曇りなき眼で見定めブログ

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ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ弐拾七・第10章4節〜11章(予習編)

 メイク・ビリーブを題材とした雑談の記録。最終章であるよ。

 他の回はこちらから。

 10章後半では「非公式のごっこ遊び」というなかなか応用が効きそうな概念が出てくる。最終11章ではごっこ遊び的な存在に関する興味深い考察がなされる。私は前回の議論をちょっと修正するか撤回するかしたいかもしれない。

非公式のごっこ遊び

公認のごっこ遊び

 まず「公認のごっこ遊び」というのが出てきていた。その定義は「その中で小道具として用いられることが作品の機能であるような遊び」というものである(401ページ)。作品にとってオーソドックスな観賞はこれである。

非公式のごっこ遊びの積極的意義

 非公式のごっこ遊びというのは公認されていないごっこ遊びのことなのだが、ウォルトンはもっと積極的な意義を持たせている。いろいろ例を挙げている。おもしろいのは

 

 野蛮人が聖母マリアを大槌で襲った。

 

これはマリアの像を壊すことが虚構においてはこうなる、という例である。もっとおもしろいのが

 

 ロビンソン・クルーソーガリヴァーよりも臨機応変の才があった。

 

というように作品を跨いだ論評のような言明である。

 こうした非公式のごっこ遊びという考え方を用いることで虚構や架空の存在に関する言明を自然に解釈できるというのがウォルトンの方針である。

二次創作について考えよう

 たびたび二次創作について論じてきた本シリーズだが、二次創作というのは非公式のごっこ遊びではなかろうかとも思える。けど違うかもしれない。

 まずまちがいなく公認のごっこ遊びではなかろう。では、二次創作はもとの作品を道具として用いるごっこ遊びなのかどうか。そうではあろうが、非公式のごっこ遊びの例とは違う面も多い。

 例えば殺伐としたマンガのキャラクターがほのぼのとした学園生活を送っている二次創作作品があるとする。「主人公A*1は平和な学園生活を送る学生だ」という言明は、二次創作作品に関して虚構的に成り立つ言明、あるいはそう言うことが虚構的に成り立つが、元の作品についての言明でもあるように思える。本作品と二次創作とのこうした依存関係のようなものはキャラクターによって結びついていると私は思う。まだあまり考えがまとまっていない。

論理形式

 架空の存在を指示するように見える文の論理形式について詳細に論じられているが、難しくてよくわからなかった! 私の専門的にはこういうのこそわかっているべきなのであろうが……。ただしヴァン・インワーゲンに言及していて、ヴァン・インワーゲンの論文は次に読む予定だったのでそちらをじっくり読みながらまた考えたい。

存在についていろいろ

 ふり行為の暴露

 これは難しいがおもしろい。

 

 グレゴール・ザムザは『変身』の登場人物である。

 

と言ったとき、これはグレゴール・ザムザを指示するふりをしているのだが、そのふり行為が暴露されているという。それは『変身』という作品名にも言及していることからわかる。さらに、

 

 グレゴール・ザムザは存在しない。

 

というのは、指示するふりの暴露であると考えられる。発話者はこう言うことでいま自分がふりをしていると暴露しているのである。

 虚構作品と結びつかない言明でもこの考え方が使える。

 

 ヴァルカンは存在しない。

 

なんかも(ただし、これの発話者はヴァルカンが存在しないことをわかっているとするのだと思う)。

引用

 私がいま記述した類いの非公式のごっこ遊びにおいて虚構として成り立つ事柄、つまり私たちが事実であるふりをする事柄は、まさに、実在論的な立場をとる理論家たちが現実において事実であると主張する事柄である、ということが注目されるだろう。それらの事柄とは、例えば、「たんに虚構的な登場人物にすぎない」といった述語によって表現される特性を備えたものが存在するとか、「存在する」はある特性を表現しており、その特性をある事物は欠いている、といったことである。そういう理論家たちの誤りは、文字どおりにしか考えない傾向が過剰だということである。彼らは、ふり行為を、ふり行為によって提示される事柄と取り違えるのである。(421ページ)

私の考え

 上の引用はなかなか耳が痛い。分析哲学は言語の分析をするが、ウォルトンはそれはふり行為かもしれないのだから文字どおり受け取りなさんなと述べている。確かにそうだ。なのでキャラクターの存在は慎重に扱うべきである。

 他方で、前半で述べた二次創作の例なんかは、キャラクターへの言明が作品の単位を超えて起りうることを示唆している。本書でもオデュッセウスユリシーズの比較とかがあったが、これらも結局は個々の作品似根ざしたものであった。キャラクターへの指示はふり行為なのかもしれないが、しかし本書の分析で尽きてはいない。私はやはりキャラクターというのは虚構性にプラスして意匠とか人工概念とか種とかプロダクトとかそういう観点からの分析も必要とするものだと思う。

*1:具体例が思いつかなくてごめんなさい

【感想】『サイダーのように言葉が湧き上がる』(古いものは慎重に扱いましょう……)

 けっこうおもしろかった!

