曇りなき眼で見定めブログ

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ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ弐拾四・第9章(復習編)

 

 

 ぶっちゃけこの章のテーマはあまり関心がないというか、知識がなくて論じれない。拙者は学部時代はいちおう文学らしきものを専攻する学科だったけど、なんだかんだ文学理論をしっかりとは勉強せずにきてしまった。勉強したうえで読み返したいですな。作者の死とか人称とか語り手とか、そういうのとは違った視点でおもしろいだろう。

 『こころ』は第3部がまるまる手紙だったり、『カラマーゾフの兄弟』は語り手が事件の真相を知っている「全知」で「消されて」いる感じだったのに後半では表に出てきて裁判を傍聴しているとか、よさげな例を思いつくけどあんまり論じがいがないなと思ってた。

 

ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ弐拾参・第9章(予習編)

 過去の回はこちらから。

 フェミニズムと萌え絵批判の問題について考えていて、メイク・ビリーブを援用したい所存。あと佐々木敦先生の本をチラ見したら、(もちろん分析哲学に詳しくないのだろうが)メイク・ビリーブで解決してしまうことを延々と考えてるっぽくもあり。詳しく読んで考えてみたい所存。

 

 さあ本題だ!

 

 言語による表象作用は基本的には描出ではないということだった。ではどういうものか、というのがこの章である。いろいろと用語が出てくるのでまとめる。

用語

作者と語り手

 作者と語り手を区別せよというのはよく言われる。しかし「作者が語り手である」ということが虚構的に成立することはある。ただ、この場合の作者=語り手に関する虚構的真理が現実においても真理であるとは言えない。

仲立ち

 出来事は語り手を通じて間接的に示される。描出ではこのようなことはない。

語り手の二種類の信頼性

 信頼できない語り手というのはミステリーやポストモダン的な文学によく出てくる。本書の立場からすると信頼性には二種類がある。すなわち「語り手が人として信頼できることが虚構として成り立つ」という意味と「語り手が虚構において語ることは、それが虚構において本当である」という意味とである(353ページ)。

 これらの概念は似ているが、必ずしも一致しない。

全知の語り手、不在の語り手、消された語り手

 よく「神の視点」とかいう。語り手は何故そんなに登場人物の内面までわかるのか、とか言われるが、まあこういうのは「愚かな問い」ということで。

 語り手の存在感が希薄な作品がある。ウォルトンは語り手が「不在」ではなく「消されている」とするよう提案する(361ページ)。語り手がいなさそうな作品でもなんか匂わされることがあるので。

報告する語り手と物語を語る語り手

 今までのはだいたいが報告する語り手というものである(そうですよね?)。これは、語り手が作品世界のなかにいる。

 物語を語る語り手というのは、語り手が物語を語ったり作ったりしていることが虚構として成り立つ、そのような語り手のことである。

 物語を語る語り手が仲立ちをするのかどうかというのがいろいろ論じられている。しかしそれは置いといて、興味深いのは、物語を語る語り手についての虚構的真理は物語の中身についての虚構的真理に依存する、という指摘である(368-369ページ)。読者は中身の様子から作者がどういう人物かを推測するからである。ここで「作者」と言っているのは以下のことである。

内在する作者あるいは見かけ上の作者

 よく「作者の考えは〜」みたいなことをいうが、あれである。小説を読むときに漠然とイメージする作者のことである。これが物語を語る語り手とそこそこ一致する。

視点

 ジェラール・ジュネットは語り手(話している人物)と視点の人物(みている人物)を分けろという。これを論じた『物語のディスクール』は文学理論の聖典なので、ウォルトンのコメントを見ておく。

私が強く主張したいのは、次のことだけである。「語りのパースペクティヴを方向付ける視点を持った」唯一の登場人物、単一の登場人物といったものが(その作品のたった一つの文章においてでさえ)存在するはずだと思い込まないようにすること、そして、報告する語り手(話している人物)のパースペクティヴが、 多くの例で、少なくとも形の上では存在しているのを認めること、である。このパースペクティヴは、主要な視点が別の登場人物の視点である場合でさえ、形の上では存在するのである。(371ページ)(「」内は『物語のディスクール』からの引用)

