曇りなき眼で見定めブログ

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キャラクターの死がバズることについて考える。それと「鉄腕アトム」地上最大のロボットの巻など

 近年、マンガなんかでメインキャラクターが死んでそれがSNSで話題になるということがよくあると思う。「バズる」というやつである。で、私はこの文化が苦手である。なぜ苦手なのか考えてみた。

「ワンピース」はキャラクターがなかなか死なないことで有名だが、これは確か尾田先生のポリシーだったと思う。といってもまったく死なないわけではない。ただし「殺す」ということを戦いの目標としないようになっている。あと宮崎駿は「フランダースの犬」でネロが死ぬ感じを嫌っているフシがあったと思う。宮崎アニメでもキャラクターはまったく死なないわけではないが、死を感動に使うことはない*1。私としては「キャラクターの死を感動的に描くなどゆるせん」という感じではなく、キャラクターが死んだところでそれほど感情を揺さぶられないのが問題である。それがどう描かれるかが重要で、死ぬという事実はそれほどである。

 こういうキャラクターの弔いみたいな状態を盛り上がれる人というのは、共感能力が高いというか、優しい人なのではないかと思う。私はフィクションのキャラクターが死んだところで「いやフィクションだし」みたいな感じなのだろう。しかし事件や事故の容疑者を過剰にバッシングする人なんかを見ていると、こういった優しさが暴走しているように思われ、私は冷たい人間でよかったな〜と思う。

 また、私はキャラクターを実在するものと同等に扱っていないのだと思う。描かれている以上のことを読み取ろうとはあまり思わない。もちろん行間を読むというかセリフなどで明示されていない情報を推察したりはするけれど、キャラクターに熱を入れる人というのは、もっとキャラクターが実在の人物のように毎日朝起きてご飯を食べてというふうに生活して歴史を刻んでいるという感覚でいるのだろう。なのでキャラクターが死ぬと、私はその作品のなかで死ぬという役割を果したのだという感覚になるけれど、入れ込む人は作品のなかの世界でそうやって生きてきた者が死んだという感覚になるのではないか。

 これらの点から考えるに、私は死というものを他人事として見れるというのもフィクションの良さだと思っているが、フィクション内の死も切実に捉える人が多いのだろう。かつて「あしたのジョー」で力石徹が死んだ際に葬式というイベントというかパフォーマンスを打った寺山修司は、やはり先駆的である。

 

 ここでもっと複雑な事情の作品がある。それが「鉄腕アトム」の「地上最大のロボット」というエピソードである。これはアトムのなかでも有名なエピソードで、これを基にして浦沢直樹が「PLUTO」というリメイクを描いている。ストーリーは、とある国を追われた王(アラブ系の見た目で「サルタン」と呼ばれる)が、アブラー博士*2という謎の博士にプルートウというロボットを作らせる、サルタンはプルートウに世界最強の七体のロボットを倒すことを命ずる、サルタンはそれによって世界に復讐をしようとする、その七体にはアトムも入っている、次々と強いロボットが倒されていく、アトムもプルートウと対決する、というお話。調べてみると当時アトムは「鉄人28号」と人気を二分していたというか負けつつあって、流行をガンガン取り入れる手塚らしくバトル要素を組み込んで描いたのがこの話らしい。モンブラン、ノース2号、ブランド、ゲジヒト、ヘラクレス、エプシロンという世界各国の強力なロボットを次々と倒していくプルートウは圧巻なのだが、同時にプルートウには紳士なところや優しいところもあり、まずウランと心を通わせてそれからアトムとも打ち解けていく。最終的にプルートウは戦いの虚しさに気付いて人間の言いなりに戦うのをやめるのだが、なんか最後にボラーというめちゃくちゃに強いロボットが現れてプルートウは破壊されてしまう。

 私はこのエピソードをアトムの文庫版で読んだのだが、それには冒頭に描き加えたであろうシーンが挿入されている。これがずっと心に残っている。プルートウが死んだと思しき火山の絵をバックに、妙に厳かな散文詩のような文体でアトム以外の死んだロボットたちの名前を挙げ追悼のような文章が書かれる。曰く

 

 はるかなる

 火の山のほとり

 大地の亀裂と

 めくるめく雲界の底に

 くだけ散り

 消え去ったプルートウ

 

 われとわが

 生きるべき道を

 ためらいもなく

 うたがいも

 はじらいも

 にくしみもなく

 ひたすら全うして

 消えて行った

 

 モンブラン

 ノース2号よ

 ブランドよ

 ゲジヒトよ

 ヘラクレス

 エプシロンよ

 

 おろかにも

 あくなき権勢欲と

 支配欲をかざして

 かりそめのいのちを創造し

 おのが手でほろぼした

 人間たちを

 かれらはいつ

 さばくのだろうか

 

 そして次のページからは作者の手塚治虫が現れて連載当時を振り返って語り出すのである。手塚によれば、プルートウを悪役として登場させたにも関わらず悪者にしきれなくて、死んだ時は読者から批判の手紙を多く貰ったらしい。冒頭の追悼といい手塚の述懐といい、文庫で読むと最初からアトム以外のほとんどのキャラクターが死ぬことをネタバレされるのだが、手塚はおそらく劇的なストーリー展開のためにキャラクターを死なせていったことを悔やんでいたのだろう。プルートウを作ったアブラー博士はゴジ博士というもう一つの顔を持っており、密かにプルートウ以上に強いボラーというロボットを作っていた。ボラーはプルートウを圧倒するが、プルートウが自爆してボラーもろとも死んでしまう。アブラー博士=ゴジ博士の正体はサルタンの召使だったロボットであり、サルタンに戦いの虚しさを教えるためにプルートウとボラーを作ったのだ、というのが「地上最大のロボット」の巻のオチである。お話の構造として、最強のロボットたちもプルートウも人間の都合で殺し合わされ死んでいき、それをボラーというさらに強いロボットで終らせるのもゴジ博士というロボットである、ということになっている。そして冒頭に追加された追悼と手塚のプルートウへの想いも実はこれを並行している。モンブラン、ノース2号、ブランド、ゲジヒト、ヘラクレス、エプシロン、プルートウ、ボラーというロボットたちは、みなこのエピソードのために作られたキャラクターで、このエピソードのなかで死んでしまう。それは手塚治虫という人間の都合で作られた「かりそめのいのち」で、マンガとしてのおもしろさのために殺されてしまう。ロボットたちの悲しい宿命が手塚のなかで、キャラクターや物語を生み出し時には死なせるマンガ家という生業の業の深さとシンクロしてしまったのではないかと私は読んでいる。

 最初のほうでいろいろと書いたけれども、私がキャラクターの死に熱くなれないのはこの「地上最大のロボット」での手塚治虫のキャラクターへの想いに触れてしまったからというのが実は大きい。キャラクターが実在するかのように感じて共感するのではなく、むしろどれだけリアリティがあっても人間による被造物でしかないという事実のほうが私にとって重大になってしまったのである。

*1:風立ちぬ」は何ともいえん。

*2:媒体によってアブーラだったりアブラーだったりする。