曇りなき眼で見定めブログ

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【感想】『アーヤと魔女』を観てきましたよ

 けっこうおもしろかった也。

 だいぶ前から予告を何度も劇場で観ていて、正直いってそれほどおもしろくなさそうだと思っていた。CGの動きがまだまだ硬い感じで、髪の毛なんかも微妙だと思った。宮崎吾朗監督にしても、『コクリコ坂』はそんなに悪くなかったけど全体としてはあまり良い印象はない。

 なのだけれど今作はおもしろかった。21世紀のジブリらしい洋児童文学アニメだが、主人公のアーヤはけっこう計算高く人を欺く。「アーヤ」という名前も「操る」から来ているし。私は頭が固く要領が悪いことが悩みなので、こういう適当な嘘でその場を切り抜けられるような人が憧れである(なんか「日曜日よりの使者」みたいだが)。とにかく良い性格をした良い主人公だった。ミミズを壁の穴に入れるところとかなかなか感動した。CGもとおして見るとそんなに悪くなかった。

 しかしアーヤの操る技術みたいなのがいまいち伝わってこない感じはあった。もっと徐々に絆されていくのかと思ったらけっこうコロッといっていた。エンディングのマンガ(誰が描いているのかわからなかった……)は本編の後のお話なのかもしれないが絆されていく過程の部分のところのような気もする。ぶっちゃけあのエンディングのマンガが本編よりもおもしろかったかもしれない。てことはもうちょっと尺があるとよかったのかも。もしくはテレビシリーズとかにして、なおかつアーヤのいたずらなんかももっとこまごまとたくさん見られるとよかったのかも。

 まあでもおもしろかったですよ。

「くしゃみ→誰かが噂をしているor風邪」の哲学(アニメ「Free!」より)

 アニメ「Free!」を見ている。もうすぐ新しい劇場作品をやるのだが私はぜんぜん知らないので、大急ぎで勉強している。

 第3話(第1期ね)冒頭で遙がくしゃみをする。遙は、くしゃみが出るのは誰かが噂しているときだ、と言う。マンガやアニメでよくある話である。さらに渚が、噂しているのは凛だと言う。それに対して真琴が「いや、ふつうに風邪だよね。まだ四月なのにプールで泳いだりしたから」と言う。

 この真琴の反論がなんか変な感じがするのである。

 まず、噂とくしゃみに相関や因果があろうはずがない。先ほど「マンガやアニメでよくある話である」と書いたが、マンガやアニメでよくあるのは、誰かが噂をして噂された人が別の場所でくしゃみをするという演出である。今回のシーンはくしゃみをしているだけで噂はしていない。なのでこのシーンのリアリティのレベルは高そうで(リアリティのレベルってなんだって話だが)、よくあるマンガやアニメと違って噂とくしゃみに相関や因果など認める必要がなさそうである。

 何が変なのかというと、にもかかわらず真琴の反論が「噂とくしゃみに相関や因果があろうはずがない」ということではなく「寒いのにプールに入ったから」となっている点である。なんだが噂とくしゃみに相関や因果があるとある程度認めたうえでそれよりも寒いのにプールに入ったことのほうが原因として妥当だと訴えているように聴えるのである。

 これって何なのだろう??

 科学哲学っぽいことを言おうとしたけれどうまく表せない。反証の仕方がポイントをえているかどうか、みたいな。議論学というか。

 とにかく「Free!」はおもしろいです。

【感想】『岬のマヨイガ』なるアニメ映画を観てきたった

 なかなかキマッているアニメであった。

 手短に感想を。

 特に熱い感想とかはなく。あまり良い映画作品ではないという印象である。とにかくなんだかよくわからない話だった。予告をチラッと見ただけでほとんど何も知らずに観にいったので、「これって妖怪とかでてくるんだよね?」となった。妖怪(ふしぎっと)がなかなか出てこなくてなんの話なのかよくわからないまま進んでいく。そして最終的に妖怪たちがなんだったのかよくわからない。マヨイガとかババアの正体とか虐待とか震災とかもなんだったのかよくわらない。いったい脚本家は誰だと思ってクレジットを見てみると、吉田玲子氏というけっこう実績のある人で驚いた次第。

 せめてババアでなく綺麗なおネエちゃんとかだったらよかったかもな〜と思うのだが、児童文学だし、ワシなんてターゲットじゃないのだろう。しかしじゃあターゲットはどういう層なのだろう。女子の中学生だか高校生だかの二人連れの客がいたが、あの子らはこれを見てどう思ったのか気になる。

 で、じゃあ駄作かというとそんなことはない。目を見張る部分がある。作画好きならば誰もが瞠目しただろうけど、あの昔話のシーケンスである。どうも大平晋也氏ほか超絶アニメーターが担当しているっぽい。ここだけでも見る価値はあるので難しい作品である。YouTubeで公開しているがあれは一部で、他にもある。

 というわけで難しい作品でした。

線形論理超入門!!

 デカく構えたタイトル!!

 後期に専門が違う人向けに研究の説明をする演習があるようなので、ロジックが専門でない人向けの線形論理の解説を考えたい。

自然演繹からシーケント計算へ

 論理学の入門講義をとったことがある人は多そうなので、自然演繹から入ってみる。自然演繹は論理結合子(「かつ∧」とか「ならば→」とか)の導入則と除去則で成り立っている。例えば∧の規則はこんな感じ。

A B      A∧B
---(∧導入)  ---(∧除去)
A∧B      A(またはB)

というのを知っていることを前提にしたいけれど知らない人もいるかもしれない。でもそれはまあそれとしてここでは前提知識とする。
 自然演繹は論理学の入門講義でよく扱われるが、もうちょっと証明を勉強するとシーケント計算というのが出てくる。これも論理結合子の規則を持っていて、

A⇒A (公理)

Γ⇒A  Γ⇒B      Γ,A⇒C     Γ,B⇒C
--------(∧右)  --------(∧左) -------(∧左)
  Γ⇒A∧B      Γ,A∧B⇒C    Γ,A∧B⇒C

となる(これは直観主義論理の例)。ここで、\Gammaというのは論理式の集まりと思ってよい。ただし集合ではない。同じ論理式が1個か複数かで違うからである(要素の数もカウントする集合は多重集合という。なのでこれらは論理式の多重集合である)。自然演繹では全体でやっていた「前提から帰結を出す」(推論)ということを、シーケント計算では一段ごとにやっているというイメージである。例えば\land左規則のひとつめは「\GammaAという前提からCが出せたならば、\GammaA \land Bという前提からCを出してもよい」と読める。
 こういう解釈ができるのもシーケント計算のメリットだが、メリットはそれだけではない。自然演繹では暗黙のうちに仮定されていた構造規則というのを、シーケント計算では暗黙にでなく明示的に扱える。構造規則というのは以下のような規則である。

Γ,A,A⇒C      Γ⇒C
-------(縮約)  -----(弱化)
 Γ,A⇒C      Γ,A⇒C      

 縮約というのは、「\Gamma, A, Aという前提からCが出たならば、前提のAをひとつ減らしてもよい」と読める。これは自然演繹でひとつの仮定を何度使ってもよいことと対応している。この性質を使うことで自然演繹では((A \to A) \to B) \to (A \to B)のような定理が証明できる。この式と縮約規則はよく見ると似ている。弱化は前提をどのように増やしてもよいという規則である。自然演繹では使わない仮定が増えたところで困ることはない。
 シーケント計算を使った証明の例をひとつ。