メイク・ビリーブ説の柔軟さがよくわかる。

 

「直観主義型理論(ITT, Intuitionistic Type Theory)」勉強会ノート其ノ弐拾壱「有限集合」「無矛盾性」(予習編)

 直観主義型理論でごんす。

有限集合

規則

 これまでの規則はすべて、ある集合(あるいは集合族)からある集合を作るものだったが、ここで導入する有限集合は前提なしに直接に与えられるものである。n = 0, 1, 2, ... によって無限個のルールがあることに注意。

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{\mathbb N}_n形成則

 前提がない。

{\mathbb N}_n導入則

 {\mathbb N}_0には要素がない(これは図にも書いたように m \in \{x \mid 0 \leq x < n\} として n を変えていくとわかりやすいかも)。{\mathbb N}_1 はひとつのカノニカルな要素 0_1 を持ち、{\mathbb N}_2 はカノニカルな要素 0_2, 1_2 を持つ、などなど。

{\mathbb N}_n除去則

 C(z) \; set \; (z \in {\mathbb N}_n) はふつうに {\mathbb N}_n 上の性質として解釈できる。前提を知っていると仮定して、{\textsf R}_n を以下のように解釈する。

 まず、c を実行する。すると m_n \; (0 \leq m \leq n - 1) となる。対応する C(m_n) の要素 c_m を選んでさらに実行する。m_nc と等しいということだったので前提の c_m \in C(m_n) と合せて d \in C(c) となる。

 {\textsf R}_n は有限集合 {\mathbb N}_n) 上の再帰(recursion)である。場合わけによる定義のようなものである。n 個の規則がある。

{\mathbb N}_n等号則

 01 の規則のみを作っておいて、{\mathbb N}_2 \equiv {\mathbb N}_1 + {\mathbb N}_1, {\mathbb N}_3 \equiv {\mathbb N}_1 + {\mathbb N}_2 などなどと定義して他の規則を導出することもできる。

例:{\mathbb N}_0

 {\mathbb N}_0には要素がないので、導入則がない。なので

 \bot \equiv \emptyset \equiv {\mathbb N}_0

とするのは自然である。

{\mathbb N}_0除去則

 要素 c \in {\mathbb N}_0 はありえないので、{\textsf R}_0(c) を実行することはできない。{\textsf R}_0(c) という形のプログラムの命令の集合は空になる。これはダイクストラによって導入されたアボート(中断)という文と似ている。

\bot除去則

 C(z)z に依存していないとき、前提と帰結の証明(構成)を隠して \bot 除去則を得る。矛盾からはなんでも出てくるというやつである。もうひとつの形の正当化もかいておいた。

例:{\mathbb N}_1

 \top \equiv {\mathbb N}_1

と定義する。{\mathbb N}_1 導入則によって 0_1 \in {\mathbb N}_1 を得るので 0_1{\mathbb N}_1 の要素であり、\top は true である。

 0_1{\mathbb N}_1 の唯一の要素であることは(たぶんカノニカルとかを無視して)図を参照。

例:{\mathbb N}_2

 Boolean \equiv {\mathbb N}_2

と定義する。これはプログラミングにおける真理値 \textsf{true, false} で構成される。\textsf{true} \equiv 0_2, \textsf{false} \equiv 1_2 と定義しよう。すると \textsf{if} c \textsf{then} c_0 \textsf{else} c_1 \equiv \textsf{R}_2(c, c_0, c_1) と定義できる。c\textsf{true} というのは c を実行すると 0_2 になるということで、{\mathbb N}_2 等号則によって \textsf{R}_2(c, c_0, c_1)c_0 と同じ値を持つ。そうでなければ、c を実行すると 1_2 になり、\textsf{R}_2(c, c_0, c_1)c_1 と同じ値を持つ。

 何故こんなに上手くいくのだろう?

