、ベネター、善百合子」と題されていてベネターの名前が出てくる。ベネターについての部分を読んでみる。ちなみに善百合子というのが小説に登場する反出生主義者の名前らしい。シオランについては私はまだ不勉強でよくわかっていない。対談の後には永井先生の論考「善百合子の主張」も掲載されていてこれも読んだ。

 冒頭でこんなことが言われている。

川上 … 反出生主義について説明をすると、大きく2つに分けられると思うんですね。まず、「生まれてきたくなかった」という気持ちを軸に、「産むべきじゃない」と主張するのが一つ。人間は愚かで、こんなことを繰り返している世界に産んでもしょうがないじゃないかと。あるいは、経済的に自分たちが生きていくだけで精一杯なんだから、子どもなんか育てられないという、資本などの条件が絡んだチャイルドフリー的な考え方。

 もうひとつは、そういった形而下的なことに軸をおかず、「産む」ということ自体が倫理的ではないのではないか、というゼロ次元的な反出生主義。

これは前半で触れたTwitter上の言説をよく表していると思う。「ゼロ次元的」というのの意味はよくわからないが。

 対談で私が気になったところを取り上げる。

川上 … 中でも、「生まれてくることは害悪である」とし、初めてそれを分析しようとしたのがベネターで、それに比べると、シオランショーペンハウアーなど文学者の言う反出生主義の手触りってふわっとしていますよね。

永井 そうですね。要するに自分が生まれたくなかったということですね。簡単に言えば、人生が嫌だ、と。

川上 そうそう。「人生はこんなにも素晴らしい!」というのと同じですよね。いっぽうベネターは、功利主義的な立場から踏み込んで、ロジックを組み立てています。私たちは生まれてきて幸せなことがある、でも不幸や苦痛もあるということを軸に論を展開していきます。たとえば、十人いるうちの九人の子どもが幸せに生きたとしても、確率的に言うとその中の一人が苦痛に満ちた人生を送る。全員が全員幸せであることはないし、自分に災いが起きなくても誰かに災いが起きたときに、それに対して心を痛めるといった悲しみや苦しみが常に人生にある以上、やはり人は生まれてくるべきではないのだという論を展開しています。

これはちょっと怪しい。何が怪しいのかというのはこのあとの永井先生の話でよくわかる。

永井 まずはこの表を見てください。ここにベネターと善百合子に共通する思想が示されています。「幸福(快楽)」と「不幸(苦痛)」については、漠然と理解してください。「幸福(快楽)」というのは、なんとなく快適なこと、気持ちのよこと、幸せなことで、「不幸(苦痛)」はその逆の、なんとなく嫌なこと、苦痛なこと、というふうに。ともあれ人生にはこういう対比があって、人はみな「不幸(苦痛)」の側を避けて「幸福(快楽)」の側を得ようとしている。これが功利主義という考え方の基本前提です。「産む(存在させる)」と「産まない(存在させない)」のほうは、そういう曖昧さはありませんが、善百合子が出している、十人の眠っている子どもを目ざめさせるという比喩で表せるような意味で考えてもいいし、「善百合子の主張」にも書いたように、一人の子どもを産む場合で考えて、その子がどういう経験するか、を考えてもいい、そういう問題の広がりはあります。

 この二つを照らし合わせてみると、「幸福な人生を生み出す」ことはもちろんよいことなので○。「不幸な人生を生み出す」のはよくないので×。「幸福な人生を生み出さない」ことは、とくによくはないけど、そんなに悪いわけではないので△。「不幸な人生を生み出さない」ことは、そうすべきことなので、○。

 このような考え方を、ネガティブ・ユーティリタリアニズム(消極的功利主義)と言うのですが、この考え方をベネターはとっています。善百合子も理論的バックボーンとしてはこれを使っている。これはこれ自体で色々な問題があるのですが、反出生主義の議論ではこれが独特の仕方で使われるわけです。