 A⇒A        B⇒B
-----(弱化)  -----(弱化)
A,B⇒A      A,B⇒B
-----------------(∧右)
    A,B⇒A∧B

二つしか規則を使っていないけど構造規則と\land規則を使えてるからまあよしとしましょう(ここに\land左規則を二回と縮約を適用するとA \land B \Rightarrow A \land Bというただの公理になってしまう)。

もうひとつの連言

 ここで重要なのが、\land規則は次のようにしてもよいということである。

Γ⇒A  Γ'⇒B     Γ,A,B⇒C
---------(∧右') --------(∧左')
 Γ,Γ'⇒A∧B     Γ,A∧B⇒C

これらの「'」を付けた規則は最初の規則と同じだということが示せる。同じということはどういうことかというと、まず\land右規則の上段から\land右'規則(と構造規則)を使って\land右規則の下段を出すことができる。

Γ⇒A  Γ⇒B
--------(∧右')
 Γ,Γ⇒A∧B
 -------(縮約*)
  Γ⇒A∧B

ただし(縮約*)では\Gammaの式すべてに縮約を適用しているのを省略して一段で書いている。逆に\land右規則(と構造規則)を使って\land右'規則を出すこともできる。

  Γ⇒A        Γ'⇒B
------(弱化*) ------(弱化*)
Γ,Γ'⇒A      Γ,Γ'⇒B
-------------------(∧右)
    Γ,Γ'⇒A∧B

ただし(弱化*)では\Gammaあるいは\Gamma 'ができるまで弱化を何度も使っているのを一段に省略して書いている。実は左規則についても同様にして同じことが示せるのだが、ここでは右規則のみに注目する。

資源消費と線形論理

 \land右規則について考えてみる。これは「\Gammaという前提からAが出て同じ\Gammaという前提からBが出るならば、\Gammaという前提からA \land Bを出してもよい」ということと読める。このような推論は自然演繹でもありえるが、その場合は仮定を二度使うこととなる。これが\land右'規則を使って\land右規則を出すときに縮約を使うことと対応している。逆に\land右規則を使って\land右'規則を出すときの弱化に対応するのは、仮定を増やすということである。\land右規則では二つの上段式で同じ前提を持っていなければならないので、同じになるように仮定を増やす必要がある。さて、ここで注目していただきたいのが、図を見るとわかるとおり\land右規則と\land右'規則の行き来には構造規則を使うことが避けられないということである。仮定を何度も使ったり仮定を増やしたりということと対応する構造規則なるものをなしにしたらどうなるか。
 ここに「資源の消費」という考え方を導入したい。仮定は資源、\Rightarrowは資源を消費して何かを作ることと考える。こうすると構造規則の制限というアイデアを正当化できる。仮定は資源なので何度も使えないし勝手に増やしたりもできない。
 構造規則をなしにしたらどうなるかというと、もはや\land右規則と\land右’規則は同一視できなくなる(実は左規則についても)。なのでこれらを記号を分けて以下のように書く。

Γ⇒A  Γ⇒B      Γ,A⇒C     Γ,B⇒C
--------(&右)  --------(&左) -------(&左)
  Γ⇒A&B      Γ,A&B⇒C    Γ,A&B⇒C

Γ⇒A  Γ'⇒B     Γ,A,B⇒C
---------(⊗右)  --------(⊗左)
 Γ,Γ'⇒A⊗B     Γ,A⊗B⇒C

&と\otimesはそれぞれ加法的連言乗法的連言という。これらが線形論理の論理結合子である(選言も同じように分裂する)。

まとめ

 まとめる。
 シーケント計算の\landの右規則には二種類あり、それらは構造規則を前提とすれば同一視できる。しかし構造規則は資源消費という観点からは望ましくない規則ともいえる。構造規則をなしにすると二つの規則は同一視できなくなり、\landが二種類に分裂することとなる。これが線形論理の連言である。
 注意しなければならないのは、歴史的には線形論理は別の理由で導入され、資源消費と結び付けられたのはできたあとということである。しかし今では線形論理といったら資源という感じになっているし、創始者ジラール先生もそうなのでよしとする。
 参考にしたのはこの本(記法が違うが)。

 線形論理誕生の経緯は照井一成「線形論理の誕生」という論文に詳しい。この論文についてはそのうち書く。

『ネット炎上の研究』読書メモ

 田中辰雄・山口真一『ネット炎上の研究』(勁草書房)という本を読んだので感想をメモする。2016年の本である。インターネットの世界は刻々と変化するので2016年に出た本であるという点は重要。

用語

 繰り返し出てくる用語がある。

サイバーカスケード集団極性化

 サイバーカスケードとは、(賢明な)インターネットユーザーならば必ず感じているであろう、意見が両極端になってそれらの間の対話が行われなくなってしまう現象のことである。これはインターネット上の現象のことだが、より一般に集団内の意見がどんどん極端になってしまう現象を集団極性化という。炎上はサイバーカスケード集団極性化の原因と考えられる。炎上によって中庸な意見を発信することが萎縮してしまうからである。

デイリーミー

 自分専用の新聞という意味。インターネット上には膨大な情報があるため、自分用にカスタマイズ/フィルタリングされた情報だけ見るようになる。Twitterのタイムラインをイメージするとわかりやすい。これは自分に心地よい意見だけを取り入れるようになってどんどん自分の意見が強化されていったり(エコーチェンバー)、サイバーカスケード/集団極性化の原因となったりすることが考えられる。ただし、デイリーミーは炎上の原因ではないと本書では述べられている。

炎上

 本書の炎上の定義は「ある人物や企業が発信した内容や行った行為について、ソーシャルメディアに批判的なコメントが殺到する現象」としている(5ページ)。この定義でアンケート調査を行なっている。ソーシャルメディアというのは発信者が運営するブログやSNSアカウントだけでなく2ちゃんねるも含んでいる。

統計的な研究

 私は統計もそこそこ勉強しているつもりなのにさっぱりわからなかった。ロジットモデルというのがわからない。なのでここの研究をちゃんと評価できない。多分すごい研究なのだと思う。

 結果的にいわれているのが、

  • だいたい1年間で炎上に参加する人はインターネットユーザーの0.5%程度。
  • 1件あたりでは0.00X%のオーダー。
  • そのほとんどがTwitterなどで一言コメントをする程度で複数回コメントをする人はそのうち数%。
  • 当事者へ直接攻撃する人は数人から数十人。

という感じらしい。

炎上の真実

 本書の最大のメッセージは、炎上の主犯格はほんの数人くらいしかいないということである(と思う)。執拗に誹謗中傷を行なって攻撃する(これは荒らしとも呼ばれる)人はその程度である。しかもそうした人は倫理観などでかなり特殊であると考えられる。ごく少数の異常な人のために屈してはいけない。(屈するとインターネット上は異常にタフな人ばかりになってサイバーカスケードを引き起こす。)

本書の炎上観と炎上私観

 本書の炎上観は私のとかなり違っている。私が思うに炎上の打撃というのは誹謗中傷とはまた別のところにもある。本書ではスマイリーキクチの誹謗中傷を挙げてごく少数の人が必要にデマ拡散や誹謗中傷を繰り返す例としている。確かにこれも深刻な問題だが、これは本書の前半で出てくる炎上とはかなり違っているので対策の手本とはならないように思う。