小説 サイダーのように言葉が湧き上がる (角川文庫) サイダーのように言葉が湧き上がる 1 (MFコミックス アライブシリーズ) 劇場オリジナルアニメーション「サイダーのように言葉が湧き上がる」オリジナルサウンドトラック

 『映画大好きポンポさん』もそうだったが、とにかくいろいろな演出技法をこれでもかと詰め込んだ現代アニメらしい作品である。画面分割とか音楽との同期とか視点がよくわからないカメラワークとかスマホのスクリーンを鏡のように使う演出とか。最大の特徴は原色を大胆に使って輪郭線を太めに引いた独特な背景画である。わたせせいぞうを思わせる(と私は思ったのだがあっているだろうか)。

わたせせいぞう自選集 ハートカクテル サマーストーリーズ (小学館クリエイティブ単行本) SEIZO ROMANCE わたせせいぞうイラストレーションズ

 それと配信アプリとか俳句とか俳句のタギングとかモチーフとしてもおもしろい要素がいろいろ出てくる。とにかくそういうのが楽しくて見飽きない。私はそういうのは好きである。あとスマイルの家の間取りがめちゃくちゃオシャレで良い。

 要素が多すぎてお話が散漫な感じもするのだが、なんだかんだで最後にうまくまとまっている感じもしたから全然OKだった。主人公の少年チェリーは場面緘黙症とか赤面症とかそういうのだと思うのだが、それが彼にとってどのように辛いのかがあまりよく見えなかった。しかし最後の告白がいい感じだったからまあよし。あのヘッドホンは大きい音が苦手というのとともに自分の声が苦手というのもあるのだろうか。スマイルの歯については俳句とレコードいうモチーフと上手く連動していて良かった。レコードの探索はもうちょっと計画的にやってほしいし古いものは慎重に扱ってほしいが。そしてあの藤山さんというのが何モンなのかが結局よくわからないのだが、物語が真っ直ぐに二人の話とならずに藤山さんの人生を追っていくうちに触発されるお話となっていてそう考えるとけっこうおもしろい。

 冒頭で巨大なショッピングモールが上空から映し出されるのにけっこう興奮したのだが、それが最後の花火の演出で反復されて再度興奮した。よいクライマックスだったと思う。

 

 とにかく意欲的なアニメ作品だしキャラはかわいいし、観ていて好感が持てた。観て損はないんじゃないかしら。マニアもそうでない方も。

【感想】『100日間生きたワニ』を観てきたった(そしてオリンピック開会式について考えた)

 しつかりとつまらなかった!

 100日後に死ぬワニ (ゲッサン少年サンデーコミックススペシャル)

 観ているあいだずっと「そもそもこの映画は誰が何のために作ったのだろう?」という気持ちであった。それくらいエネルギーというか訴えるもののない作品なのである。話もよくわからないし絵も原作のイラストが喋るだけである。何故このようなものが生れてしまったのか。トゥイッターでバズっていた頃からも含めて検証したいものである。

 監督は『カメ止め』の上田さんとその奥さんで、アニメーションディレクターは『伝説巨神イデオン』の作画監督などを務めた大レジェンドの湖川友謙先生、キャストは数々のヒット作で声を当てた神木くんや旬の声優のキムスバ、その他売れっ子俳優とファーストサマーウイカ、そして音楽は亀田誠治いきものがかり。こう列挙してみるとわかるのだが、企画自体がなんだかよくわからないのである。原作のきくちさんも含め、このうち何人が本気でこの映画を作りたいと思っていたのだろう? インタビューを見ると監督と湖川さんはかなり真剣だったようなのだが、それは本当に作品や企画に対する真剣さだったのだろうか、なんかひとりよがりになっとりゃせんかっただろうか、と首をかしげたくなる。

