曇りなき眼で見定めブログ

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ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ拾七・第7章の4節から終りまで(予習編)やたらとエヴァで例える回

 メイク・ビリーブであるぞ。

 ここでは「虚構として成り立つと知ること」と「真なることを虚構において知ること」とか、参加する表象体とそうではない装飾とか、そういう区別が出てくる。

 今回はエヴァの例ばかりでてきます。

「虚構として成り立つと知ること」と「真なることを虚構において知ること」

  これは特に変な話ではない。しかし重要な帰結を導く。なぜ同じ話で何度も新鮮に驚くことができるのか、ということについてである。

 私は『新世紀エヴァンゲリオン』の第拾六話が好きで何度も見ているのだが、見るたびにシンジくんの独断先行作戦無視のシーンで「何してんねん!」と思うのである。そして最後に使徒の体内(?)から初号機が出てくるところで「ヒェ…」となる。私は「シンジくんが独断先行作戦無視する」ことと「初号機が使徒の体内から出てくる」ことが虚構として成り立つことを知っている。しかし見ているときはそれが真であると知らない、というごっこ遊びをしているのである。

 本のなかでは伝統芸能や古典演劇のように誰もが筋を知っているのに何度も再演されるものが例として挙げられている。日本では落語や歌舞伎がそんな感じになっていて、ツウになると話ははじめから知っている。その語り口のほうを楽しむというツウもいようが、しかし話がいつも新鮮に感じられるという点もあるはずだ。

 ただし、本当に毎回新鮮に驚いているのかというと疑問ではある。これはネタバレのありなしとも関わってくるだろう。フィルカルでネタバレ特集があったらしいが読んでいない。読みたし。

参加と観察

「読者が知っていること」というのは曖昧である。今はこの点を理解できる。この言い方は、読者が自分のごっこ遊びの参加者として「知っている」ことと、虚構世界の観察者として知っていることのどちらなのか、曖昧なのである。(虚構世界は、作品世界のこともあるし、読者のごっこ遊び世界のこともある。)言い換えれば、この言い方は、それを読者が知っているということが虚構として成り立つ事柄と、それが虚構として成り立つと読者が知っている事柄との間で、曖昧なのである。(272-273ページ)

 この曖昧さというのは今日のサブカルチャーなんかを考えるうえで本質的なのではないかと思う。『エヴァ』の最終回は謎が謎のまま終ることで有名だが、その謎、例えば「人類補完計画とはなんなのか?」ということはいちおう虚構のなかで窺い知ることはできる。しかしそれは上記のような曖昧さを多分に含んでいるように思う。『エヴァ』という作品についていろいろな情報を調べたからこそそれが判断できているというのは間違いなくそうだし、それは設定とかだけでなく批評みたいなものも含むので。また、シンジくんの心情を読み取ろうとすると庵野監督の心情を読み取ることになってしまったり、自分の心情の吐露になったりする。こうした"考察"であるとか、作品語りを通した自分語りみたいなものとか、そういう文化の先駆者としてエヴァはある。なので例として挙げた次第。

作品にのめり込むというのはどういうことか

 "参加"という現象のしめくくりである。

 なぜ人は虚構を鑑賞したりごっこ遊びをしたりするのか、哲学がそれに完全に答えることなど到底できないが、この本の立場から言えるのは、想像する自分自身が虚構世界のなかにいるということの重要さである。

だが、注目に値することは、想像する人が自分の虚構世界で占める位置こそ、非常に多くのさまざまに異なる事例において、中心となるように見える、ということである。反射的小道具としての想像者自身の役割、ないし自分自身についての想像活動こそ、中心にあるように見えるのだ。(275ページ)

装飾

 装飾は参加を必要としない鑑賞を要請する。ここはちょっと難しい。

 装飾的な表象体というのは確かにある。『エヴァ』の最終話や劇場版や(もうさすがにネタバレしていいだろうけど)『シン・エヴァ』は意味不明な映像が羅列されたりする。それは虚構的真理とはなんの関係もない。ウォルトン先生によると、装飾的な表象体は想像活動を妨害するようなものであるという。『エヴァ』や『シン・エヴァ』はまさにこれを巧みに利用した演出となっている。

 こうした作品では鑑賞者は二つの別個の虚構世界をうまく行き来しているのだという。メタフィクションを盛り込んだ現代の虚構はそれくらい複雑な構造をしていても不思議ではない。