 {\mathbb N}_2 の要素が 0_21_2 であることは証明できるが、命題の形となる。図を参照。

例:否定

 ~A \equiv \lnot A \equiv -A \equiv A \to {\mathbb N}_0

とすると、いちばん右のに含意の導入と除去がそのまま使えるので、それがそのまま否定の規則になる。ここで Cons \equiv \lnot Der('\bot') \equiv Der('\bot') \supset \bot 

無矛盾性

 規則の体系の無矛盾性について。

 無矛盾性は二つの方法で理解できる。

(1)数学的無矛盾性

 理論 T の無矛盾性を証明するには、別の理論 T' を考える。この T' はもとの理論 T の命題のコードと述語 Der を持つ。Der('A') はコードが 'A' の命題 AT で導出可能であるということを表す。ここで Cons \equiv \lnot Der('\bot') \equiv Der('\bot') \supset \bot と定義して、ConsT' で true であることを(頑張って)証明する。この方法は、ヒルベルトがやったように、公理や推論規則の意味論的正当化を諦めるならできる。直観主義型理論でもやろうと思えばできるのだが、我々は構文論と同じくらい意味論も重視しているので、ここではそれをとらない。以下の単純な無矛盾性を考える。

 第2不完全性定理がらみの難しい話ですな。

(2)単純な無矛盾性

 単純に \bot が証明できないこと、あるいは \bot \; true という判断ができないということである。上の Cons と違って数学的な命題ではない(よくわからないが)。こちらの無矛盾性は以下のように示す。

 c \in \bot とすると、c は実行したらカノニカルな要素 d \in \bot となる。しかし \bot空集合なのでカノニカルな要素を持たない。\bot \; true が証明されるとしたら直観主義型理論の規則の何かが間違っていることになるが、(ザックリしているけど)そんなものはない。\bot を導出する規則などないので。よって \bot \; true の証明はない。

 少なくとも T' の単純な無矛盾性を仮定すれば、もとの T の数学的無矛盾性からその単純な無矛盾性を出せる。:ある c について c \in Cons が証明できたとする。T が単純な無矛盾ではないとするとT における \bot \; true の証明、すなわちある a について a \in {\mathbb N}_0 の証明がある。コーディングによって 'a' \in Der('\bot') が与えられる。c \in Cons とこれに \supset 除去則を適用して \textsf{Ap}(c, 'a') \in \bot を得る。すなわち \bot \; trueT' で導出可能である。よって \bot \; trueT' で証明可能でない、すなわち T' が単純な無矛盾であると仮定するとメタな意味で矛盾し、下線部が否定される。

【感想】『ゴジラVSコング』を観ていたら永田裕志の影がチラついた【ネタバレ】

 そこそこおもしろかった!

 

 コロナの影響でアメリカと日本で公開時期がズレまくって、アメリカではちょっと前にもうBlu-rayは出てたそうですな。

 

 私は日本のゴジラ映画はだいたいどれも見ているはずだが、ハリウッドのゴジラやコングの新しいやつはほとんど見ていない。怪獣映画で好きなのは『サンダ対ガイラ』、『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』、『シン・ゴジラ』。そんな感じである。ゴジラシリーズのなかだと平成のVSシリーズを録画したビデオを見まくっていた。デストロイアが好き。なのでハリウッド流の特撮にはあんまり馴染めない。

ドライモン

 まず、あの南極の穴から地球の内部の空洞(のグルメ界みたいなところ)へ行くというのはドライモンの「創世日記」でああったやつで、まあ古典的なオカルト・都市伝説の類だろうけどけっこうワクワクした。あと少年少女が組織に侵入するところなんかも。「ひと夏の冒険」的な感じである。ドライモンの映画みたいなテンションで観るとけっこうおもしろいお話ではなかろうかと。

 しかし全体的にダイジェスト感があってこれは調べてみるとけっこう多くの人が感じているようだった。どうもかなりカットしたり途中で路線変更したりしたらしい。

チグハグ

 話のなかで物凄くチグハグな点がある。

 まず、地球空洞説は主人公の科学者が提唱していたけど学界からは嘲笑されている。しかし事実であった。

 それと、陰謀論者のやつはエイペックス社が何か密かに企んでいると思って潜入していた。コイツは水道水がどうとかイルミナティがどうとかいかにも陰謀論者が言いそうなことを言う。しかし実際にその陰謀は真実だったわけである。