 こうした一連の、企画や制作やコケ方が、オリンピックの開会式に似ていなくもない。というかオリンピック全体か(オリンピック自体は始まったら盛り上がっているようだが)。いろいろな人がいろいろな思惑を持って変な情熱や技術を注いだ結果なんだかよくわからないものが出来上がる、という非常に恐ろしくもありふれた現象がどちらにも現れている。

 

 私はトゥイッターで毎日やっていた頃はほとんど見ていない。炎上してからは炎上ウォッチャーとしての血が騒いで騒動を追っていたが、話はぜんぜん知らなかった。しかしやはり毎日一話ずつ四コマをやって「死まで○日」と出すからおもしろいのであって、普通に劇映画にしちゃったら単にワニが死ぬだけの話になるのは当り前だろう。この作品のファンが観て、映像化されているということ自体に感動する、そういう企画ということか。

 そんであのカエルは何だ! ワニ死後の多分オリジナルのストーリーだろうが、普通に重い話だし、普通にカエルの話ではないか。

 ものすごく根本的なことだが、話の重さと絵柄が合っていないと思う。原作はイラストレーターの四コママンガであって、けっこうシュールな雰囲気が奇抜なアイデアとマッチして味になっていたと思う。先述の通り劇映画にするとただの若者の死を扱った重い話にしかなっていない。それだとじゃあなんでアニマルなんだという話になる。

 

 しかし良かった点はあって、監督の趣向かと思うが、喋りの演技がとても自然だった。アニメはファンタジーや学園ものが基本で、こうしたフリーターとか普通に働く青年の話というのは珍しい。その雰囲気はけっこうよくでていた。

「直観主義型理論(ITT, Intuitionistic Type Theory)」勉強会ノート其ノ弐拾弐「命題的な(?)等しさ(途中から)」(復習編)

 こちらの復習編。

同一性の除去公理

 わたくし的に気になったのは、プリンキピアでは性質に量化しているがITTではそれができないという点で、集合族を \Pi で束縛することもできるのに何故だろうと思った。しかしITTはどうも高階論理に対応するものではないので、なんかあるのだろう。

左射影規則の逆の証明

 この例はティピカルだと書いてある(34ページ)が、何がティピカルなのかわからなかった。ここの段落の議論は難しくてよくわからない。

性質と要素のインデックス付族

 具体的な導出がわからなかったのでまた次回。

 

ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ弐拾六・第10章1-3節(復習編)

 こちらの復習編。

ガリヴァーリリパット人も存在しないのなら、彼らについての命題も存在しない。それゆえ、ガリヴァーリリパット人に捕らえられたという命題も存在しないと思われる。(385ページ)

私の説だとこのような命題は存在するともいえるし存在しないともいえる、と思う。これはde reとde dictoとか絡んでくるかも。

 例えば

 

 セバスチャンはシエルの執事である。

 

という命題は存在するのか? ウォルトン説ではこれは何か別の命題の言い換えということになるが、私の考えではセバスチャンやシエルという存在者についての命題とも言えると思われる。作品を超えて作品の登場人物に言及できるか、という問題かもしれない。二次創作などでこの設定は改変できる、とか考えだすと固定指示子の議論に似てくる。

 あと予習編でりんごとハチミツを例にとったが、これらは種名辞なので微妙だったかも。

『竜とそばかすの姫』の感想(死ぬほどのネタバレ)

 すごく微妙だった! なんだろう、この気持ち。

話の話

 なんというか、すごく変な映画だった。細田さんてこんな感じだったけか。『未来のミライ』は金曜ロードショーで一度見ただけだったからあまり憶えていないのだけど、あれもそうだったかもしれない。とにかくものすごく散漫なのよ。話が。

 スズが歌えなくなった経緯がよくわからなかった。お母さんが亡くなったときとカラオケで歌わされそうになったときでは何年も離れているはずである。おそらく歌えなくなった原因はお母さんが亡くなったことにあるはずだが、そのときの描写がなかった(と思う)。なぜ高校生になってからのことが象徴的に出てきたのだろう? そもそもお母さんの死と歌がどのように結びついているのかがわからない。合唱サークルのババアたちが出てくる。スズはお母さんと一緒に参加していたようである。なんかそのあたりだろうか。すずはあのサークルが嫌になっているわけではないのでトラウマがあるわけでもなさそうだが。

 そして(!)歌えるようになったことがスズにとってどういう意味を持つのか? あとメガネの子のスペックとかあの子がいかにプロデュースしたのかとかも謎である。けっこうメガネの子とのやりとりもおもしろかったが、あまりなかったなあ。