 深刻な炎上というのは匿名のごく少数による粘着だけではない。かなり有名な実名アカウントや匿名だが影響力のあるインフルエンサーが問題に言及し不特定多数がそれについて一言コメントをする。こういったケースは本書ではあまり重く扱われていないが、これがけっこう深刻だと思う。特にサイバーカスケード/集団極性化の原因はこうした無自覚な一言コメントの集積にもあるように思う。私が注目している炎上はやはり萌え絵ポスターの問題である。これは本書でも例として出てくるが、少数者の誹謗中傷が問題ではない。専門家っぽい人の短絡的なツイートやそれに先導された人がわらわらと集まること、(そしてカウンターとしていわゆる表現の自由戦士なる人たちが集まってくること、)そうしてひとつのポスターに過剰に注目が集まって表現が萎縮する、こういう炎上もある。これは誹謗中傷でないだけに対策が難しいように思う。個々の人は誰も悪くないからである。しかし異様に議論が盛り上がってしまうことも、作者に誹謗中傷がいくこととともに問題であろうと私は思う。

新しいSNSの提案

 サロン型のSNSというのが炎上対策として提案されている。2016年の本だが、ちょっと前からオンラインサロンというのは注目されている。オンラインサロンといったら集団極性化の温床とも思えるが、本書ではそこにも気をつけている。書き込みは会員限定だが閲覧は誰にでもできるようにするという。これはテレビなど旧来のメディアではふつうのことである(発信者と受信者の分離)、という。これはなるほどと思った。私に力があったらこれを開発して運営してみたいと思った。

【感想】『僕のヒーローアカデミア THE MOVIE ワールド ヒーローズ ミッション』を観てきたぞ!(「個性」という設定に個性がない)

 まったく期待していなかったけど意外とおもしろかった!

ポケットモンスター サン&ムーン めちゃでかソーナンスぬいぐるみ

良かった点とソーナンス

 いろいろと不満もあるけれどまあこんなものでしょうというおもしろさだった。『鬼滅の刃』(以下:キメヤイ)の映画よりはぜんぜんおもしろかった。私はヒロアカはマンガはほぼ知らなくてテレビアニメをちらちら見ている程度である。そんななんの思い入れのない私でもそれなりにおもしろかったのでそれなりに良い作品だと思う。

 特に良かったのは吉沢亮氏演ずるロディの個性である。あのトゲピーみたいなやつ。声はトゲピーはやってないけど多くのポケモンを演じている林原めぐみさんだった。あの個性で泣かせる演出がうまい。そして吉沢氏のような超絶イケメンが声だけでも演技が上手くてすごい(とかいったら失礼だろうが)。てか「個性」ってなんやねん。というのはヒロアカ開始当初からずっと思っているが、それについては後ほど。

 敵のボスの肌が青いのは何故だろう。何か裏設定があるのかもしれない。デスラーぐらい青い。デスラーのオマージュだろうか? と思っていたらソーナンスのような個性を持っているとわかって、これはソーナンスのオマージュなのか!? と思った。

あんまりな点

 ヒューマライズというのは「思想団体」とされているがカルト教団に近い。思想というのが警察も動かすほどの力を持つようには思えない。Qアノンのような陰謀論を振りまく人々の集まりのようでもあるが、長がいて組織化されているからオウムや赤軍のようでもある。ちょっとなんというか設定に知性を感じない感じがするのだが子ども向けならこんなものだろうか。しかし午前中に行ったものの子どもの客はまったくいなかった。若いお姉ちゃんがオタク友だち同士で来ている感じの客が多かった。この点については後述。

 最初の市街地の追いかけっこは、あんまり良くないがまあこんなものだろうか。『サイダーのように言葉が湧き上がる』の最初の追いかけっこシーンのほうが良かった。つまり人が大勢いて民家や商店があってというシチュエーションがあんまり映像のおもしろさに活かされていないような。『GHOST IN THE SHELL』でそういうシーンがあったが、ああいうふうに民間人の中で戦うわずらわしさみたいなのが欲しい。洗濯物を干す紐や窓を使ったアイデアはあったけど、もう一歩映像的なおもしろさに結びついていない感じ。どうもキャラクターを真ん中に同じようなサイズで描きすぎなような気がする。でもこれはできている作品のほうが少ないからこんなものだろう。

 黒鞭のアクションはなかなか良いのだけどあれはもはやスパイダーマンなので「個性」ではない。

現代アニメによくある欠陥

 ボンズ(ズンボ)作画班は相変らずすごい。背景動画を使いまくったバトルシーンはなかなかの迫力である。ただし私は最近『迷宮物語』『ロボットカーニバル』『AKIRA』という80年代の超絶作画アニメを見て研究していたところなのでどうしても物足りなさを感じた。何が違うのか考えてみた。そもそもの作画の技術がこれらの作品のアニメーターのほうが上なのかもしれないが、それだけでなく、どうも作画以外の要素が多すぎるように思った。作画をじっくりと堪能させてくれないのである。これは私が作画好きだから感じるわけではないと思う。『AKIRA』の映像のすごさは誰だって感じるだろうから。つまり画面内というかカメラが映している世界で何が起きているのかをもうちょっとじっくりしっかり見せてくれても良いのではないかと思う。カメラを目まぐるしく動かす演出なんかもあるけれど、そういうのはメリハリだと思う。

 細かい点だが予告を見て気になった点がある。


www.youtube.com

爆轟が「なんで買い出ししなきゃなんねーんだよ」と言ってその声の風圧でデクの髪がめくれるという演出がある。これはマンガの手法である。マンガは動きがないので一コマの中である程度の時間を表現することになる。しかしアニメでは動きがあるので、こういう一枚の静止画のような絵の表現はおかしい。あと音がないので音の大きさを絵で表現する。でもアニメでは音はちゃんと聴えている。こうやってマンガの感覚をそのままアニメにしてしまったら変な感じがしちゃうのである。しかしこういうのはよくある*1

 あと声優である。最近の傾向なのかわからないが、声優というのはどうも発話の際に余計な音が多い。「このぉ!」でいいところを「くぅぉぬぅおう!」と言ったりとか。これは気になりだすとずっと気になる。吉沢亮さんは声優感が薄い分よかった。あと爆轟はずっと喋り方が変だと私は思っている。世の人びとは気にならないのだろうか。なってるだろうか。

 シチュエーションが活かされていないというのを書いたが、もっというと世界の在り方にリアリティがない。これはキメヤイを観たときにもものすごく感じた。「ワールド ヒーローズ ミッション」というわりに世界中でヒーローが戦っている感じがしないのである。なんか変だった。

ジャンプ作品共通の病理

 なんかみんなうるさいのである。あきらめないのはけっこうだから粛々とやっていただくわけにはいかないだろうか。子ども向けに単純なメッセージを連呼する教育的な作りになっているのだろうか。しかしもはやジャンプ作品なんて子ども向けなのかどうかわからない。けっこう流血するし。キメヤイのようにPG-12で子どもにも大ヒットした作品が珍しいのでは。まあつまりもうちょっと冷めたヒーローがいてもいいのではないかと。あと私は知らないのだがヒーローって民間なのだろうか。国際的に協力しているのはわかったが。ティーンに重要な任務をまかせて案の定暴走しちゃったりとかガバナンスはどうなっとる!