怪しいどころか間違っている。その前にまず、「この表」と言っているのは私が前回のブログでも書いた非対称性を表す4つの状態を表にしたものである(前回のブログと対談のリンクを見てね)。また「このような考え方を、ネガティブ・ユーティリタリアニズム(消極的功利主義)と言うのですが」と言っているが「このような考え方」というのは幸福の総量を最大化するのではなく不幸の総量を最小化することを最優先とする功利主義のことである。

 ベネターの反出生主義は消極的功利主義を採用しているわけではない。本の中でそれに触れて支持している箇所もあるのだが、非対称性の議論の核心はそこではない。おそらく永井先生は『生れてこなければ良かった(Better Never to Have Been)』を読んでいないのではないかと思う。

 確かに消極的功利主義を採用すれば反出生主義が導かれそうだ。人生にちょっとでも不幸があるということは誰にとってもそうだし、生れなければ/産まなければそのような不幸をゼロにできる。しかしそうすると不幸はちょっとだけであとは概ね幸福であるような人生を否定する際に論拠として弱いように思う。何故そういう人生はいけないのか? という問いに「消極的功利主義なので」という答えでは不十分だろう。ベネター先生の非対称性の議論はそういった人生も悪いものであると主張するほど強いことを言っている。すなわち表でいう左下の△は左上の○と比べて悪くないという主張なのである。こうすれば存在することは不幸の総量など考えるまでもなく、ちょっとでも不幸のある人生は悪い。ちょっとでも不幸が生じた時点であらゆる面で表の下側が上側を上回るからだ。人生に不幸はつきものなのでよって人生は常に悪い。永井先生は「「幸福な人生を生み出さない」ことは、とくによくはないけど、そんなに悪いわけではないので△」と述べているが、ベネターが言うのは「そんなに悪いわけではない」とかそういう功利計算上の悪くなさではない。実際にどう考えても悪くない、のである。

 対談では「賭け」という言葉が頻出する。つまり産んでしまったら表でいう○になるかもしれないし×になるかもしれないということだ。しかしベネターの議論では賭けになるまでもなく産むことは悪いことである。この対談はあんまりベネターの議論が踏まえられていないちょっと悲しいものであったなあと思った。

 後半は妙に観念的な話になるので割愛。神とか宇宙とか。作家にとってはそういう話のほうがおもしろいのだろう。

とかいいつつも

 ベネター本の書評記事でも書いたが、私はネガティヴなのでどうしても反出生主義に共感してしまう。東浩紀大先生はいろいろ大変そうだがなんだかんだ人生楽しそうだし、川上未映子先生など自分のことが大好きそうだ。やはりこういう人たちとは相容れないものがあるのだろうか…。まあ川上先生はその割に(とか言ったら失礼だが)よく考えてらっしゃると思うが。

*1:大先生とか書くと皮肉みたいですが最早この人は大先生としか呼びようのない存在になっているように思われます。

【反出生主義】ベネター『生まれてこないほうが良かった 存在してしまうことの害悪』を読んだのでまとめと感想

 前提として私は鬱傾向にあり治療中であるということを押さえておかねばならない(そのせいで久しぶりのウェブログ投稿である)。反出生主義に同意するかどうかというのはその人の精神状態がどうしても関わってしまう。私みたいに病んでネガティヴな人間は人生を悲観的に捉えがちでそのために「生れてこなければ良かったな〜」とか考えがちである。というわけでけっこうバイアスがかかったうえでの書評。

はじめに

 読んだのは南アフリカの哲学者デイヴィッド・ベネター先生(以下:ベネター)の『生まれてこないほうが良かった 存在してしまうことの害悪』という本である。"Better Never to Have Been - The Harm of Coming into Existence" というのの邦訳。訳者はギシリア哲学の研究者(小島和男・田村宜義両先生)で現代倫理学は専門外なので注や解説がまったく充実しておらず翻訳で読むメリットは特にない。邦訳で読んだのは私の英語力の不足のせいである。御免。