 あとそもそもあの合唱のババアたちが必要だったのかという問題もある。電話をしたりクルマを飛ばしたりというどこのババアでもできる活躍しかしていない。そのキャラの薄さを埋めるためかババアのひとりが「オハイオで〜」という昔の恋話をしだす。オハイオとかいらんねん、と思った。

 サックスの子とカヌーの子の告白のくだりとかも、なんでこんなサイドの話にたっぷりとるんじゃ、となった。あとクラス内のLINEイジメみたいなやつもなんだったのだろう? あとババアとシノブくんはなぜスズがBelleだと気づいたのだろう? よくわからない。

 とにかくエピソードや描写のバランスが変なのである。けっこうポカンとしちゃう瞬間が多かった。「ワシはいま何を見せられているのだ?」みたいな。これは話とかキャラクター以外にもいろいろある。後述。

 テレビシリーズとかOVAシリーズのほうが良さそうなストーリー構想だと思う。でもやっぱりレイアウトの雄大さは映画向きだったり。

 というこの作りはもしかしたら意図的かもしれない。「小説を読んで補完してください」みたいな。ワシゃ読まんぞ!

ビジュアルと音楽

 最初にUチュートリアルみたいなシーケンスがあるが、ここがいちばん良かった。すごくワクワクした。クジラに乗ったBelleに。また最初の曲もとても良かった。millennium paradeだと思う。

 Uは3次元モデルを作っているのだろうが、それがあればよいというものではない。実写映画でロケーションのなかでどう撮るかというのと同じで、レイアウトが重要である。細田作品の最大の長所はああいう未来的な世界観のデザインとレイアウトのセンスだと思う(細田さんが直々に描いているわけではなかろうけど)。画面の半分くらいを、巨大構造物みたいなのの外から見た側面が占めていてあとは空、みたいなレイアウトがキービジュアルにもなっていたと思うが、あれは本当に美しい。CGで緻密に作っているのに書割みたいな雲が出ているのもオシャレである(誰の発案かは存ぜぬが)。

 で歌なのだが、中村佳穂さんは、こういう「歌が感動をもたらす」「歌で世界を救う」系の映画*1の歌い手史上最も上手いと思う。マジで。曲も良い。ただし、わたくし的にはクライマックスの歌より前半に出てきた二曲のほうが良かったのが残念だった。けどクライマックスの、画面やや右にスズが背を向けて浮んで粒みたいになったアバターと構造物が背景を埋めている、このレイアウトなんかも素晴しいと思う。

 キャラクターデザインはBelleに関してはすごく良かった。ディズニーの人がやっているらしく*2、けっこう『美女と野獣』のパロディ的である。

全体的に

 細田さんは『おおかみこどもの雨と雪』のようなファンタジー的で家族を描くのが最近の作風だが、『サマーウォーズ』みたいなインターネットを題材にしたSFもある。けどこれもまあ家族の話である。もっと純粋にインターネットの仮想空間の話だとさらに遡って「デジモン」の劇場版2『ぼくらのウォーゲーム』がある。

 これらはタイトルも話も似ているのだが、今回の『竜とそばかすの姫』もなんだかんだで似ている。大きく違うのは、現実のコンピュータやインターネットがどんどん進化しているという点であろう。この三作はそれぞれちょっとずつ近未来のサイバースペースを描いていると思う。私はこのたび初めてリアルタイムで実感しながら細田ワールドを観たことになる。

 『サマーウォーズ』の頃はまだトゥイッターがまだ全くと言っていいほど普及していなかったはずで、掲示板とかテレビが主要メディアだったはず。今作ではけっこう「つぶやき」スタイルの言葉の洪水みたいなイメージが重要である。しかしあのつぶやきに声を乗せるのはちょっと違和感があった。SNSのイメージを描こうとしているのだろうが、トゥイッターを見ていても声は聴えてこない。しかしこの違和感以上のもっと大きな違和感があって、これは「根源的な問題点」として後述。

 『ウォーゲーム』や『サマーウォーズ』ではサイバースペース上の悪事が現実世界にも悪影響を与えるのだが、今作ではそれがどうもなさそうだった。これはあとで気づいたのだけれどけっこう重要なポイントのように思う。そしてまたよくわからない点でもある。竜がやっていたことというのは実はオープンワールドのチート程度のことだったのではなかろうか。「チート程度」と書いたがプレイヤーたちからしたら大問題である。それであのヒロアカみたいな自治厨が暴走したのだろう。このあたりも後述するとして、じゃあケイくんはなんで竜なんてやっていたのだろう。それができたのだろう。またも謎である。

 あとで考えたら、チートというよりはクソコテに近いような気がした。竜は誰彼かまわずレスバを仕掛ける荒らしのようなものなのではなかろうか。で、古参住人や自治厨が特定して晒す、という流れに似ている。

 最終的に虐待を扱うことにしたのは細田さんの発案だろうか。最後にリアルに対面するところなんかは『君の名は。』とか『天気の子』のラストみたいだった(私はこれけっこう好き)。これは川村元気さんの発案だろうか???