 あと何故みんなそんな能力を持っているのかいまいちわからない。だから個性を否定する人たちのその世界における意義とかもあんまりわからない感じである。ジャンプのバトル作品は『ジョジョ』あたりから「スタンド」みたいな名前の付いた超常的能力が出てくるのが当り前になっているが、そもそもそんな能力は当り前ではない。ヒロアカでも何故「個性」なるものが発生したのか一応の説明はあるが、なんかとりあえずそう設定したという感じが否めない。で「個性」というネーミングはなんなのか。もはや個性という設定に個性がない。しかも「個性」という言葉を使うことでなにかメッセージが生ずるのかとおもったがどうもそうでもないようだった。

羅小黒戦記の宣伝

 私は日本の現代のオタク向けアニメやジャンプアニメにけっこう懐疑的である。ここで挙げた欠点は中国アニメ『羅小黒戦記』では完全にクリアされている。というかこの作品を観て感銘を受けたから私の感覚が細やかになったのかもしれない。Blu-rayも出たので是非。

まとめ

 なんか批判が多くなってしまったが、ふつうにそれなりに面白かったです。今年は(『100ワニ』)を除いて傑作・佳作アニメ映画がたくさん公開されてたくさん観たので、それで物足りなかった感じはある。

*1:時間感覚に関しては、いま放送中の『小林さんちのメイドラゴンS』第3話で良いのがあった。見た人にしか伝わらないだろうが、小林さんのためのメイド服のデザインをみんなで考えるというくだりである。ジョージーさんが手を挙げ、デザイン絵をトールと小林さんのところに持ってくる。その間にトールが心の中でジョージーさんについての評価を述べる。トールの心の声の間はトールがアップで映るが、それが終るとちょうど歩いてきたところのジョージーさんが映る。つまりトールの心の声の間もちゃんと世界の時間が流れていたことがわかるのである。

【東京オリンピック中止にならなかった記念】『AKIRA』の作画を検証する(データ、歴史、アニメーターたちの証言)

 ※まだちゃんとまとまってない感じの記事です。

 \ラッセーラーラッセーラー/ \ラッセーラーラッセーラー/ \ラッセーラッセーラッセーラー/

 2020年東京オリンピック中止を予言(?)していたとか開会式の演出で登場するはずだったとかで謎のリバイバルが起きている『AKIRA』である。まあしかし作中の時代設定に追いついたのだから見返されるのも当然であろうか。正確には2019年のお話だけれど、いま見るべきものの気がしちゃいますな。

 本記事はアニメ映画版の『AKIRA』を作画の面から冷静に再評価する試みである。現代日本のアニメの作画は、進化した面と退化した面があると思っていて、『AKIRA』はそうした作画の現状を考えるうえで触れざるをえない古典である。『AKIRA』以前と以後でアニメの歴史は間違いなく変った。日本のアニメが海外に輸出されて世界中のマニアやクリエイターから高く評価されるようになった、その象徴のような作品である。では作画という観点からはどうか!?

 なお、以下すべて敬称略である*1

 結論を先に述べておくと、以下の4点に集約される。(本記事はめちゃくちゃ長いのでここだけ読めばOK!)

  • アニメ映画『AKIRA』は大友克洋原作・監督作品であるが、各アニメーターの個性も色濃く出ている。
  • 作画に関して思想が統一されておらず、各々のアニメーターが模索しあるいは技術を盗み合いながら完成した。
  • リップシンクロや芝居の作画には内部からは否定的な評価が多い。
  • しかしそのようにして若き才能が衝突し切磋琢磨したことで、独特のエネルギーに満ちた歴史的傑作となった。

AKIRA』とは?

 大友克洋のマンガ(1982〜1990)が原作である。原作もマンガの歴史を一変させた大傑作だが、本記事ではアニメ映画版の『AKIRA』を扱う。アニメ映画版の監督も大友克洋みずからが務めている。しかしまずはマンガの話から。

ショート・ピース (アクション・コミックス―大友克洋傑作集)  童夢 (アクションコミックス)  AKIRA(1) (KCデラックス)

 大友は1973年にデビュー。シュールでシニカルな短編作品で注目を集めた(ソースはリアルタイムで読んでいた私の父)。中編SFマンガ『童夢』(1980〜1981)がヒットし、星雲賞を受賞する。特筆すべきはその画力である。単に絵が上手いというだけでなく独自の画風を確立している。それまでのマンガのような記号的なデフォルメのない徹底してリアルな画風で、なおかつ劇画のような濃厚さはなく乾いている。(少年誌のほうで同時期に現れた鳥山明とともに)マンガというものの在り方を根底から覆したといってよい。この時期の青年マンガの絵はだいたいどれも大友風である(浦沢直樹とかダイレクトにそうである)し、現在でも影響力は大きい(石黒正数は似すぎてて編集者に指摘されたらしい)。また『童夢』で現れた「念動力で身体を壁に押し付け、そのまま壁が球面状にヘコむ」という表現はよくパロディされている(あるいはパロディと認識されないほど一般的になっている)。『ジョジョの奇妙な冒険』の荒木飛呂彦は、この不可視のエネルギーの塊みたいなのを可視化したいというところからスタンドの着想を得たらしい。

 さて、そんな大友が満を辞して連載開始した初の長編が『AKIRA』である。『AKIRA』の特徴はいろいろあるのだが、台詞回し、ァッションセンス、街並みやバイクのデザイン、ストーリーは優れているだけでなくひとつのカルチャーを形成している。そのアニメ映画は傑作であるがさらに海外輸出され「ジャパニメーション」と呼ばれるムーブメントを生むこととなった。日本アニメが海外で評価され世界中にオタクを生む発端となった作品なのである。世界のサブカルチャーの巨大な源泉なのである。

データと歴史編

 まずは『AKIRA』に参加したアニメーターと担当パート、そしてアニメーターたちの『AKIRA』前後のキャリアを確認しておく。多くのアニメーターにとって『AKIRA』はターニングポイントになっている。

スタッフのデータ

作画スタッフ

 作画wikiより引用

 

作画監督なかむらたかし

 

作画監督補:森本晃司

 

原画:福島敦子 井上俊之 大久保富彦 木上益治 沖浦啓之
坂巻貞彦 平山智 牟田清司 うつのみやさとる 竹内一義
江村豊秋 須藤昌朋 鈴木信一 植田均 富田邦 知吹愛弓


佐藤千春 瀬尾康弘 時矢義則 二村秀樹 川崎博嗣
鍋島修 多田雅治 橋本浩一 岡野秀彦 堀内博之
長岡康史 仲盛文 大平晋也 北久保弘之 漆原智志


山内英子 梅津泰臣 高橋明信 寺沢伸介 本谷利明
柳野龍男 増尾昭一 小原秀一 金田伊功 河口俊夫
遠藤正明 松原京子 大塚伸治 田中達之 柳沼和良
金井次郎 高木広行 二木真希子 橋本晋治 高坂希太郎

テレコム・アニメーションフィルム
丸山晃一 道旗義宣 小野昌則 八崎健二 野口寛明
増田敏彦 矢野雄一郎 楠本裕子 青山浩行
滝口禎一 末永宏一 鷲田敏弥 富沢恵子

 

また、大友自身も原画を描いている。

 このうち大友、なかむらたかし森本晃司福島敦子井上俊之沖浦啓之、北久保弘之のインタビューをいかに引用している。彼らは『AKIRA』の作画を考えるうえで重要人物なので名前を憶えておいていただきたい。