「直観主義型理論(ITT, Intuitionistic Type Theory)」勉強会ノート其ノ拾六「直和の応用(途中から)」(復習編)

 こちらの復習編。

左射影

 p(c) の依存型のときの論理読み(存在量化のとき)というのは、B(x) の witness を取り出すということになろうかと。それがヒルベルトのアレになる。右射影だとその個体について成り立つ性質を取り出すことになる。

右射影

 左射影と同じように、\Sigma規則のインスタンスであることをわかりやすくしました。

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形成則について

 \supset や & の形成則にある、A \; true を仮定して B \; prop. が出てくるというのは、具体的にどういう状況だろう???

\Pi導入則とラムダ抽象

 \Pi導入則の依存なしバージョンがラムダ抽象ということでよいのだろうか。

&について

 論理学の入門とかでやる自然演繹では A&BAB は平等だが、ITTでは非対称的である。これがおもしろい。

【明石家さんまバンザイ】アニメ映画『漁港の肉子ちゃん』の感想【渡辺&小西バンザイ】

 非常におもしろかった。

 あの『えんとつ町のプペル』に続くSTUDIO 4℃と吉本のコラボレーション作品である。なんでこう続いたのだろう。私はそのへんの事情は知らない。『プペル』は3DCGなので制作スタッフはほとんど違うだろうけども。で、そのコラボシリーズは果してうまくいっているのか。『プペル』はぶっちゃけ*1酷い出来だったが、試みとしては悪くなかったのではないかと私は思っている。『プペル』は世間の評判もめちゃくちゃ悪かったが、4℃と吉本がコラボした作品として『マインド・ゲーム』(2004)という名作もあるのである(『プペル』の感想と『マインド・ゲーム』についてはこちら)。なので4℃は懲りずに今後も吉本とやってほしいなと思っていたら、かなり前から明石家さんまプロデュースで企画が動いていたらしい。

明石家さんまさんについて(西野さんと比較して)

 多くの日本人がそうだろうが、私は普通にさんまさんをおもしろい芸人だと思っていて、テレビ番組も好きである。最近はあまり見ていなかったが、エンドクレジットのキャストをフジテレビの「お笑い向上委員会」とコラボしているようである。「向上委員会」も見ていればよかったなあ。

 さんまさんという人は同じお笑いビッグ3のビートたけしやタモさんと違って藝術センスや教養を感じない人である。しかし敢えて彼らと違ってずっと通俗的な芸をやっているフシがあり、それはそれでカッコいい。たが、例えばたけしが映画人として大成功しているのは彼のセンスと映画への探究心からくるものとして納得できるが、さんまが映画、しかもアニメ映画に関わるというのはどうなのだろう、という懸念はあった*2。西野さんはアレだったし。どうなんだろう…

 問題はさんまさんが今作にどれくらい関わったのか、である。どうも名前だけというわけでもなさそうで、さんまさんがたまたま原作小説を読んで企画を考えたらしい。さんまさんはけっこうアニメが好きで、花江夏樹さん(以下:花ちゃん)の出演も番組のなかでオファーしたようだが、これも『鬼滅の刃』が好きだからだろう。私は『プペル』の失敗の最大の原因は西野さんがご自身の中の職人性でアジテーター気質を抑えることができなかったことだと思っていて、それは西野さんが現場を信用していない証と考えている。今作『漁港の肉子ちゃん』は監督・渡辺歩や作画監督小西賢一がかなりのびのびやっていると私は思った。さんまさんの仕事はあくまでテレビ番組と連動したり話題作りなのだと思う。がしかし、それでも大竹しのぶとCocomiという意外性のある素晴しいキャスティングはさんまさん抜きには実現しなかったはずで、芸能人プロデュースのアニメ映画の成功例だと思う。

4℃×渡辺歩×小西賢一

 と、いえば2019年公開の『海獣の子供』であるが、私はこれは諸事情により観ていない。観ていないのである。なのであんまりこの人たちの技術の歴史を偉そうに語ることはできない。ちょっとフワフワした感じになります。

 渡辺歩監督といえば「ドラえもん」というのが私のイメージである。私は「ドラえもん」の熱心なファンではないが、世代的にあの「のび太結婚前夜」とか「おばあちゃんの思い出」は観ている。リアルタイムで劇場で観たとき、私より母が感動していた。「ドラえもん」サイドはこれらの成功を受けて妙に感動路線を狙って失敗している感もある。それくらい渡辺監督の腕が重要だったのだろう。