 本書は分析哲学的な倫理学の本である。その方面の反出生主義の基本文献であると思う。反出生主義というと深遠なテツガクっぽさがあったりフェミニズムなんかと結びついた過激思想という面もあったりするが本書はもっと硬派でシンプルな本である。私は論理学や論理学の哲学が専門だが分析哲学や現代哲学一般の本もそこそこ読んでいるので議論を追うのはそれほど難しくなかった。難しいところもまあまああったが。

ベネターの主張

 ベネターの主張は章ごとに明快であるのでそれを書き出しておく。ただし4章は難しかった。ただ重要なのは2章と3章である。

  • 1章は序論なので置いておいて、
  • 2章の主張は存在してしまうことは常に害悪であるということ、これには非対称性に基く論証というのをしている。
  • 3章は存在してしまうことがどれほど害悪であるかを述べている。存在してしまうことは単に害悪であるだけでなく物凄く悪い。
  • 4章は難しくてよくわからなかったのだが、子どもを作る義務などなくむしろ作らないようにする義務がある、という主張である。
  • 5章は中絶の議論である。子どもができたら(妊娠初期に)中絶すべきだと主張する。この章もまあ難しい。
  • 6章は人口について。人類の理想的な人口はゼロ、すなわち人類は絶滅すべきだという話である。しかもなるべく早いうちに。
  • 7章はまとめで、哲学的というよりもっと常識的な予想される反論に対して再反論している。宗教的見解への反論など。

2章の議論

 2章は非対称性という独特の仕掛けを使った議論が展開される。というのはこんな話

  • 苦痛が存在しているのは悪い A
  • 快楽が存在しているのは良い B

というのはもちろんである。これは対称的だ。しかし苦痛や快楽が存在していないときには次のように非対称になる。

  • 苦痛が存在していないことは良い C
  • 快楽が存在していないことは、奪われる人がいないに場合に限り、悪くない D

このような非対称性があることを正当化するためにベネターは、4つのまた別の非対称性を持ち出して、この非対称性が4つの広く受け入れられている非対称性をよく説明している、という論法を用いる。これについては詳細は避ける。Dが独特な点だがむしろCが怪しいような気もする。「良い」ではなく「悪くない」ではないのか、と。ここが味噌で、我々は例えば飢餓に晒される子どもがいなくなることを結構なことと喜ぶが(C)、幸福な人が生れないことを悲しむことはそれほどない(D)*1。これが非対称性である。本記事の最後に書いた思考実験も参照。

 存在してしまうことが害悪であるというのは、AよりCが良いのは当然として、Bと比べてDが悪いわけではないということによる。苦痛があるケースでも快楽があるケースでも、存在しないことが悪くなるということはない。快楽の総量が苦痛の総量を上まわっていれば生れて良かったとなるのではないかというのが反出生主義に対するよくある反論だが、これは非対称性をよく理解していない。ベネターは、存在してしまうことは常に害悪であるという。苦痛が一切存在しない人生ならばAとCが同じになるが、そんな人生はないだろうということだ。

3章の議論

 2章の議論に同意できないにしても、3章の議論を読めば反出生主義に同意するかもしれない。また2章では存在することは害悪だと述べたが、3章では存在することはとても悪いと述べる。

 ベネターは、心理学の研究成果を援用して、人間はけっこう楽観的だということを述べる。これをポリアンナ原理という。自分の人生は良いものだと述べる人は多いが、実は実際以上に良いものだと思っているだけだという。私は心理学に全く詳しくないので、この議論が正しいのかどうかはよくわからない。進化論的に人生は良いものだと思っていないと子作りに向わないというようなことも書かれていたが(79ページ)、悲観的であったほうが危険に備えることができるようにも思う(というのも原注では触れられているが)。