アニメーターごとの担当パート

 これについても作画wikiを参照。たぶん正確だと思うが、情報の抜けもある。大友はキヨコの予知夢のシーンの原画もやっている。他にもあるかもしれない。そのうち確認します。

 また、原画には修正が入るもので、原画マンと修正する作監作監補と誰の個性が強く出ているかはなかなか決定し難いものがある。

AKIRA』前後の作画史と関連作品

『Gライタン』(1981~1982, テレビシーズ)、第41話「大魔神の涙」

 『G(ゴールド)ライタン』は、ライターみたいなロボットが戦うユニークなテレビアニメである。制作はタツノコプロ。第41話はなかむらたかしによるひとり原画である。この回の作画は多くのアニメーターにインスピレーションを与え、リアル系作画の出発点となった(といえるのではないかと)。ちなみにこの第41話の制作進行を担当したのはのちのプロダクションIG社長・石川光久である。

未来警察ウラシマン』(1983, テレビシリーズ)、第26話「ネオトキオ発地獄行き」

 タツノコプロ制作のオリジナルテレビアニメ。キャラクターデザインはなかむらで、かなり大友風のデザインである。なかむらへの大友の影響もあるだろうし、当時の大友のマンガ・アニメ界全般への影響力の大きさもうかがえる。

 また第26話はなかむらとともに森本と福島が原画を務めており、コミカルなアクション作画で有名な回である。彼らの動きのセンスがわかる。

迷宮物語』(1987, 劇場作品)「工事中止命令」

 『迷宮物語』は短編オムニバス映画で、そのうちの一編「工事中止命令」が大友の初監督アニメ作品である。アニメーターにはなかむらと森本が参加し、大友自らも原画を描いている。このときのこの3人組がその流れで『AKIRA』のメインスタッフになった。

 「工事中止命令」以外の二本「ラビリンス・ラビリントス」(福島が参加)と「走る男」も作画史上の重要作品である。

『ロボットカーニバル』(1987, OVA)

 超一流アニメーターが監督となり様々な実験を行った短編オムニバスである。

 オープニングとエンディングは監督が大友で原画を福島が担当している。他にも森本監督の「フランケンの歯車」や梅津泰臣(「デコ助野郎のシーンの原画を担当」)監督「プレゼンス」、北久保監督の「明治からくり文明奇譚〜紅毛人襲来之巻〜」などもあるが、重要なのはなかむら監督の「ニワトリ男と赤い首」である。

 「Gライタン」とは違ったもうひとつのなかむらの作風が現れているのが「ニワトリ男と赤い首」である。メカの描写の緻密さは『AKIRA』に通じるリアリズムだが(これは森本の「フランケンの歯車」もそう)、デザインはかなりポップである。またアクションや人間の表情の作画にはカートゥーン的な誇張がある。実はこうしたなかむらのポップ路線も『AKIRA』の重要な要素になっているということがこれからわかってくる。

となりのトトロ』『火垂るの墓』(1988, 劇場作品)、『魔女の宅急便』(1989, 劇場作品)

 言わずと知れたスタジオジブリ作品である。『トトロ』と『火垂るの墓』は『AKIRA』より少し早く公開していて、終ったジブリスタッフが『AKIRA』に応援で駆けつけたらしい。そのお返しとして『AKIRA』のスタッフの幾人かが『魔女の宅急便』に参加している。森本は『魔女の宅急便』に参加した縁でジブリのプロデューサーだった田中栄子とともにSTUDIO 4℃を設立した。

老人Z(1991, 劇場作品)

 オリジナルアニメだが原作は大友である。大友らしいシュールでシニカルなSFでコメディともディストピアともとれる。機械化した肉体の暴走というモチーフは『AKIRA』と共通する。監督は『AKIRA』に原画で参加した北久保。

MEMORIES(1995, 劇場作品)

 こちらも三本の短編オムニバスである。すべての原作は大友で、三本目の「大砲の街」では自ら監督を務めている。一本目「彼女の想い出」は監督が森本で井上が作画監督。二本目は「最臭兵器」。

 『AKIRA』と共通するスタッフも多く、『AKIRA』以降の作画の到達点のような作品である。

総説

 まず今後参照する文献を紹介しておく。

 もっとも情報が豊富なのが『アキラ・アーカイヴ』である。設定資料や原画、アニメーターへのインタビューが収録されている。AAと略記する。

なおインタビューはすべて2002年。

 もうひとつ重要な情報源がWebアニメスタイルのアニメーターインタビュー企画である。ASと略記する。『AKIRA』に参加したアニメーターのインタビューも多い。なお森本へのインタビューで吐露しているが、インタビュアーの小黒祐一郎は『AKIRA』という作品にはやや否定的なようである。なのでインタビュアーのバイアスも少し考慮すべきかも知れない、といちおう述べておく。インタビューは沖浦以外は『アキラ・アーカイヴ』より少し前である。

 また「月刊ニュータイプ」2021年1月号で『AKIRA』の特集があった。こちらも参考になる。NTと略記する。

AKIRA』の作画、総説

 『アキラ・アーカイヴ』のインタビュアー・執筆に参加しているアニメ研究家の氷川竜介が「ニュータイプ」のインタビューを受けている。氷川のインタビューはここで取り上げておく(スタッフの証言ではないので)。氷川の『AKIRA』はたいへん興味深く、参考になる。

 大友は『白蛇伝』『西遊記』『少年猿飛佐助』といった東映長編アニメが原体験にあるということが語られている。これは『アキラ・アーカイヴ』の大友インタビューでも書かれている。それに加えて以下のような情報が氷川によって述べられている。

 ディズニー作品に関しても、いわゆるクラシックよりは「王様の剣」「コルドロン」などにシンパシーがあり、同社から分かれたドン・ブルースプロダクションの「ニムの秘密」や「アメリカ物語」など80年代の長編もよく「AKIRA」の制作現場で話題になっていたとスタッフ取材で聞きました。「AKIRA」で話題の「リップシンク」(口の開閉を声と同期させる手法)や全体の演技がボディランゲージ的な理由も、実は本家・本流の「フルアニメーション好き」が背景にあったのです。

そして80年代後半に『AKIRA』が欧米で広まっていったのは「動き中心の表現」だったために受け入れられやすかったのではないか、と氷川は考えている。欧米のスタンダードなアニメーションにはなかったテーマやモチーフを日本の『AKIRA』が持っていたのは確かだが、それが非常にスタンダードなアニメーションによって表現されているのが『AKIRA』の特徴なのではないか、と。そして氷川は、大友のリアリズムにはもともとフルアニメーション的な精神があると述べる。それは日本的な省略や誇張に基く記号的な表現の否定という大友作品を論じる際によく使われる言葉にも現れている。

 以下の証言編で明らかにするが、参加した若かりし一流アニメーターたちはこのリップシンクリップシンクロ)やボディランゲージ的な芝居に不満を抱いている者が多かったようである。この辺りに作画思想の不統一性があるように思われる。特に大友の思想と作画監督なかむらたかしの内的な葛藤がその原因で、それらの間でアニメーターたちはやや混乱していたようだ。これらは以下の証言で明らかになる。例えばディズニーの影響が大友やなかむらにはあったようだが、それが井上のようなリアル志向(になりつつあった時期)のアニメーターにまで共有さていたのかが疑問である。井上は特に『Gライタン』の頃のなかむらからの影響を述べているので、そうではない面のなかむらとマンガでのリアル志向とは違った一面を見せる大友の作風は意外だったのかもしれない。