 作画監督小西賢一さんは名前はよく見受けるがあまり知らなかった。やはり私って、いうほど作画アンテナが高くないのだなあ。『海獣』も観れなかったし(2019年を代表する作画アニメのひとつなのに)。小西さんは『ホーホケキョ となりの山田くん』と『かぐや姫の物語』の作画監督をやっている。これらは高畑監督のヤバイこだわりによって鉛筆のタッチを残した実験的な画づくりがされている。小西さんは両作品の間では渡辺監督の『ドラえもん のび太の恐竜2006』の作画監督も務めていて、これも鉛筆のタッチをちょっと残した画である。本作もそういう感じの画だった。この印象の違いは大きい。いわゆる「アニメ」っぽさがない。近年のアニメのキャラクターの腺病質な感じがないのである。キャラクターデザインも『海獣』に引き続き小西さんで、キクりんの顔は『海獣』っぽい。また、キクりんの小さい頃の顔はめちゃ「ドラえもん」ぽかった。

 さて、先週観た『映画大好きポンポさん』は画面分割とかアイコンみたいなのを入れたりとか編集による演出がすごくアニメっぽかったのだが、この『漁港の肉子ちゃん』は作画の自在さでアニメ的な楽しさを実現している*3。私はどちらかというとそのほうが好きである。やっぱ作画が好きなので。そもそも太ったキャラが生き生きと動き回っていたらそれだけで楽しい。太っているというのは原作小説でもそうなのだが、アニメにしてみるとよりいっそう生命の根源的な躍動が感じられる。これはまったく大袈裟な話ではない。アニメってそういうメディアなのだから。しかしそういう楽しい描写というのは基本的に描くのが難しい。あとぶっちゃけ*4太ったキャラを魅力的に見せるのも難しい。肉子ちゃんは中年だし。これは作画(監督)とキャラクターデザインが良いのだと思う。

 二宮(という名前のDJ松永風の男児)の顔の動きなんかも良い。彼は無意識に表情を大きく動かしてしまうという体質(といったらよいのか…)なのだが、これは日常生活でなかなか大変な局面もあろうものだし、なおかつ画としてどこかユーモラスでもある。それらがうまく両立していると思う。なんというか、生々しく「ハンディキャップ」として描いてもダメだし単なるギャグになってしまってもダメなのだ。アニメというのは本来はそうした繊細な表現が得意なのだと私は思う。高畑先生なんかはずっとそういう繊細さを大切にしていた。多くのアニメは技術の問題か志の問題か、そういうのを設定だけ用意してあとは見る者の努力に委ねていたりしている。喝だ*5! この二宮のキャラクターはそういう繊細さなしには成り立たない。素晴しい。この繊細さが表現できて初めてキクりんと二宮の二人だけの秘密の関係に説得力が出る。あとキクりんのデザインが超かわいい。

(あの動物や虫が喋るのはキクりんの独り言ということでよいのだろうか。めちゃ重要な点だけどちょっと考えときます。)

 作画ではないもっといろいろな画づくりも良かった。あの模型とか、模型みたいに見える街とか。川の感じとか。あと最近のアニメによくあるメシ描写もよい。美術も良い。美術の事情をよく知らなくてごめんなさい。あと途中のダンスのシーンはちょっと『哀しみのベラドンナ』を彷彿とさせる。

 なかなかジャンルとして定着しないが本作は「キッズ向けでもオタク向けでもないアニメ映画」である。細田作品とか新海作品とかジャンプアニメみたいな全方位向けのアニメでもない。ある程度の歳をとった大人が観て感動する作品である。しかもそういうのって実写映画だと妙に社会派になったりやたらと辛気臭くなったりエロくなったりグロくなったりするものだが、本作はアニメの持つ根源的なおもしろさ・楽しさのおかげでそういうのが必要なくなっている。私はこういう作品が作れるのもアニメの偉大さだとおもう(ちょっとアニメを過大評価しすぎですかね)。