 なんかヘンである。地動説とか大陸移動説とか遺伝の法則とか、初めは(嗤われてたとまではいかなくとも)疑問視されていたのにのちに確かめられた学説というのはよくある。己が正しいと信ずる理論を貫いて結果正しいと判明したらこれはかっこいい。コペルニクスとかガリレオ・ガリレイとかダーウィンとかやや誇張してそういうふうに伝記が書かれたりする。地球空洞説のヤツもそんな感じだと思うが、早々に弱インディー・ジョーンズみたいになって自説の正しさとかどっかにいってしまう。むしろ陰謀論者のほうがそういうふうに描かれるのである。なぜ陰謀論大勝利映画にしてしまったのか。別にそれでもいいが、だったら学界から嗤われている科学者なんて出しちゃいかんのではなかろうか。もっと大勝利すべきヤツがいるだろうと思ってしまった。死んだお兄さんの話はどこへ行ったのか。(もしかしたら初期の構想では彼らは一人の人物だったのかもしれない。)

 これは科学考証がメチャクチャだとか逆にそこが良いとか以前の問題であろうかと。

永田裕志

 最初の海上輸送中のコング*1ゴジラの戦闘は永田裕志VSエメリヤーエンコ・ヒョードルのような絶望感があった。というかふつうに考えてコングがゴジラに勝てるわけないのでは? コングはパワー系だがゴジラもふつうにパワーがあるし尻尾でサブミッションもやってくる。とうぜん光線も吐く。しかもゴジラはエラもあって水陸両用である。永田はなんか知らない間に話が進んでヒョードルとやることになってしまったらしいが、まったく同じ状況である。コングが船上によじ登ってゼェゼェ言ってるところはプロレスラーみたいだった。

白目

 とか思ってたら小栗旬が永田ばりの白目を披露していて笑ってしまった。やはりこの映画の隠れたテーマは永田裕志なのかもしれない。

特撮

 特撮映像はまあダメだった。ハリウッドの怪獣映画ってこんな感じなのだなあ。特撮の真髄をまるでわかっとらん。喝だ!

 ゴジラやコングの造形の緻密さはすごいのだが、CGの弱点である(と私が思っている)重量感はあんまり克服できていない。思うに、クリーチャーごとではよくできていても、それと何か他のオブジェクトとの接触に違和感があるのではないかと。確かコングの手から砂みたいなのがこぼれるカットがあったのだが、そういう描写にリアリティがなかった。すべり方が変だったような。

 コングが四つ足で駆ける動きはけっこう良かった。あとゴジラの泳ぎのフォームも良かった。

 あのグルメ界の重力がデタラメになる感じはマリオカートでよく見るのでそんなにすごいとは思わなかった。

 ロケット弾みたいなの*2がパァーッと放射状に飛んでいくやつは日本のアニメでもよくある。マクロスとか。板野サーカスというのの系譜である*3板野サーカスのほうがうまいかな、と思った。やはりアニメーターは技術だけでなく「何を描いてどう見せるか」という演出面が大事なんでしょうな。

 で、特に文句を言いたい点が3つある。

最大の文句1

 まず、カメラワークがおかしい。というか視点がおかしい。例えばゴジラがコングにマウントポジションをとるところで、ゴジラから見たコングの顔とコングから見たゴジラの顔がアップになる。これは興醒めである。なんだか怪獣がすごく小さくなったように感じる。巨大なものの目線になってしまうのも問題だが、怪獣は人間ではないのだから、怪獣バトルにこんな人間臭い演出を入れるでない。あとついでに言っておくと、コングの表情が腹立つ。なんかゴリラの化け物というより毛深いシュレックみたいに見える。

 怪獣は大きいわけだから下からのアングルが怪獣映画の基本だと思う。上からあるいは怪獣の目線と同程度の高さから撮る際には、ヘリコプターなどからの視点と仮定されるような展開になっているものである。あと望遠にすることで安全圏から観察してるっぽくしたり。確認したが、『シン・ゴジラ』ではこれが貫かれている。ゴジラの顔のアップも印象的な場面を除いてかなり少ない。と、いうのは本作の制作者も重々承知であえてこうしているのだろうが、私には解せない。