証言編

 ここからはアニメーターのインタビューを引用して考察する。特にリップシンクロや動きのリアリティの考え方に関する点を多く引用した。

大友克洋

 まずは原作・監督・脚本の大友である。インタビューでは次のように語っている。

 自分でアニメーションを作り始めたのは、本当におもしろいという非常に根源的な理由からなんです。何枚かの絵と絵を連続してパラパラとめくると動いて見える、それがアニメーションの原理です。最初はそうやっても全然動いて見えないことがありました。それを少しずらしてやると、「あ、動いた!」って瞬間にぶつかります。そういった驚きや、まして自分の絵が動くというのはやっぱり非常におもしろい。(AA)

大友はそもそもアニメーションというものの原理的な部分に昔から興味があったというのは重要である。映画好きか高じてとかマンガに飽きたからとかではなく(それもあるかもしれないが)、純粋にアニメが好きだから『AKIRA』を作ったという面が大きかろう。

 マンガの絵とアニメの作画は大友はまったくの別物だというのはアニメが好きな人には常識だろうが、大友はアニメの作画も上手かったらしい。他のアニメーターの証言で何度も語られている。特に井上と北久保は「工事中止命令」の大友担当パートである朝食のシーンを絶賛している。

なかむらたかし

リップシンクロについて 

「あれは、大友さんが言い始めたんです(笑)。僕らは"なにそれ、大変じゃんそんなの"って。プレスコシート作らなきゃいけないし……でも、試みとしては面白いとスタートして、感情の入ってる声だけ先に録りましたね。原画マンが各自テープを用意して聞きながら描いて……でも、芝居の間がありますよね。だから、厳密に考えられてはいなかったと思うんですよ。どこまでそれをやったかなあ……。最初はずっとやってたんだけど……やってないよね、後半なんか特に。なんせ物量でめげてましたからね(笑)」(AA)

AKIRA』の効能

-『AKIRA』の作画監督だって言うと、待遇変わったりしませんか?

「いやー、それはあんまり(笑)。でも、ウチの子供の友達でロックバンド組んでる子が『AKIRA』のTシャツ着てたりして、ホントに好きなんですよね、そういう人達って……やっぱり、なんか人を惹きつけるものがあるんですねえ」(AA)

私は日本のアニメーターのこういうところがクールだと思う。超人的な技術によって人知れずカルチャーを支えているのである。(もうちょっとアニメーターの凄さが知られてもいいようにも思うが……。)

なかむらにとっての『AKIRA

-なかむらさんにとって、『AKIRA』はどういう位置づけにある作品ですか?

「うーん、僕はね……複雑ですよ……。まず、大友さんという一人の作家の世界にずっと惹かれる物を持っていて、大友さんという人とずっとやりたかった気持ちがあります。もう一つ自分の中ではアニメーターとしての道があって、タツノコ出身なんですが、好みのアニメーションは東映の大塚さんや宮崎さんなんです。その片方では大友さんみたいな、リアルだけど整理されていて、ぎりぎりアニメーションにして動かすことに耐えうるキャラクターを、リアルに動かしてみたいという欲求もずっとあったんです。僕にしてみると、そんな大友さんという作家の作品と、自分のアニメーションの仕事が重なって、一緒になってできたのが『AKIRA』なんですね。ずっと目指していたものが達成できたことで、自分のアニメ歴の中で、オーバーに言えばターニングポイントみたいなところに位置しますね。

 自分の中では『AKIRA』のラインがアニメをするスタイルとして、ぎりぎりのところだったんです。だから、もうこれ以上リアルな方向には自分はいかないと思って、それ以降はリアル方向から離れていくような気分がありましたから。(AA)

 続いてアニメスタイルから。

WEBアニメスタイル_アニメの作画を語ろう

小黒 振り返って見ると「動き」に関して、違ったテイストを狙った『ロボットカーニバル』は当然として、『AKIRA』の時にすでに、ガチガチのリアルだけじゃないテイストがチラリと見えていますよね。
なかむら 見えているとすれば、すでに『AKIRA』においても、そういう動かし方は作品の方向とは異質な感じだったかもしれない。
小黒 ちょっと柔らかい感じの動きとか。
なかむら ああいうのは好きなんだよね。今、大友さんが『スチームボーイ』という作品を作っているじゃない。作品世界そのものや、アニメートのムードみたいなのが、非常によさそうだなって思うよ。(AS)

森本晃司

 森本のインタビューからは、大友のセンスや画力を尊敬してはいるものの『AKIRA』の制作方針にはかなり疑問があったことがうかがえる。

リップシンクロとボディランゲージについて

「全然興味がなかったんで、"えー、やるんですか、そんなこと"って感じです(笑)」

-やっぱり手間が増えるからですか?

「めんどくさいこともありますが、それを原画マンがもらって面白いかというと、自由にやらせて貰えない感があるんじゃないかと……。でも、結果的にはそれ以上に描いてるのが面白かった部分があるんで、みんなそんな苦じゃないのかなあ、とは思ったんですけどね」

-原画を見ていくと、口の形にまめに指定が入っていますよね。

「大友さんだけがこだわってるんですよ(笑)。うちら日本人って、こんなふうにわりとモソモソっと喋って、そんなに大口を開けてしゃべらないですよね。大友さん、どっちかというとディズニーやりたかったんじゃないのかな。なかむらさんにもちょっとディズニー志向が入ってるし」

-ボディーランゲージっぽい動きですか?

「そうそう。最初にパイロットが上がったときに、鉄雄がバイクで26号にぶつかって、金田が駆け寄るシーンがあるんですけど、オーバーアクション気味で、ディズニーっぽい動きなんですよね。"え? こっちの方向でいくんだ"って話をしましたね。そのころは自分の中にテクニックも何パターンもなくて一杯一杯だったんで、"うーん、これは出来ないからどうしようかな"って自分の中で思ってましたね」(AA)

 アニメスタイルのインタビューでも同様のことが語られている。

WEBアニメスタイル_アニメの作画を語ろう

森本 たかしさんが、最初に3カットぐらいサンプルの原画を描いたんだよ。それを見て迷ったんだよね。それがあまりにもディズニーっぽかったんで。「ええっ、この作品はこっちに行くの!?」ってね。
小黒 ディズニー調というのは、つまり、伸び縮みが入っていたって事ですか。
森本 そうそう。オーバーアクション気味のリアクションもあって。それは、本編でも1、2カット使われているんだけど--鉄雄が24号とぶつかって倒れて、向こうの方で炎が上がって、金田達がやってきて、バイクを降りて駆け寄る、という場面。あそこが、たかしさんが最初に提示した『AKIRA』の方向性だったんだ。方向性と言うか……「こっちへ行くのか」と戸惑った。で、戸惑ったまま、分からないで終わったという感じ。