キャスティングというものを考える

 実際のところどれくらいさんまさんの意向なのかわからないが、先述のとおりさんまさんが関わってなければありえないようなキャスティングだと思う。宮迫さんのセミとかも。恥しいからあんまり言わないようにしているのだが私はけっこうCocomiさんが好きで(KōkiよりCocomi派)、今回の声の演技もけっこう良かったと思う。というか私はあんまり声の演技の良し悪しがわからないのかも。

 よく声優でない役者の演技が叩かれたりするのだが(Cocomiは役者なのかどうかもわからないが)、あの気持ちはわからない。声優の演技ってけっこうワンパターンなことが多いと思うし、なんか劇場で声優の演技を聴くと深夜アニメの延長みたいに思えて冷めたりする*6。それに『超時空要塞マクロス』とか『魔法の天使クリィミーマミ』みたいに話題性先行で歌手をヒロイン役にしたクラシック作品なんていくらでもある。なので声の演技の良し悪しってそんなに作品の質と関係ないのである。声質とか雰囲気とかそんなものである。あと私はアニメ史上ベストのキャスティングの作品は『もののけ姫』だと思っている。

 ところがどっこい、大竹しのぶはやっぱり凄かった。最初はデブ+関西弁というキャラクターにあまり声が合っていない感じがして違和感がしたのだがすぐに慣れた。最後はもらい泣きしそうになった(泣いてないけどな!)。よく言われる「声だけでなく全身で演技する」というやつである。それを感じた。肉子ちゃんがちゃんとかわいく見えるのは、作画だけでなく大竹しのぶの巧さもある。あと歌ネタと途中のナレーションも良い。

 あのマリアちゃんの役の人は、(名前を忘れたのだが)なんとかいう声優の人かと思ったけど、全く違う新人らしい。こら凄い。発掘しましたな。

 花ちゃんは普通に良かったと思います。

この作品のここが好き

 肉子ちゃんが交通整備の仕事でホコリまみれになってるところとかみうが残したお金をずっととってある描写とかキクりんにみうがどれだけ良い子か熱弁するところとか、ああいうのやめてくれ〜。泣いてまう。

 極め付けはラストカット(エンドロール前)である。あれは良かった。原作をちょっと確認したら原作のままだった。しかしあの"開眼"演出にはやられた…。なんか単純だけどうまい。良い。あの感じ。

 

*1:「ぶっちゃけ」については後の注を見よ。

*2:しかしさんまは作詞をやったり舞台をやったりと、実はイメージ以上にテレビの他にもマルチにやっていたりはする。俳優としても、私は「古畑任三郎」のさんまゲスト出演回が大好きである。

*3:色づかいも良いですよ。

*4:この「ぶっちゃけ」という言葉はCocomiさんのお父さんが世に広めたと言われる…

*5:激励の喝。

*6:深夜アニメの延長っぽさをうまく活かした傑作というのもあって難しいところですがね。

「直観主義型理論(ITT, Intuitionistic Type Theory)」勉強会ノート其ノ拾伍「直和の応用(途中から)」(予習編)

 シリーズの他の回はこちらから。

&規則

 はてなブログでは"&"をTeX記法でうまく表示できないという問題に直面しているがそれはさておき。

 \Pi\supset のときと同様、Bx に依存しないときに以下のようになる。

 A&B \equiv A \times B \equiv (\Sigma x \in A)B

&の規則は以下の下段である。

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 この前と同様 \Sigma\exists と&の規則を並べることで対応関係をわかりやすくしている。

&形成則

 この前は"generalization"という言葉がよくわからない意味で使われていると思っていたが、勘違いだった。A&B が命題だというには普通は AB が命題だとわかっている必要があるが、ここでは B が命題だというのは A \; true という仮定のもとでわかっていればよい、仮定なしが普通の形成則である、という意味で一般化になっている。

&導入則

 隠した証明を復元すると、A&B の(カノニカルな)証明は A の証明 aB の証明 b のペア (a, b) である。

&除去則

 規則の C はもちろん AB にできるので、よく見る除去則にすることもできる。逆にそこから今回の除去則を出すこともできる。

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例:left projection

 p(c) \equiv E(c, (x, y)x)