 しかし、続いてベネターは人生の質に関する哲学的な説それぞれに沿って人生の悪さを論じているのだが、ここはなかなか説得的である。人生の良し悪しの基準として主に快楽説と欲求充足説と客観的リスト説というのがあるのだが、どれも楽観的なバイアスを免れていないのである。欲求充足説というのは欲求が満たされることが人生における良いことだという説だが、欲求が満たされるのは一瞬でまた次の欲求が生じるし、ほとんど常に人は不満であるということだ。これはそう思う。客観的リスト説というのは良いことの客観的リストを(哲学者があれこれ考えたうえで)提示してそれが満たされている人生は良いとする説だが、このリストがそれほど大したことはないのではないかとベネターは述べる。ここで永遠の相のもとでという哲学史上の有名フレーズを持ち出しているのだが、これは宇宙の規模からすると大したことないというクトゥルフ的な話のようだ。哲学の論証としては大味だが、私は面白いと思う。

 反論として、「良いと思っているだけで本当は良くない」というが良いと思っていればそれで良いのではないか、というものが考えられる。これは訳者解説でも触れられていた。しかし、私見だが、これはまだ反論として不十分だと思う。倫理学的に考えるならば良いか悪いかを論じるべきで、「良いと思っていればそれで良い」というには、「良いと思っていることは確かにそれだけで良いのだ」という更なる議論が必要であろう*2

 ベネターは本章の最後で、病気、災害、飢餓、戦争など世界は苦痛に満ちていると述べる。ううむ。

6章の議論

 人類は絶滅したほうが良い。これは反出生主義からしたらまあ当然の結論である。ここでベネターは、それがどのようにして、どれくらいのスピードで果されるべきかということを論じる。(もちろんすぐに全人類が消えるのは難しい。あとベネターは自殺を推奨しているわけではないしもちろん殺人などもってのほかである(中絶は勧めるが)。)

 絶滅は早ければ早いほうが良い。ちょっとこの辺りの議論も難しいところがあったので一部だけ抜粋する。要するに、絶滅が長引けば長引くほど存在する人類の総量は増えて害悪を被る者の数が増えるので良くないのだ。

 また、私が気になっていた点なのだが、現代日本が遭遇しているように、人口の減少は労働人口の減少などの問題を引き起こす。つまり、絶滅の過程の終りのほうに存在する人ほど苦痛が増えるのではないか、この点も触れられている。ベネターは、人類はいずれは絶滅することは決まっていると考えている。ならばそれは早いほうが良いではないか、これがベネターの議論である。なかなかシンプルで面白い。しかし、人類は本当に絶対にいずれは絶滅するのだろうか? 反出生主義が浸透せず、どんな社会問題も環境問題も解決して永続するということはないのか? 私にはこれは時間論とかちょっと形而上学のヤバイ議論に踏み込んでいるように思えた。

7章の死と自殺についての議論

 7章ではベネターの反出生主義に向けられるありがちな批判に反論している。特にここでは「反出生主義は自殺を推奨するのか?」という批判への反論を書いておく。

 ベネターは決して自殺を推奨しているわけではない。死に関する議論として、死は害悪ではないというエピクロス派の議論が取り上げられる。死の瞬間は一瞬で、死ぬ前も死んだ後も死の苦痛というのはない、というのがその主張である。ベネターはいろいろと反論しているが、要するに死は害悪ではない一方で良いものでもない。存在することが良いことだと考えないということは、酷い人生ならば自殺したほうが良いということには同意せざるをえない、とベネターは述べるが、やはり残された家族や友人の苦しみとも比べるべきだという。けっこう常識的な結論である。

おもしろい思考実験

 分析哲学は思考実験を多用する。非対称性を擁護する議論の中で出てきた4つの非対称性の一つとしておもしろい思考実験があったので書いておく。

…苦痛に彩られた人生を生きている異国の住民のことを思うと確かに悲しくなる訳だが、人の住んでいないある島のことを耳にしても、もし存在していたらその島に住んでいたであろう幸福な人々のことを思って同じように悲しくなったりはしない。同様に、火星に住んでいない人のことを思って本当に悲しくなる人は誰もいないし、そのような可能的な存在者が人生を楽しめないことを悲しく感じる人は誰もいない。(44ページ)