根源的な問題点

 結局のところUってなんなのだろうか? これがわからないのである。神経か何かを接続して感覚も仮想世界の中にいるように感じられている、ということでいいのだと思うが、その間リアルの身体はどうしているのだろう? 話に関して「何を見せられているのだ?」と書いたが、もっと根源的に「いま我々が見ているものは何なのだろう?」というのがわからないのである。登場人物が真に見ている光景なのか、それを抽象化したイメージなのか。というのは『サマーウォーズ』でもそうだったかもしれないが、あちらはたぶんちゃんとディスプレイ越しということになっていたと思う。キャラクターがサイバースペースにいるように描かれているのはそういうイメージかと。今敏監督の『パプリカ』の夢の世界とかもちゃんと分離されていたような。

 例えばunveilされたスズはどう見えているのだろう? CGのはずだが、それはunveilといえるのか? でもこれはさすがに「愚かな問い」かも。これが作品の質を損ねているとかではなさそうだ。

 私がこうした点で気になってしまうのはこんな感じでケンダル・ウォルトンの虚構論、特に描出体の議論に慣れてしまったからだろうか。また最近は「羅小黒戦記」で"衆生の門"なるVRゲームの話をやっていて、これがものすごく設定が緻密にできている。ログインとログアウトの仕組みを明確に作中で描いている。ログイン中に現実で空き巣(?)が入ったというのがゲーム内で警告されてたりとかおもしろい。このような徹底っぷりが本作にはなく、そこを観客に補完させているのが物足りなさに繋がった。

 羅小黒戦記についてついでに述べておくと、この作品はSNSとかネットゲームとかにどっぷりと漬かった人たちが作っているのがよくわかるのである。細田さんがSNSとかオープンワールドのゲームとか歌い手とかVTuberとかボカロとかMADとかいうものにそれほどハマっているような感じはしない。SNS上のつながりみたいなのに肯定的でも否定的でもなさそうではある。お母さんが亡くなったときのは不特定多数の声の恐ろしさみたいなのはあった。

www.bilibili.com

まとめ

 というわけで良い作品とも悪い作品とも言い難いのだが、良くも悪くもない作品というわけではなく、良いところはとことん良いので、こういう作品は大事である。ただ、数年に一度の細田守作品がそういう評価でいいのかな〜というのはある。

*1:20世紀少年ェ…

*2:「ディズニーの人」というなんか失礼な言い方しかできないほど私はディズニーをよく知らない。

ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ弐拾伍・第10章1-3節(予習編) 2.5次元と3次元の違い〜知りもしない『黒執事』を題材に〜

 シリーズの他の回はこちらから。

 

 第10章のタイトルは「架空の存在者をしりぞける」というもので、虚構的対象と言われるものを存在者として認めないとする立場を論じている。私としてはキャラクターの存在を擁護したいのでこの章の議論は倒すべき敵である😡

分析哲学の伝統的な議論

 ラッセルとマイノングの有名な存在すること(being)と実在すること(existence)を分ける議論などを取り上げてウォルトン先生は「こういった仕掛けは、ヴードゥー呪術的な形而上学に見える。こんなものは矛盾を隠蔽するために考案されたごまかしだという印象は避け難い」(380ページ)というやや差別的な表現で一蹴している。ロジックをやっている私は本来こういうのを擁護するべき立場かもしれないが、ぶっちゃけウォルトン先生に同意である。

 もうひとつ一蹴されているのが、それを指示の問題に還元するやり方である。虚構的対象が問題なのではなくそれを指示する行為や作用の分析である。これもなんだかややこしい議論になるだなのだ。

虚構的対象への疑いと抽象的存在者一般に対する疑いの違い

 虚構的対象が(現実にはいなさそうなのに指示したり真偽が問えたりするということを除いて)存在論的に特殊なのは、「サンタクロースは実在する」とかいうふうに、誰もが実在や存在について語るという点であるという(384ページ)。これは抽象的存在者一般にはない特徴で、例えば数や特性について実在するとかしないとかいうのは哲学者くらいのものである。

