曇りなき眼で見定めブログ

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『ルックバック』とかいう漫画映画を観てきた!(ある意味で現代を象徴するような作品)

 まあ悪くないんじゃなかろうか。

 『チェンソーマン』の藤本タツキ先生のマンガが原作。原作は発表されたときに話題になったので読んでいた。非常に優れた構成と演出でおもしろかったが、京都アニメーションの放火事件をモチーフにした箇所があり、しかも事件があった日と同日だか翌日だかに公開していて、京アニファンとして「ネタにしてんじゃねーよ」とムカつきもした。そんな感じである。

 監督とそのほかかなりの役職を押山清高氏がやっている。この人は↓の本で「素朴系」の代表格と称されていた凄腕アニメーターである。

最近はマンガの『チェンソーマン』が素朴系の絵の影響を変に受けたのか線がおかしくなっている。

 で、本作『ルックバック』の印象だが、まあ頑張って作ったのだろうが原作には劣るという感じ。というか映画をとおして原作のおもしろさを再認識した。

 『チェンソーマン』のアニメの感想でも述べたが、世評に反してタツキ先生の魅力は「品」があるところだと私は考えている。

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先に構成と演出が優れていると書いたが、それをさらりとやってのけるところがタツキ作品のおもしろさだと思う。色や音や動きがついたアニメではその「さらり」の魅力が失われるわけで、『チェンソーマン』も本作も原作に忠実にアニメ化するのは難しいのだなあと思った。本作は声は良いと思ったが、色と音楽と動きが余計に感じた。色はシンプルにしているがそれが特段の効果を生んでいるとも思えなかった。音楽はとにかくやかましかった。動きも、例えば雨のなかで走るシーンなどマンガという動かないメディアで表現された動きだから良かったのであって、ホンマに動いてしまうとあまりおもしろくない。最後に二人でマンガを描いていた日々を思い出すシーンは逆に動かなくて不自然だった。動きがあるせいで動かないことが不自然になるという罠である。作中作の4コママンガも、原作はさらりと不条理なユーモアを見せているから良いのであって、コミカルに映像化するとくどい。

 映像作品としてのアニメ映画『ルックバック』の評価はこんなところ。ここからは原作も含め『ルックバック』という物語についてちょっと踏み込んだことを書く。

 原作について、京アニ事件をネタにしたことにムカついたと書いたが、何にムカついたか改めて考えてみた。被害者や遺族のいる最近の事件を道具にするなという当たり前の正義感みたいなのもあるが、それはそんなに大きくないかもしれない。

 それよりも、先の『チェンソーマン』感想記事にも書いたけれど、自分が後を継ぐのだというナルシシズムにムカついたというのはある。タツキファンは感動するのかもしれないが、私は『チェンソーマン』より京アニ作品のほうが何倍も思い入れがあるわけで、勝手に後を継がれても困る。そしてそういう作品を持ち上げる同業者やマンガ読みたちも気持ちの悪い人種だなあと思ったものである。

 私はこういうナルシシズムが嫌いで、アニメというジャンルはそれを感じないから好きなのかもしれない。アニメはマンガと比べて無私の精神があると思う。大人数で作るし、単純作業が多い。

 まあそれはさておき。改めて考えてみて、もっと問題があると思えてきた。

 原作が公開された当初、通り魔犯の描写が批判され、セリフが変更された。その後、単行本でまた修正されたようである。犯人は統合失調症であるかのように描写されていて、明らかに現実の事件をモチーフとしているうえ現実の事件で犯行の大きな原因としてそうした障害があったかどうかわからないなか、そのような描写は精神障害者への偏見を助長するのではないかということだったらしい。こういうフィクション中の描写が偏見につながるという主張について私は懐疑的でまあ悪くはないと思うが、問題は別にある。

 アニメ映画版を観ていて強く思ったのだが、マンガ家というのはこれほど孤独、というか社会から隔絶されているものなのだろうか。そういう構成だから仕方ないかもしれないが、あまりにも主人公二人以外の人間が作者の眼中になさすぎではないか。マンガ家という広く社会に向けて表現する人間がそれでいいのか、と思う。これが作者の自伝的な作品だとしたら、作者はあまりにも社会への関心がなさすぎではないか。だから創作そのものをテーマにしてしまうのだろうか。自分の外にテーマを見出せないから。これは先日の『数分間のエールを』でも思った。

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また好意的に取り上げた『ガールズバンドクライ』も、音楽というものをやりながら狭い人間関係に悩みすぎではないかと思った。

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これは『未来少年コナン』とは対照的である。

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 タツキ先生の構成や演出の才能はよくわかる。しかしそれによってなにを描きたいのだろう。作中で主人公が絵ばかり描いていて勉強が疎かになったりするが、それが作者自身の経験だとしたら、そんなんだからこういう世界の狭い作品になるのではないか。精神障害のある(と思われたが修正された)通り魔犯だが、二人の隔絶された「創作」という理想郷を脅かす悪者としてしか描かれていない。マンガを描いたり絵を描いたりというのは、そういう人たちも含めた社会に向けて発信するということで、ないがしろにしていいのか。そんなんだから精神障害者に配慮のないことを描いてしまうのではないか。そんなふうに思った。

 押山監督はジブリにもいたことがあるが、高畑・宮﨑監督は人間をこんなふうには描くまい。

 こうした、創作者のナルシシズムナルシシズム以外に創作の動機を持たないがゆえの視野狭窄具合というのは、現代のエンタメにかなり広く蔓延る病理と思う。その意味で本作『ルックバック』は現代を象徴する作品である。

 私が京アニが好きなのは、こうしたナルシシズムに陥らず、組織一丸となって粛々とエンタメを続けているからかもしれない。