小黒 オーバーアクションもなかむらさんから提示されたものなんですか。
森本 そうだね。オーバーアクションと言うより、ディズニー的な方向かな。
小黒 それは動きに関しても、芝居に関しても。
森本 うん。多分、リップシンクロというものが最初にあったから、余計にそれを意識したんじゃないのかな。
小黒 でも、日本人の口って、唇を尖らせたりしながら喋らないじゃないですか。
森本 そこでまず戸惑ったんだよね。ただ、リップシンクロにしたいというのは、大友さんの願いだったし、だから、口の表情は、たかしさんも、大友さんの描き方になっている。そうなると、今、小黒君が言ったようになるんで、「日本人なのに。いいのかな」という思いはありましたね。
小黒 それに、日本人はあまり身振り手振りをつけて喋らないですよね。
森本 しないよね。だから、演技が分からない。そういう意味では、最近のアニメーションの、人物を掘り下げていくような作画ではなかったのは確かだよね。無国籍と言うか、日本人でいて日本人でないから、原画マン達も戸惑った、というのはあるだろうね。

(……)

森本 あの作品の中で、何人か掴んだ人はいると思うんですよ。「この方向性じゃ駄目だ」みたいな事をね。『AKIRA』の中にも色々な方向性があったわけだから。そういう意味ではバラバラとも言えるわけだけど。

(……)

森本 だから、あれをやって、何を間違いと考えたかっていう事だろうね。たかしさんは、たかしさんで、あっちの方向へ行ったし(笑)。
小黒 確かに、なむからさんは『AKIRA』で方向性が変わりますよね。
森本 俺からすると、たかしさんは、日本から離れて行っているようにも見えるんだけど(笑)。日本と言うか、日本人の気持ちから。それはでも、本人にとっては、余計なお世話かもしれない。(AS)

 ここで重要なのはなかむらの作風の変化に対する森本の考察である。

今の森本

 現在の森本は『AKIRA』をどう思っているのだろうか。

-今の森本さんにとって「AKIRA」とはどんなものになっていますか?

森本 20代のころの仕事だからなあ。自分としては、30歳からは自分の作品をつくりたいって思いがあって、20代のうちに自分が気になる監督の現場を見ておきたいって気持ちがあって。それで最後に宮さん(宮崎)のところにいったというのもあるんだけど、そういう道のりのなかのひとつの大きな作品、という感じなんじゃないかな。当時は衝撃だったけどね、あれから三十何年たってるわけだから。だから今それに匹敵する作品は……って考えて、どういうものが出てきたら同じぐらい驚くんだろう?っていうふうに見てますね。だから、その時代その時代の若者から生み出されるものを見たいし、それぞれの「AKIRA」を探してほしいです。(NT)

森本もベテランとなっており、監督作品が多くあるだけでなく演劇などにも進出している。そのような森本にとって若かりし頃に『AKIRA』を作ったことがどのように糧となったのか、そして現代の若いアニメ制作者やクリエイターへの想い、これらが読み取れるインタビューとなっている。

福島敦子

 福島の証言は現場の混乱した様子を伝えている。

WEBアニメスタイル_アニメの作画を語ろう

小黒 ははあ。福島さん御自身は、『AKIRA』はどうでした?
福島 あ、「大勉強」です。
小黒 ははは(笑)。担当されたのは、冒頭のところですよね。ジュークボックスなんかが出てくるところ。
福島 うん。冒頭だったので、思いっ切りいじられましたけどね。もう、みんな迷っているんで、どうしたらいいか分かんなくて(笑)。だから、色々いじってもらってよかったな、と思ってます。
小黒 直したのはどなたなんですか?
福島 たかしさんがやってくださったと思います。わたしは、あんまり何も考えずに描いていたと思うんですけど。ただ「描けない、描けない」って思っていたぐらいで。
小黒 冒頭の担当部分は、鉄雄がバイクをいじっているあたりまでですよね?
福島 ええ。その後は、ちょこちょこと細切れで何かしらやってますね。最後には作監が足りなくて手伝ったりもしましたね。
小黒 えっ、それはどなたかがさらに見ているんですか。
福島 いえ、それはもう目をつぶって……。(AS)

井上俊之

 井上はアニメーターとして超一流であるだけでなく、他のアニメーターの仕事や作画技術の歴史に詳しい。作画論も超一流なのである。

 作画の緻密化について。『AKIRA』がきっかけではないかという質問に対し

「きっかけになったのは間違いないと思うんですけども……。ただ自分の中では、日本のアニメーションの技術的な分岐点は、『迷宮物語(工事中止命令)』や『ロボットカーニバル』の方になると思いますね」

-そこではっきり変わったという意味ですか。

「はっきり変わったと思います。それまではちゃんとしたものというと、昔の東映長編、宮崎(駿)さんたちの作品、あるいはテレコムの作品でしたよね。それとは違う新たな道がマッドハウスから始まり、森本さん、なかむらさんの仕事という点では、『AKIRA』よりも『工事中止命令』が、はっきり分岐点になったと思います。あの当時としては膨大に時間をかけて、商業アニメじゃないとまで言われてたわけですから。結局、今のみんなが目ざしているアニメーション技術の原点は、明らかに『工事中止命令』にあると思うんですよ」(AA)

なかむらについて

作画監督の、なかむらさんに対する井上さんの想いをうかがいたいんですが。

「そうですね……僕にとってはなかむらさんは、本当にエポックな人です。従来のマンガで子供が見るものとしてのアニメ、そういう一線を超えた人として、僕にとっては最初の人です。絵を一枚だけ見ても、格好いいと思えるようなものを描き出した最初の人です。

-ただ『AKIRA』の中では、なかむらさんっぽい動きは限られてますよね。

「うーん……。『AKIRA』には、正直言って僕はなかむらさんの良さはでてないと思うんですよ。『工事中止命令』を経て『ロボットカーニバル』が、アニメーションの作画のスタイルの上で、なかむらさんの転機だったんじゃないでしょうか。大友さんの影響から抜けて、自分のオリジナリティに目覚めた感じがしますんで。だから、この時点で『AKIRA』をやることは、なかむらさんにとってはすごくつらいことだったかもしれないんですよ。しかも、原画ではなく修正の方をやらざるを得なかった……代われる人も、当時だといなかったと思いますしね。(AA)

この発言を見るに、井上はリアル路線のなかむらは評価するものの、「ニワトリ男と赤い首」のポップ路線のなかむらには微妙な想いを抱いているようである。『Gライタン』を発展させたような作画で『AKIRA』ができていたら良かったというふうに思っているのかもしれない。

 「ニュータイプ」の『AKIRA』特集と同じ号に載っている「井上俊之の作画遊蕩」第1回「沖浦啓之と「AKIRA」の時代」[前編](井上と沖浦の対談企画)では以下のように語っている(なかむらのリアルな作画と『Gライタン』の話題の流れで)。

井上 僕は専門学校時代でしたけど、なかむらさんひとり原画の「大魔神の涙」(第41話) なんて本当に衝撃的だった。今にして思えば、(エゴン・)シーレや(グスタフ・)クリムトのフォルムや描線をアニメの絵にうまく取り込んだところにひかれたんでしょうね。その出会い以降、東映動画系や虫プロ系にはなかった、なかむらさん的なリアルな絵が僕らのめざす理想の作画になっていった。(NT)

なかむらの作画は動きだけでなく絵のフォルムが重要であるという。しかしこれは「ニワトリ男と赤い首」の絵柄とは違う。また井上は最近以下のようなツイートもしている。

なので今ではポップ路線のなかむらもそれはそれとして高く評価しているようだ。

リップシンクロや演技について

-全体プレスコで、2コマ作画で常に動いているような雰囲気は、どうでしたか。

「それも僕は違和感を持っていました。プレスコは大友さんのこだわりで。是非こうあるべきだとおっしゃって、それは一理あるんですが……。それを受けて描いたなかむらさんのテスト作画が、すごくティズニー的だったんですね」

-どの辺に違和感があったんですか?