と定義し、これを cleft projection(左射影)と呼ぶ。

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のように、(\Sigma x \in A)B(x) の要素 c を実行すると (a, b) \; (a \in A, b \in B(a)) が得られ、Eの代入をやると a (\in A)(メソッド a を実行すると A のカノニカルな要素が得られる)が得られるので、\Sigma除去則と等号則のインスタンスとして以下の左射影則が得られる(pcc に依存しているので前提の c は隠せない)。

f:id:cut_elimination:20210617153701j:plain

論理的な解釈をすると、(\exists x)B(x)が真なとき B を満たす A の要素が得られるということを意味する(テキストの \Sigma は誤植かと)。この項は唯一のものを \iota 演算子で表したり((\iota x)B(x))なんらかのあるものを \epsilon 演算子で表したりする((\epsilon x)B(x))が、このような演算子直観主義的には必要ない。何故なら (\Sigma x \in A)B(x) が真であるのはそれが証明ができるときなので(項を指定する必要はない)。項(\epsilon x)B(x) については困難な点がある。これは性質 B(x) に項を対応させる関数として構成されるのであって (\exists x)B(x) の証明の関数ではないということである。なのでヒルベルトは上にかいたような \epsilon 規則を導入した。ITTではこれは余計になる。もうひとつは後ほど。※このあたりは数学の哲学の深い話っぽい。

例:right projection

 q(c) \equiv E(c, (x, y)y)

と定義し、これを c right projection(右射影)と呼ぶ。テキストにいろいろと説明があるのだが、要するに x \in A から p(\(x, y)\) \in A が得られ、\Sigma除去則と等号則のインスタンスとして以下の右射影則が得られるのである。

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ヒルベルトのもうひとつの \epsilon 規則(テキストは誤植だと思う)は右射影のふたつめの規則があれば必要ない。また、ひとつめの規則から我々のよく知るより強い&除去則が得られる。Bx に依存しないとき、証明(construction)を隠せばよい。Bx に依存している場合は左射影と同様で結論部が c に依存しているので前提部の c は隠せない。

連言の公理とその他の応用

 私の担当ではないのでよろしく。

 やっぱり導出をかくと命題論理の自然演繹みたいになるということであろう。

メンタリストDaiGoさんがヴィーガンを"論破"していました

 メンタリストDaiGoさんがヴィーガンを論破している切り抜き動画があった。ふたつ。


www.youtube.com


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私はヴィーガンでもベジタリアンでもなんでもないのだが、ヴィーガンの気持ちになってちょっとこれに反論してみたい。しかし元動画がわからないのでこの前後に何か文脈やフォローがあるのかもしれない。だとしたら申し訳ない。

 私は伊勢田哲治『動物からの倫理学入門』を読んで勉強したことがあるので少し知識がある。

この本は動物倫理から倫理学全体に入門するというユニークな教科書である。

 最初に注意しておくが、ヴィーガンというのは(肉だけでなく卵や乳製品も含めた)動物性食品を一切とらない人のことで、ベジタリアンというのはヴィーガンも含めた菜食主義・非肉食思想の総称である。

ひとつめの動画への反論

 質問は「"動物を食べるのはかわいそう"という意味がわかりません。一部の畜産農家の虐待から"動物かわいそう"に行く思考回路が謎」というふうである。質問の時点で二つの論点が混在している。(1)動物を食べるという行為が残虐、と、(2)家畜の飼育環境が良くない、である。これらは見たところ別の問題であろう。ベジタリアンヴィーガンというのは食やライフスタイルのことであって、動機はけっこう人によって違うと思う。動機が(1)の人もいれば(2)の人もいて、また別の人もいる。健康とか。なのでヴィーガンの思想に反論したいならば動機を精査すべきである。

DaiGoさんの論点の整理

 DaiGoさんはいくつもの反論を展開しているのでこれを整理する。

  • 家畜動物は食肉文化(畜産)がないと絶滅する。
  • 人類は肉を食べることで進化してきたので肉を食べることは自然である。
  • 肉(動物性食品)を食べないのは健康に悪い。

それぞれに反論していこう。

家畜動物は畜産がないと絶滅する

 この反論で気になるのは、種と個体でカテゴリーミステイクをしているのではないか、ということである。例えばニワトリの個体にとって、ニワトリという種が絶滅することは関係ないのではないかと思う。

 功利主義の考え方では、個体ごとの苦痛の総量を減らすことが重要である。いわゆる動物解放論者はここを重視する。とすると、苦痛に満ちた生涯をおくる家畜が量産されるくらいなら、絶滅したほうがよさそうである。欧米では、家畜はなるべく解放的に育て失神させてから殺すことで苦痛を減らす、という妥協点にあるらしい。殺生を禁ずるという考え方からすると、殺されることが決まっているくらいなら生れないほうがよいということにもなろう。

