スパイ・ファミリーのアニメを見ている。マンガは読んでいない。アーニャが動き回るシーンの作画が良いと感じる。かわいい。まあ声の演技は媚びすぎだが。
本作の根本的な欠陥としては、最近のアニメにありがちだが、マンガ的な表現を何も考えずそのままアニメ化しているために映像的に不自然になっていると感じる。アーニャが他人の心を読むという点が、マンガでは小説の地の文を読むように文字を読むのとアーニャが心を読むのがリンクするだろうが、声に出されると厳しい。心というのははっきりと言葉にして考えるものではないだろう。本当はアニメでは心の声などなしにして表情や行為などからアーニャが心を読んだことが見ている人に察せられるように演出できたら一番だろうなあと思う。そんなことをしたら原作厨が怒るし演出家にそんな力量はないだろうから無理でしょうが。
しかし、この心を読むという演出の不自然さを哲学的に考えてみると面白いんじゃないかというのが本記事である。
まず、アーニャが心を読むという経験はいかなるものか、現象学的に考えてみる。心を読むということは、超能力者でなくても多くの人が行っている。『ワードマップ 現代現象学』では、電車の座席に座っている男の子が口を尖らせて足をぶらぶらさせているのを見て「退屈なんだな」と思う、という例が出てくる。
この時、心を読んだ人は直接的にこの子の退屈さを知覚しているように思われる、みたいな議論が同書ではされている。アーニャはこれの鋭いバージョンのように思われる。アーニャは見たり聞いたりするように心を読んでいる。それがアニメでは声が聞こえるかのように表現されている。アーニャは人が多いところだと心が聞こえすぎて困るようだし、遠くの人の心を耳を澄ます(あるいは目を凝らす)ように集中することで聞き取ったりもしている。
『ワードマップ 心の哲学』でも他者の心の理解について述べられている。直接知覚の他に素朴心理学という多くの人が持つ理論的理解に基いて読んでいるという説や自分の心によってシミュレーションしているという説もあるようだが、アーニャに関しては幼児でありながら大人の心を詳細に読むし、そもそも表情や状況から伺えない命題的態度のようなものまで読んでいるのでこれは違う。
しかし心の声を聞くと言っても、人は心の中で声を発している訳ではない。文章を黙読する時なんかにそれをやる人はやるだろうが、常にそれをやって考えたりはしない。人の心の中を言葉にしたら、ジョイスの『ユリシーズ』のようになるだろう。『ユリシーズ』でもまだ文学用にだいぶ分りやすくしていると言えるかもしれない。
かと言ってアーニャは無意識的な信念までをも読んでいる訳ではなさそうである。そんなことができたらめちゃくちゃな情報ばかりで心を読むことはできないだろう。つまりアーニャは意識的な思考や欲求を読んでいる。しかしそのクオリアがそのまま読まれている訳ではない。何故ならクオリアは言葉のような形を取らないので。ということは言葉の形をとっているのはあくまでマンガ・アニメ上の表現ということになる。
第一話でロイド(仮称)が「和平のためにもっと知らなくては」みたいなことを考えてアーニャが「アーニャを知ると世界が平和に」となるシーンがある。バズに脳を支配された没個性な人たちがよくTikTokでマネしているシーンである。ここではアーニャはそれ以前のロイドの思考は読めていなくて「アーニャを知ると世界が平和に」なるという部分だけ読んでしまったようだ。アニメだとアーニャが読む時に「キュイーン」みたいな音が鳴る。マンガだとコマが分れているのかもしれない。この時アーニャはロイドの思考や欲求は読めたが、ロイドがアーニャと接しようとする際の意図は読めていない。意識の焦点が移ったからだろう。
ちょっとまとめるよ。
アーニャは思考や欲求といった命題的態度を、それが意識されている際に読むことができる。しかし、そのクオリアを読んでいる訳ではないか、クオリアを読んでいるがそれがアニメでは違ったように表現されている。何故なら命題的態度のクオリアは言葉の形をとらないので。
さてしかし、最近の心の哲学では消去主義と言って命題的態度なんかないという議論が有力なようで、となるともっと脳内で分散された表象をアーニャは言葉として再構成して読んでいるのかもしれない。