「こんなことを言うと、なかむらさんは怒るかもしれませんが……。演技過剰な感じで……。僕はもっと本当の人間がするように、さりげない演技をするべきなんじゃないかと思ってましたから。金田って、もっとかったるようで、けだるそうで、めんどくさそうなヤツだと思うんですよ。そういう意味ではリップシンクロも、もっと自然体っていうか……いや、当時の僕には描けないんですよ(笑)。僕自身が描ければね、"こう描けばいいじゃん"って言えるんですけどね……」(AA)

手応え

 しかし井上は『AKIRA』に参加したことで手応えも大いに感じていたようである。

-結局、1年間の間に井上さんが『AKIRA』という作品を通じて得たものは、かなり大きいということでしょうか。

「はい。僕自身はすごく手応えがありました。これほど1年間集中してやる仕事は、それ以前にはありませんでしたし、TVをやっても、もう自分のやれることに飽きてきて、ある意味では限界を感じていた頃ですから」

……

「(……)『AKIRA』をやって、自分の才能に向いている仕事が見つかった気がして、はっきりなにかが変わりましたね。長編アニメーションで、ある程度人物の動きをじっくり描く、芝居をさせることに向いているんじゃないかと。言葉で他人に説明したりはしなかったですけど、振り返ってみるとそういう感じで、すごく幸運だなと思います。その後の仕事も、そういうことを活かせる長編の仕事が増えたので、本当にはっきりと転機になりましたし、やって良かったなと思える仕事でした」(AA)

近年の井上の『AKIRA』評価

 「ニュータイプ」では以下のようにも述べている。

-では改めて、現在から振り返り、「AKIRA」の作画表現状の意義とは何だったと思われますか?

井上 一番は、作画におけるリアリティの水準を上げたことじゃないでしょうか。画面の空間的な生合成や立体感の表現をそれ以前のアニメより一段高めた……というか、「AKIRA」という作品がそうすることを求めた。それを実現するために重要になるのが「レイアウト」という工程。「AKIRA」が現在のレイアウトチェックのシステムが生まれる、ひとつの重要な転換点になった。(NT)

そしてこれに沖浦も同意している。ただし、工事中止命令やロボットカーニバルでこのシステムがすでに使われていたかどうかはちょっとわからない。

ついでに。羅小黒戦記との比較

 ラジオ「アフター6ジャンクション」の2020年11月の『羅小黒戦記』特集のインタビューでも『AKIRA』について触れている。

open.spotify.com

『羅小黒戦記』は若いスタッフばかりで作っていてその状況が『AKIRA』に似ているのでは、という指摘に対し井上は、『AKIRA』は荒削りであったが『羅小黒戦記』には若さゆえの荒さがないと述べている。私はこの評は良作の魅力をよく表現していると思う。なのでここに付け加えることにした。

沖浦

 沖浦は緻密路線のアニメーター・監督の筆頭のような人で、特にアングルやレンズの効果など、カメラの存在を意識したレイアウトについてよく考えているようである。『AKIRA』についてもそのような観点から評価している。

-カメラアングルという考え方も、『AKIRA』以後に主流になったものですよね。

「大友さんはローアングルなんですよ。押井(守)さんの好きなローアングルとは、またちょっと意味が違うのかもしれないけど……。そもそもこの作品以前では、こういうカメラ位置の絵づくりで……という話すらあまりなかった気もしますし」

-望遠、広角などレンズの意識を持つという発想も、『AKIRA』以後に一般化したのではないでしょうか。望遠だと手前に走ってきてもなかなか大きくならないとか、そういう考え方をベースにして作画をしていく感覚は、それまでのアニメーションではありませんでしたね。(……)(AA)

ただし、レンズの概念は『AKIRA』が最初に導入したわけではないようだ。

WEBアニメスタイル_アニメの作画を語ろう

沖浦 (……)レイアウトに関しても、簡単に言うと、望遠と広角で違ってくるという事を、あまり考えた事がなかったんです。そうしたら、江村さんが本を一冊をくれたんですよ。それは写真の本で、同じように撮ってもレンズによってこれだけ違うんだ、というのが分かるんです。その本で江村さんは勉強したというんですよ。さらに、パースのとり方も教えてくれて……。それがその後、仕事に反映する部分では大きいかな、と。
小黒 それは主に江村さんのノウハウであって、『AKIRA』全体のノウハウじゃないんですね。
沖浦 ええ。『AKIRA』のノウハウっていうのは、要するに大友さんやたかしさん、森本(晃司)さんの、ある意味天才的な巧さじゃないですか。もちろん、理論もあるんだろうけど、大友さんって、引いた1本の線に味があって、それが格好いい人だから。パースをちゃんととってなかったとしても、サマになってるというか。それは真似できるものではないですからね。江村さんが教えてくれたのは、理屈で画面を構築していく事だったんです。辿り着くところは同じようなものかもしれないけど、アプローチとしては違うんです。
小黒 『AKIRA』でアニメーションに、レンズの感覚が持ち込まれたというわけではないんですね。
沖浦 それはないです。

(以下、パトレイバーやヤマトのレンズについて)(AS)

つまりまず『AKIRA』は個人技の集積のようなアニメなのであって、『AKIRA』の統一された方向性としてレンズの意識があったわけではないようだ。そしてレンズの導入に関してはよくいわれるように押井守と「パトレイバー」シリーズの存在が大きい。

北久保弘之

 北久保はのちに大友と組んで『老人Z』を監督しているが、監督としての大友には疑念があったらしい。

工事中止命令とロボットカーニバル 

「あの……あくまで自分の個人的な見解ですけれど、『AKIRA』よりも『工事中止命令』とか『ロボットカーニバル』の方が、大友克洋風味というか色合いが強かったと思うんです。『AKIRA』はなんといっても大作ですから、その分だけ味が薄くなったようなのが、残念だったですね。それは、大友さんは映画化にあたって、なかむらさんの作画監督という役職に権限を委ねて、なかむらさんのニュアンスで作業されたんだと思うんですね。大友さんもなかむらさんも、そこは仕事としてきちんと筋を通して要るなと思いました。(AA)

監督としての大友

「ただ、これはちょっと大胆な発言になっちゃうかもしれませんが……自分も監督やって演出やってる人間なんで、自分なりのアニメーションに対する"監督とか演出とはかくあるべし"というスタンスがあって、やはりそれは大友さんとはちょっと違ったものなんです(……)」

-そういった違和感は、どの辺にあったのでしょうか。

「たとえば『AKIRA』の特徴のひとつに、プレスコリップシンクロって言う、日本のアニメでは東映長編の初期しかやってないことがありますよね。でも、これが制作をひどく困難にしていたんですよ。要するにそれだけ手間がかかるわけです。それである日"大友さん、なんでリップシンクロにしたんですか"って聞いたら、"だってゴージャスじゃん"って言われたんですよ(笑)。これにはショックを受けましたね。(AA)

しかし北久保はむしろリップシンクロが完璧に成立するように全力を注いだようである。しかし北久保以外にそこまでリップシンクロ作画を徹底している原画マンはおらず、その辺りでもアニメーターごとの意識の差があったようだ。

*1:「さん」をつけろよデコ助野郎!