 

*1:ここはポジティヴは人は同意しかねるのかもしれないが、非対称であるということは確かであるように思われる。

*2:なんかわかりにくくてすみません。

「直観主義型理論(ITT, Intuitionistic Type Theory)」勉強会ノート其ノ弐拾四「宇宙」

 暫定版。

 あんまりわからないのでわかった点だけ箇条書きする。

 

  • これまでに導入した型はすべて有限の型である。何故なら型構築演算の反復(iteration)は有限回しかできないから。言語の表現力を上げるには宇宙(universe)を導入して超限の型(transfinite types)を入れる必要がある。
  • すべての集合の集合は作れない。何故ならそれ自体も集合になってしまい完全に規定できないので。だが圏論などですべての集合の集合は必要になる。
  • (よくわからないが)宇宙の作り方は、型構築の操作を可能的に超限回反復して閉包を得ること。その方法にはラッセル流とタルスキ流の二通りの方法がある。
  • ラッセル流は普通にUという型を導入する。型構築演算はUのカノニカルな要素を得る演算でもある。これは分岐型理論と似ている。タルスキ流はタルスキ真理論に由来するらしいけれどよくわからない。
  • U自体はUの要素ではない。もしそうだとすると矛盾が発生する(ジラールのパラドクス)。
  • ペアノの第四公理 (\forall x \in {\mathbb N})\lnot I({\mathbb N}, 0, x') \; true が証明できる。ペアノの第四公理というのは、0は何ものの後者でもない、というやつ。

フェミニストと闘うための理論武装講座その1 大原則編

 甲「理論武装で攻め勝ったと思うな バカタレ!」

 

 皆さんも日々多く目にしていることだろうが、インターネッツ上でフェミニストと思われる人たちのご活躍が著しい。そしてだんだんとフェミニストというのはマンガやアニメなどいわゆる二次元の表現やポスターやお笑い芸人にいちゃもんをつける人たち、なんかいつも怒っているわけのわからない人たち、みたいに見られるようになってきていると思う*1

 これでは健全な議論ができない。トゥイッターなんかはメディアの特性上、言ったら言いっぱなし、自分の味方に向けてのみ演説する、といったことができてしまい、議論にならなかったりする。フェミニストもアンチフェミニストも内輪で敵への皮肉を言って終了、みたいなことはよくある。そういうのは歯痒い*2

 というわけで、フェミニストに対してしっかりと言論で対抗する方途を考えましょうや。適当に罵って嘲って(あるいは署名して(これはありか))終りではなく、最近流行りの「論破」で対抗するのである。そのために私はいろいろ勉強してきていて、そうして得た武器を皆さんに授けたい。

 今回は大原則編なのであんまり細かいところには立ち入らない。目次にあるような5つの原則のみです。その2、その3と続いていく予定なので徐々にやっていきます。

原則1・女性差別は歴史的に存在する(がしかし)

 女性差別は確かにある(あった、あってきた)というのは大大大原則である。ただし、いろいろと細かい問題はある。

 まず、何をもって「差別」というかは難しい。哲学的な難しい議論に陥ってしまうかもしれない。とりあえず歴史的に男女の権利や機会の不平等は確かにあった(ある、あってきた)ということは確認しておきたい。

 参政権を例にとってみる。日本で普通選挙が実現したのは1925年のことである。「普通選挙」というのは誰でも投票できる選挙ということだろうが(正確な定義は知らない)、しかし選挙権が与えられたのは男だけであった。女性の参政権(投票も立候補も)が一般に認められたのは(例外は以前からあったようだが)戦後になってからである(日本国憲法で認められているが、日本国憲法施行のちょっと前かららしい。Wikipedia情報)。この20年のギャップは女性に対する差別であろう。