 功利主義の考え方は倫理学に不慣れな人にとっては奇異に映ると思う。なので功利主義者の議論を用いた説得というのは難しい。DaiGoさんの論点のなかでもこれがいちばん有望だと思う。

人類は肉を食べることで進化してきたので肉を食べるのは自然

 倫理学においてヒュームの法則という有名なテーゼがある。

「である」から「べきである」を導き出すことはできない。

というやつである(倫理学の入門書にはたいてい載っていると思うので調べてみていただきたい)。よく考えてみればわかるが、「〜である」と「〜するべきである」にはなんの論理的な繋がりもない。「である」から「べき」を導く推論を正当化したいならば他の前提が必要になる。DaiGoさんはこれを破ってしまっている。進化の歴史上の事実であったとしても、だからといって我々の行為がそうあるべきとはならない。また、屍肉あさりをせざるおえない環境に適応した形質がたまたま知的能力に繋がったからといって、現生の個体が当時の習性を真似する必要はない。要するに進化というのは種の歴史のレベルで起るのであって個体レベルの行為に関係はない。ここでも種と個体を混同しているように思える。

 また、こういうのはだいたいの場合たくさんある説のなかのひとつでしかないはずである。「○○のおかげで□□が進化した」みたいなのは簡単にわかるものではないし、まして人類の知的能力や言語能力の研究はまだまだ発展途上の分野であるから、そもそも事実かどうかがよくわからない。

 それに、畜産が工業化されている現状のほうが人類の歴史からすると不自然であろう。DaiGoさんは狩猟や屍肉あさりによる肉食を想定しているわけではあるまい。

肉(動物性食品)を食べないのは健康に悪い

 これもどうなのだろう。科学的事実なのだろうか。まずそこがわからない。ただ、ビタミンB12が動物性食品からしかとれないというのは事実らしい。なのでヴィーガンはサプリで摂ることになる。サプリで摂ると肌がガサガサになるというのがDaiGoさんの主張である。

 肌ガサガサ説が本当だとしても、健康ではなく倫理的な動機でヴィーガンになった人は、動物性食品を食べるくらいだったら肌がガサガサになったほうがましと考えるのではないだろうか。

ふたつめの動画への反論

 ふたつめの動画はなんか声だけだし口調が荒くて怖い。

DaiGoさんの論点の整理
  • 人類が皆ベジタリアンになったら家畜動物は殺される。絶滅する。
  • 植物や虫は殺していいのか? 家畜動物を特別視するのはおかしい。
  • 人は命を奪って生きるものなのだ(? 論理展開がよくわからない)。
  • 野菜だけを食べるようになったら畑を作るために森を切り開く必要がある。そこに住んでいる動物を殺すことになるのでは?
人類が皆ベジタリアンになったら家畜動物は殺されたり絶滅したりする

 これはひとつめの動画でも最初に言っていた。ふたつめの動画のコメント欄でも書いている(本人がコメントしているので、この切り抜きは公認なのだろう)。DaiGoさんのなかでこれがいちばん重要な反論なのだろう。

 絶滅という点に関しては先述のとおりだが、いま現在飼育されている家畜が殺されるということはありえるのだろうか? 急激に全人類が肉を食べなくなって畜産農家が家畜動物を持て余すということは杞憂なんじゃないかと思う。徐々に菜食主義やヴィーガニズムが浸透して肉食文化が減っていけばよいのではないかと思う。また、ラディカルな功利主義者は家畜として育てられるくらいなら殺したほうがよいと考えるかもしれない。

植物や虫は殺していいのか? 家畜動物を特別視するのはおかしい

 これは簡単に反論できる。動物倫理学の初歩的なところだと思う。

 苦痛を減らすのが目的なのだから、苦痛を感じない植物や虫への配慮は(少なくとも哺乳綱や鳥綱の生物ほどには)必要ではない。植物や虫も苦痛を感じていると考える人もいるだろうが、その場合は殺してはいけない範囲に植物や虫を入れることになる。そういうヴィーガンよりも強い思想の人もいるだろう、という話である。

 また、殺すことと飼育過程で苦痛を与えることとは別であるという論点はここでもまた生きている。

人は命を奪って生きるものなのだ(?)

