曇りなき眼で見定めブログ

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ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ弐拾伍・第10章1-3節(予習編) 2.5次元と3次元の違い〜知りもしない『黒執事』を題材に〜

 シリーズの他の回はこちらから。

 

 第10章のタイトルは「架空の存在者をしりぞける」というもので、虚構的対象と言われるものを存在者として認めないとする立場を論じている。私としてはキャラクターの存在を擁護したいのでこの章の議論は倒すべき敵である😡

分析哲学の伝統的な議論

 ラッセルとマイノングの有名な存在すること(being)と実在すること(existence)を分ける議論などを取り上げてウォルトン先生は「こういった仕掛けは、ヴードゥー呪術的な形而上学に見える。こんなものは矛盾を隠蔽するために考案されたごまかしだという印象は避け難い」(380ページ)というやや差別的な表現で一蹴している。ロジックをやっている私は本来こういうのを擁護するべき立場かもしれないが、ぶっちゃけウォルトン先生に同意である。

 もうひとつ一蹴されているのが、それを指示の問題に還元するやり方である。虚構的対象が問題なのではなくそれを指示する行為や作用の分析である。これもなんだかややこしい議論になるだなのだ。

虚構的対象への疑いと抽象的存在者一般に対する疑いの違い

 虚構的対象が(現実にはいなさそうなのに指示したり真偽が問えたりするということを除いて)存在論的に特殊なのは、「サンタクロースは実在する」とかいうふうに、誰もが実在や存在について語るという点であるという(384ページ)。これは抽象的存在者一般にはない特徴で、例えば数や特性について実在するとかしないとかいうのは哲学者くらいのものである。

 ただし、数や特性がりんごやハチミツ*1と同じようなモノだとは一般人や子どもでも思うまい。あくまで、存在論的な問い(?)みたいなものをこれらに対してふつうは抱かない、ということである。

ふりをする

 ウォルトン先生が重視するのは「ふりをする」という行為である。ただしどうも前のほうで退けたサールの(言語行為論的な)偽装説とは違うらしい。サールの論では虚構というのは作者による「ふり」であったが、ウォルトンは読者のごっこ遊びに注目する。なお、このあたりは柏端達也『現代形而上学入門』のフィクションを扱った章で争点になっていた。柏端先生はサールを指示してウォルトンを批判している。これについてはそのうち論じたい。

 ウォルトン先生の基本的な方針はこうである。例文として本文にも登場する

 

 トム・ソーヤーは自分の葬式に出席した。

 

を考える。これを私が発話したとすると、これは『トム・ソーヤーの冒険』において真となる。重要なのはこれが現実世界のおいて真となるのではなく『トム・ソーヤーの冒険』の虚構世界において真となっていることである。この発話(断定)自体がごっこ遊びの一部を成している、というのがウォルトン説で、これはなかなかおもしろい。

 例文のような言明は「通常の言明」と呼ばれている。これは無茶な深読みなどせずとも自然と成り立つような言明である。『トム・ソーヤーの冒険』は、こうしたことを話す人が真なことを話しているということを、自分自身について虚構的に成り立つようにする、ということである(395ページ)。虚構的対象の存在やそれへの指示はここでは問題ではない。消去できる。重要なのはあくまでごっこ遊びと、それにおける例文のような断定するふりだからである。

私は何故これに反対なのか?

 実はここまでの議論は完全に正しいと私は思っている。しかしそれでも虚構的対象は存在すると思う。あんまり固まっていないので徒然なるままに書く。

 まず、今のところほとんど文学作品や伝説みたいなのしか扱われていない。描出体だとこの議論はどうなるだろう?

 また、例えばこれでユニコーンやトム・ソーヤーといった存在者はしりぞけられるが、例えば虚構においてりんごやハチミツといったごくふつうの存在者に言及することはある。これはどうだろう。これらは架空の存在者ではないので、今回のようにしてしりぞけられることはない。

 このシリーズで何度か書いたが、例えばアニメを見ているときにキャラクターがそこにいるように感じられる。ユニコーンタペストリーはユニコーンという存在者を描いたものといえるが、今回のような議論ではそうではないことになる。しかし私としては、キャラクターの絵は、特定のキャラクターという存在者を絵というメディアで表現したものだ、と言いたい。これを示す微妙な例がある。それは2.5次元と3次元の違いである。

 2.5次元も3次元の実写もどちらもあるような作品を探したところ、『黒執事』がヒットした。

↓こちらが原作マンガ

↓これが実写映画版。もうひとりの主人公の少年が何故か剛力彩芽さんになっている。原作とは違う人物らしい。こういうのは(よくない言い方だが)原作レイプなどと言われて叩かれたりする。

黒執事

黒執事

  • 水嶋 ヒロ
Amazon

↓これが2.5次元のミュージカルかな。「生執事」と呼ばれるらしい。

主人公は執事のセバスチャンである*2。実写映画では水嶋ヒロ氏が演じている。いろいろあったあとの久々の映画出演で話題になったのを憶えている。2.5次元(生執事)のほうは何度も公演していて再演もあって様々な人が演じているようだが、リンクのやつは古川雄大氏である。

 私が言いたいのはこういうことである。おそらくこれらを見る人は(私は見ていないのだが)、水嶋ヒロ氏はセバスチャンという人物*3であると思って見ているが、古川雄大氏はセバスチャンというキャラクターだと思って見ている。これは断定やふりといった言語行為では説明のつかない違いではないかと思う。まあ頑張れば説明できそうだが、私はセバスチャンをりんごやハチミツのようなものとして認めて、古川氏はそれそのもの、水嶋氏はそれと多くの性質を共有した別な何か、であるというごっこ遊びが成立していると考えたほうが自然であると思う。それくらいキャラクターというのは直観的に強力で印象的な何かなのである。

 なんかうまく書けなかった。

 

 どうでしょう? 10章後半へつづく。 

*1:

*2:執事のキャラクターは何故かセバスチャンという名前であることが多く、この由来は諸説あるようです。

*3:人物なのかどうかはアレですが…