 さて問題は、現在もこうした差別あるいは不平等があるのかどうかである。確かに参政権は平等になった。しかし日本の女性議員の数はいまだに少ない。この原因はもちろんもっと大きく漠然とした社会構造のほうにあることになる。選挙の仕組み上は誰でも議員になれるので。(現代の)フェミニストの多くが問題にしているのは、この漠然とした社会構造なのである。

 もう一つ、2018年、東京医科大学やその他の大学医学部で入試の得点が男女で調整されていたのが明らかになるという事件があった。女子は一律に減点されて男子が合格しやすくなっていたのである。これも差別あるいは不平等である。こんなことが現代でもあるのだなあという衝撃もあろう。

 さて、参政権が男にしか認められなかったのは、当時としてはそれなりの合理性もあったのではないかと思われる。男は働いて闘って、女はそれを支えるもの、という価値観があり、なので*3男に大きめの権利が与えられていたのであろう。しかし先述のとおり問題はこの「合理性」が生れてしまう背景である。医大の入試の件も、女は結婚したら職を辞してしまうことが多いので医師養成機関としては男子を優遇するという理屈があるらしい*4。やはりここでも、女性のキャリア形成に難があるという社会構造も問題とすべきである。筆者は某超一流大学の哲学の院生なのだが、女子の院生は非常に少ない。もちろん入試の不正などない(はずである)。機会は平等でも価値観やキャリア形成の問題として「女が学問に打ち込むなんて」みたいなのがあってはいかんのである。

 原則1で私が言いたいのは、フェミニストは社会制度だけでなくそうした制度の背景や制度で救いきれない社会の根本の価値観を問題にしていてしばしばその議論が抽象的になりすぎる、ということである。例えば「女性議員を増やせ」と言ったところで、女性にも平等に参政権が与えられているわけだから立候補して投票すればいいだけ、となってしまう。なってしまうがそうではなくて、という部分でフェミニストは家父長性だとかマルクス主義だとか難しい議論を出してきてしまい、なんだか現実から乖離した感じが出てしまう。ここを丁寧に理解して反論するのが建設的であろう。

原則2・現代フェミニズムはかなり複雑である

 そうした結果、現代のフェミニズムは話がどんどん複雑になってきている。

 ミニスカートはフェミニストが広めた、みたいな話を聴いたことがないだろうか。これはたぶん正しい(よくは知らないが、どうもそうらしい)。にもかかわらず現在では萌えキャラの露出過多な衣装デザインに文句を言うフェミニストは多い。これは矛盾しているのではなかろうか。

 実はフェミニズムにも第一派とか第二派とか第三波とか*5いろいろあって、それぞれの中にも細かい分派がある。現在はおそらく第四波である。衣装の問題でも、これらの細かい運動のうち別々のものが顕在化した結果と思うとよいのではなかろうか。この点に関しては本シリーズその2やその他の回でやや詳しく扱う予定。

mobile.twitter.com

 ↑こういうのがあった。確かに表面上はフェミニズムは当初の目的の逆を行っているように見えるかもしれないが、長く複雑な運動の末にそうなったということは理解しておくべきかと思う。それでも逆行してしまっているかもしれないのでそうなったら批判しよう。

原則3・フェミニストといってもピンキリである

 昨今の様々なネット炎上事例*6は、トゥイッター上の影響力のあるフェミニスト、いわゆるツイフェミの人たちによるものが大きい。ただし「ツイフェミ」なる言い方はなんだか侮辱的なのであまり使わないようにする。さて問題はこうしたトゥイッター上のフェミニストにまともなフェミニストはいるのか、という問題である*7

 トゥイッター上で有名な人というのはただ単純に有名なだけである場合も多い。フォロワーを稼ぐためにあえて過激なことを言ったり妙に聴えの良いことを言ったりしているだけで、議論のできる人ではないかもしれない。インターネッツといえども肩書きで人を判断することは私は重要だと思う。博士号を持っているとか、ちゃんとしたメディアで言論活動を行っているとか。ただし博士号を持っていても珍妙なことを言う人はいるし、大手メディアがトゥイッターで有名だというだけで執筆を依頼することもあるのであんまり役に立たない術かもしれないが。