 ただし、数や特性がりんごやハチミツ*1と同じようなモノだとは一般人や子どもでも思うまい。あくまで、存在論的な問い(?)みたいなものをこれらに対してふつうは抱かない、ということである。

ふりをする

 ウォルトン先生が重視するのは「ふりをする」という行為である。ただしどうも前のほうで退けたサールの(言語行為論的な)偽装説とは違うらしい。サールの論では虚構というのは作者による「ふり」であったが、ウォルトンは読者のごっこ遊びに注目する。なお、このあたりは柏端達也『現代形而上学入門』のフィクションを扱った章で争点になっていた。柏端先生はサールを指示してウォルトンを批判している。これについてはそのうち論じたい。

 ウォルトン先生の基本的な方針はこうである。例文として本文にも登場する

 

 トム・ソーヤーは自分の葬式に出席した。

 

を考える。これを私が発話したとすると、これは『トム・ソーヤーの冒険』において真となる。重要なのはこれが現実世界のおいて真となるのではなく『トム・ソーヤーの冒険』の虚構世界において真となっていることである。この発話(断定)自体がごっこ遊びの一部を成している、というのがウォルトン説で、これはなかなかおもしろい。

 例文のような言明は「通常の言明」と呼ばれている。これは無茶な深読みなどせずとも自然と成り立つような言明である。『トム・ソーヤーの冒険』は、こうしたことを話す人が真なことを話しているということを、自分自身について虚構的に成り立つようにする、ということである(395ページ)。虚構的対象の存在やそれへの指示はここでは問題ではない。消去できる。重要なのはあくまでごっこ遊びと、それにおける例文のような断定するふりだからである。

私は何故これに反対なのか?

 実はここまでの議論は完全に正しいと私は思っている。しかしそれでも虚構的対象は存在すると思う。あんまり固まっていないので徒然なるままに書く。

 まず、今のところほとんど文学作品や伝説みたいなのしか扱われていない。描出体だとこの議論はどうなるだろう?

 また、例えばこれでユニコーンやトム・ソーヤーといった存在者はしりぞけられるが、例えば虚構においてりんごやハチミツといったごくふつうの存在者に言及することはある。これはどうだろう。これらは架空の存在者ではないので、今回のようにしてしりぞけられることはない。

 このシリーズで何度か書いたが、例えばアニメを見ているときにキャラクターがそこにいるように感じられる。ユニコーンタペストリーはユニコーンという存在者を描いたものといえるが、今回のような議論ではそうではないことになる。しかし私としては、キャラクターの絵は、特定のキャラクターという存在者を絵というメディアで表現したものだ、と言いたい。これを示す微妙な例がある。それは2.5次元と3次元の違いである。

 2.5次元も3次元の実写もどちらもあるような作品を探したところ、『黒執事』がヒットした。

↓こちらが原作マンガ

↓これが実写映画版。もうひとりの主人公の少年が何故か剛力彩芽さんになっている。原作とは違う人物らしい。こういうのは(よくない言い方だが)原作レイプなどと言われて叩かれたりする。

黒執事

黒執事

  • 水嶋 ヒロ
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↓これが2.5次元のミュージカルかな。「生執事」と呼ばれるらしい。

主人公は執事のセバスチャンである*2。実写映画では水嶋ヒロ氏が演じている。いろいろあったあとの久々の映画出演で話題になったのを憶えている。2.5次元(生執事)のほうは何度も公演していて再演もあって様々な人が演じているようだが、リンクのやつは古川雄大氏である。

 私が言いたいのはこういうことである。おそらくこれらを見る人は(私は見ていないのだが)、水嶋ヒロ氏はセバスチャンという人物*3であると思って見ているが、古川雄大氏はセバスチャンというキャラクターだと思って見ている。これは断定やふりといった言語行為では説明のつかない違いではないかと思う。まあ頑張れば説明できそうだが、私はセバスチャンをりんごやハチミツのようなものとして認めて、古川氏はそれそのもの、水嶋氏はそれと多くの性質を共有した別な何か、であるというごっこ遊びが成立していると考えたほうが自然であると思う。それくらいキャラクターというのは直観的に強力で印象的な何かなのである。

 なんかうまく書けなかった。

 

 どうでしょう? 10章後半へつづく。 

*1:

*2:執事のキャラクターは何故かセバスチャンという名前であることが多く、この由来は諸説あるようです。

*3:人物なのかどうかはアレですが…