最大の文句2

 カメラワーク以外にも編集がもろもろおかしいと思う。何を見せようとしているのか。これも『シン・ゴジラ』と見比べてみると一目瞭然なのだが、ひとつひとつの映像表現が雑に扱われすぎている。何が起きたのかこちらが認識する前にカットやアングルが変ってしまうのである。こういうのをスピード感とかスペクタクル感と思っているとしたら根本的に間違っている。

 とか思うのは私がアニメ至上主義者で庵野さんの(というかエヴァの)ファン故に歪んだ特撮観を持っているからかもしれないが、どうだろう。例えばコングがビルに叩きつけられてビルが崩壊したりするが、ビルの崩壊はそれ自体として見応えのある映像になりうる素材である。しかしどうも「コングがビルに叩きつけられてビルが崩壊した」という事実とデカい音、これで客が興奮すると思っている感じで、全然ビルの崩壊の味わいを噛みしめさせてくれない。デカい音と「怪獣が暴れてますよ」感を積み重ねていけば怪獣映画になると思っとりゃせんか? あと爆発とか怪獣の殴り合いとかデカブツがジャンプしたり光線を吐いたり、それらをもっと丁寧に見せてほしかった。『シン・ゴジラ』では爆炎による逆光で電柱と電線が黒く浮び上がるカットとかとことん美的に計算されている。本作ではゴジラが地下へ光線を吐くところと天に向って吐くところは良かった。

 こういうのが好きな人は映像作品が好きというよりアトラクションが好きなんじゃなかろうか。

最大の文句3

 最大の最大の文句は、コングがドシンドシン歩くたびに画面も揺れることである。なんで揺れるのかがわからない。これこそアトラクションである。

 これも人間の目線くらいの高さのアングルであれば地上の人間が感じる振動を表現しているものとわかるのだが(『シン・ゴジラ』でもそういう演出はある)、なぜかそれ以外に空中(これも何を想定した目線なのかわからんが)のアングルでもドシンの揺れがあった。要するにこれは何かを表現した揺れなのではなく、単にドシンという音と連動して視覚効果も加えておこうという演出で、やはり映像作品的でなくアトラクション的なのである。

総評

 最終的に文句が多くなったけどふつうにそこそこおもしろかったですよ。

 

 

*1:怪獣の輸送は失敗しがち。

*2:ミリタリーをぜんぜん知らなくてすみません…

*3:板野サーカスというのは単なる弾や戦闘機の軌道のことではないですが。

ナチスと新書の記事にコメント

 こんな記事を読んだ。

gendai.ismedia.jp

雑誌「群像」が講談社現代新書とコラボした企画らしい。それを知らずに読んだので後半で「なんで急に新書を薦めだしたのだ?」と思ってしまった。

 著者の田野大輔先生はなかなかのトゥイッター強者らしく、トゥイッターでなんか言って見つかったら怒られそうなのでブログでコソコソ書くことにする。

 「ナチスは良いこともした」という人って確かにいるよなあ。私もそういうのをネットとかで見るので「へ〜」と思っていた。でもそうじゃないらしい。「良いこと」の例とされる失業者対策(私も聞いたことある)も実際はたいして良くなかったらしい。私は歴史をあんまり知らないのでそもそもこの記事自体が勉強になった。しかしよく知らないからこそ謙虚になるべきで(無知の知)、専門家に講釈を垂れるようなことは私は決してしないだろう(専門家である田野先生が「ナチスは良いこともしましたよ」と「教え」られた話がこの記事の前半の話)。

 で、そういう人が出てこないための対策として、新書のような手軽かつ堅実な入門書が重要だと述べている。なんというか、田野先生は本気でそう思っているのだろうか? 企画の趣旨がそうだから取り敢えずそう書いたのか? 実際おすすめしている新書は良い本ぽいし、良い新書がたくさん出るのは良いことだが、田野先生がトゥイッターで遭遇したような人たちに「新書を嫁」と言っても意味がない気がする。そもそもあんまりそういう本を読まなそうな気がするし、潜在的にこういう人はもっとたくさんいるはずで田野先生と直接やりとりしないと良い本に出会えないようでは意味がない。