 とにかく、そもそもただ声が大きいだけで一流ではない人というのはどの界隈にもいて、フェミニストにもそういう人はもちろんたくさんいるのである。この見極めをして不毛な議論を避けるべきである。

原則4・知識と冷静さを身につけよう

 先ほど「現実との乖離」ということを述べた。あまりにも抽象的すぎてダメなフェミニストの議論というのは、そもそも現状認識において誤っているものである。例えばマンガやアニメの作品を批判する際に基本的なデータを間違って認識していておかしな解釈をしてしまったり。正しい知識を持つことは何よりも議論の大前提である。

 正しい知識がないならば調べればよい。大事なのは「これって飛躍した解釈では?」というのをよく考えて察知することかと思う。そういう冷静さを持ちましょうや。

原則5・ルールとマナーを守って楽しく議論しよう

 冷静さという点でもう少し。とかくトゥイッターというのは頭に血が上りやすいメディアである。なので私はトゥイッターでは無難なことばかり書いている。こういう熱のこもった文章はブログに書く。ブログだと言葉が尽くせるので。

 まあ「キーッ!」とならずに時間を置いたり時間をかけたりしてよく考えて自分の意見を述べることである。それが議論のルール、マナーである。こんなものは当り前だけれど、何故かフェミニズムの議論になるとこういった態度をとれない人は多い。

 気をつけましょう。

*1:そしてフェミニストには社会学者が多いことから社会学者全般が「社会学者(笑)」と見なされてしまってもいるようだ。

*2:芳賀ゆい

*3:何が「なので」なのかと問われると困るのだが

*4:というのは建前で本音は他にあるのかもしれないが。

*5:コロナウィルスのように

*6:ネット炎上に関してはこちらの記事も参照→『ネット炎上の研究』読書メモ - 曇りなき眼で見定めブログ

*7:ぶっちゃけ私はまともなフェミニストというのはそれほど多くないと思っているのだが、それはさておき。

【感想】前衛的アニメ映画「リョーマ! The Prince of Tennis 新生劇場版テニスの王子様」を観てきました

 なんかそこそこおもしろかった。

 驚いたことに、あんまりテニスをしていなかった。マフィアとの追いかけっこが主だった。私は『新テニスの王子様』は読んでいないけど『テニスの王子様』は(だいぶ昔に)読んでいて、けっこう試合ばかりやっている印象がある。

 今作はアメリカでの話なので青学とかイケメン選手たちがそもそもあんまり出てこない。竜崎とのお話である。私はよく知らないが、ミュージカルが好きなファンはそれでいいのだろうか、とか思っていたらクライマックスで無理矢理に総登場して笑ってしもうた。この無理矢理感がテニプリの良いところだと思う。幸村と手塚に繋がるところも無理矢理で良い(私はDecide版というのを観たが、Glory版だと違うのかも)。

 あのテニスボールはなんなのだろう。というか最初のところでボールを打ったのは誰だったのか? けっこう謎を残したまま終っている。あとドレッドのお姉ちゃんはなぜ足にラケットを付けたのか!? これが本作最大の謎である。

 とにかく、フルCGで、ミュージカルで、あんまりテニスをやらずテニス部メンバーも出てこない、という新しさ、冒険精神はおおいに評価したく、それなりにおもしろかったです。

 新海誠先生も褒めていたけど、このとおりだと思う。

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【なぜか多い⁉︎】ネット上にある証明論的意味論の日本語文献まとめ

 日本で証明論的意味論(PTS, Proof-Theoretic Semantics)を研究している人、やたらと多くないだろうか!? という感じがしているが、どうもそうでもないらしい。後述する大西先生の講義によると、大西先生の博論以降の10年弱でも研究の進展はそれほどないとか。京大周辺に特に多い気がするが、京大周辺の方々が執筆や情報公開に積極的で検索にかかりやすいということなのかもしれない。