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↑田野先生はこういうのをリトゥイートしているので、まあ新書がもろもろを解決すると本気では思っていないだろう。

 私の考えでは、こういった専門家に講釈を垂れようとする態度が悪いはずで、それを脱するには知識を得ることよりも継続的な読書で知の世界の広さを体感することが必要だと思う。知識が広まらないことよりも、知識を広める立場の人への信頼が広まらないことが問題なのではないかと。

 しかし上のトゥイートもそうだがトゥイッターの人というのは(拙者もやってるけど)なんか口が悪くて怖い。田野先生のトゥイッターもなかなかである。記事の中でも

だが「ナチスは良いこともした」と主張する人たちにあっては、そうした反権威主義的な姿勢はいわゆる「中二病」的な反抗の域を出ず、歴史から真摯に学ぼうとする態度につながることはほとんどない。

と書いていて、「そんな言い方せんでも…」と思ってしまった。これは私には悪口に見えるのだが、どうだろう? 私がナイーブ*1すぎるのかもしれないが。だがトゥイッターをやりすぎて悪口の感覚が麻痺してる人って私はけっこういると思う。田野先生も授業では学生に対してこうは言わないのでは。

 新書を薦めるにとどまったりとか、中二病呼ばわりをしたりとか、こういう知識人の方は知識のない人と接するのが嫌なのだろうな〜と思ってしまった。これじゃあ信頼なんて結べないのでは。

「新書なんて薦めてもムダっすわ(笑)」

「ほんまやね」

つってまた各々の世界に戻って終り、というまあいつもの光景に落ち着いてしまうのではなかろうか。分断というやつ。

 

 ↓この本がオススメらしい

*1:「ナイーブ」という言葉の意味ってよくわからんのですが使い方あってます?

ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ弐拾弐・第8章4節から終りまで(復習編)ロックを聴く・作るという経験

 こちらの復習編。

 

 音楽について。ライブで体を動かすというのを思い浮べると音楽のメイク・ビリーブがわかりやすいかも。

 331ページなんかで論じられているが、音楽については小説や絵画と違って作品世界なるものがあるのかどうかよくわからない。となるとごっこ遊び感はより強い感じがする。作り手は作りながらごっこ遊びをしている?

 

youtu.be

 

「直観主義型理論(ITT, Intuitionistic Type Theory)」勉強会ノート其ノ弐拾「二つの集合の直和」「命題的な(?)等しさ(途中まで)」(復習編)

 こちらの復習編。簡単に。

直和

 \Sigma は任意の集合の直和でここでは二つの集合の直和である。違いは数だけではない。\Sigma ではインデックス? ラベル? のようなものと集合族とで直和を形成したが、ここでは集合と集合からである。なので&にあった非対称性が \land にはない。

選言

 一般的な自然演繹では A から規則で A \land B を導くと A から出てきたのか B から出てきたのかという情報が落ちてしまう。しかしITTでは construction として残っている。それが良い。

 選言を含む命題論理のトートロジーの証明が例として出ている。ここで\land除去則は依存しないケースとして導入されているが、依存したらどうなるのだろう。その場合は例の途中で含意に書き換える前の全称良化の形に現れている。A + B は全称量化のドメインの直和ということになる。この述語論理と命題論理の対応はおもしろい。

internal form

 31ページに出てくる"an internal form of ="というフレーズの意味がよくわからなかった。

フレーゲのパズル

  意味と意義の区別の話が出ている。ここでは sense が意味(Bedeutung)で meaning が意義"Sinn"である。また、sense とは method の value のことでもある。meaning は intentional(内包的)である。2^22 + 2 は内包が違うが値は同じ、意義は違うが意味は同じ、である。

I

 I はなんだかこれまでの construction(命題の証明)と proof(判断の証明)の区別を破ってる感じがしてちょっと怖い。集合族を形成するというのもそういうことかも。