 それで、検索したら出てくるいろいろな証明論的意味論の文献を収集して見たり読んだりしてみたのでここに記録する。

大西琢朗「証明論的意味論と双側面説」

 大西琢朗「証明論的意味論と双側面説

 大西先生の博論で、証明論的意味論に関する日本語文献ではもっとも詳しいものであろう。私はまったく通読できていないのだが、これを解説した講義動画がYouTubeにある。それを見た。


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 双側面説というのを詳しく扱っている点がポイント。これが私にはけっこう難しかった……。

矢田部俊介「証明論的意味論入門」

 矢田部俊介「証明論的意味論入門

 矢田部先生は論理の哲学・哲学的論理学の日本一の論客である(こうやって書くとなんだか馬鹿にしているように受け取られかねないが本当である)。

 これは京都大学の講義資料となっていて、証明論の基礎から解説されている。自然演繹とシーケント計算(推件計算)と。構造規則についても詳しい説明なんかもある。(私はすべてをちゃんと読んではいません。)

 関連した内容の講義動画がYouTubeにある。 


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鈴木佑京「証明論的意味論への招待/あるいは/哲学はなぜ論理を語るのか」

 名古屋大学の数学・ロジック同人サークル"The Dark Side of Forcing"の同人誌vol.6より。公開していたHPが見れなくなっていたようなのだが、探せば見つかる。

 哲学の門外漢(数学者、数学徒)に向けて哲学の議論を披露するというていで書かれている。ソーカル事件なんかにも触れている。哲学者が論理や数学を使うのは、ソーカルに批判されたようなメタファーや装飾としてではなく、哲学的アイデアを論理や数学を使って具現化しているのだ、というおもしろいことが述べられている。証明論的意味論は言語の使用説を論理・数学で具現化したものだと。

 局所的ピークの簡約と調和についてわかりやすい説明がある。

伊藤遼「証明論的意味論とその課題」

 伊藤遼「証明論的意味論とその課題

 ダメットの議論がまとめられている。ダメットを読んでいない私には良いまとめかどうかわからないが、ダメットを知らない私でもなるほどと思える良い論文である。反転原理、保存的拡大、tonk、調和など重要な概念がわかりやすく述べられている。

 近年の証明論的意味論の議論は検証主義的意味理論よりも自然演繹の推論規則を調和という観点から拡張して正当化することに傾いていると指摘されている。

 マーティン=レーフの名前も一瞬だけ出てくる。

豊岡正庸「証明論的意味論における原子ベースと完全性の連関」

 豊岡正庸「証明論的意味論における原子ベースと完全性の連関

 言っていいのかわからないが、私の研究室の先輩である。わずか一年の先輩であるがこのような素晴しい論文を書いておられ、たいへん尊敬している。

 大西動画ではあまりしっかりとは扱われていなかった原始ベースについてのサーベイである。正直いって私にはけっこう難しい論文で、あまりわかっていない。ただし前半に証明論的意味論の要点が短く纏まっていて勉強になる。

豊岡正庸「異なる論理の共存と証明論的意味論における調和概念について」

 豊岡正庸「異なる論理の共存と証明論的意味論における調和概念について

 直観主義論理の結合子と古典論理の結合子をひとつの体系のなかで共存させよう、という内容である。証明能力という観点で見てしまうとたいしておもしろくない結論しか出ないが、しかしこれに証明論的意味論の調和概念を使う(ために規則を操作する)といろいろと違いが出てくるらしい。

まとめ

 証明論的意味論とは何か!? というのがこれまでずっとわからずモヤっとしていたのだが、少しわかった気がする。モデルを使わずにどうやって意味が与えられるのか? と思っていたが、大西先生によると証明論を使ってモデルっぽいことをやるのだとか。あとは導入則は意味を与えているものと考え、除去則も反転原理でそのようにみなせると考えるとか、なるほどとなりつつある。