 このあたりは何を言っているのかよくわからなかった。感情的になっているようだった。

「自分が多くの命を犠牲にして生きてるってことを考えるべきですよ」

「自分が生きた価値ってのをより多く残して、より多くのものを幸せにするってことを考える必要があるわけですよ」

「命を殺す責任から逃げるなよ」

「命をいただいてるってことを認識すべきなんですよ」

などと言っておられるのだが、こういうことを真剣に考えているからこそヴィーガンになるのであって、なんだか話の展開がおかしい。

 また、「命をいただく」という言葉はけっこう怪しい。現代日本では「人は命をいただいて生きているから、感謝すべき」という考え方が流布しているが、食べられる動物からしたら感謝されたってちっとも嬉しくないだろう。この思想の起源はけっこうあたらしいらしく、伊勢田哲治先生が検証している。

blog.livedoor.jp

野菜だけを食べるようになったら畑を作るために森を切り開く必要がある。

 これはかなり有力な反論だと思う。だが、うまく環境に配慮したやり方が発見されたならそれでよいのだから、これだけでは決定的な反論にはならないだろう。

私が言いたかったこと

 ひとつめの動画で「ヴィーガンはいくらでも論破できる」と言っているのだが、少なくともこの切り抜き動画ではまったく論破になっていない。私はそれを示したかった。いま、日本は空前の論破ブームである。西村ひろゆき氏とか論破の達人として人気である(ひろゆき氏への批判も、なんかいいのがあったらいずれ)。ひとつめの動画は(DaiGoさんの本意ではないかもしれないが)タイトルに「完全論破」と書いてしまっている。しかしDaiGoさんは自分で「論破しました」と言っているだけで、実際にヴィーガンと議論して説得したわけではないではないか。論破というのは実はけっこう難しいのである。さらに私のこの記事に対してDaiGoさんはいくらでも反論できるだろうし、そうやって議論は煮詰まっていく。こういう「論破してやった感」を出すのが上手い人に騙される人が減ることを祈る。

 あとDaiGoさんの動画って何故カメラの角度がパークマンサーと同じなのだろう?

 

あと念のためもういちど述べておくが、私はヴィーガンでもベジタリアンでもない。

 

読みましょう。

これもいいかも

ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ拾六・第7章1-3節(復習編)

 こちらの復習編。

 


www.youtube.com

 この動画のコメント欄に素晴しいコメントがついている。

劇場で見ました。客は6,7人しか居ませんでした。
中盤で客が一人入ってきた時、
私も含めた客全員がいっせいにその客のほうを見ました。
みんなその客が銃を持っていないことに安堵しました。
そういう映画でした。

優れた映画というのは観客がごっこ遊びに心理的に参加することを促し、それが虚構であることを忘れさせる。

VTuber

 VTuber論構築に向けて、またいろいろ話した。VTuberの中の人と役者の違いはなんだろう。大きな違いは、中の人がしかじかの感情を抱いているという事実が、VTuberがしかじかの感情を抱いているという虚構内真理を生成するということではないか。VTuberが身内の不幸で配信を休むということがあったらしい。中の人の身内に不幸があったということがそのVTuberの身内に不幸があったという虚構内真理を生成している。これは本文に出てきた小説の舞台をロンドンにするという例に似ている。そうすることで読者はロンドンに関する知識をその虚構内の真理とみなすことができる。VTuberは中の人のパーソナリティをそのまま出すことで生成の機構を節約しているのだと思う。

その他

 観る者がごっこ遊びに参加するというのは論じられているが、役者・演者もごっこ遊びに参加しているということはどうなっているのだろう。子どものごっこ遊びはそういうものだが。演者と客のインタラクションでごっこ遊びになるという例も(VTuberの配信などそうだが)考えるべし

 

 

ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ拾伍・第7章1-3節(予習編)バーチャルセックス論

 他の回はこちらから。

 恐怖についてはこのあたりの回で触れたが、その伏線回収の章である。そこで私はアダルトビデオを見たときの性的興奮という例も出したが、どうやらウォルトン先生の考えはそうした感情(や情動)と虚構内の感情(や情動)を分けるというものらしい。

 スライムの恐怖映画を見る男が覚えるのは「準恐怖」という恐怖とは区別される感情である。なぜ区別されるのかというと、ここで恐怖というのは身に危険が迫ることで生じる感情とみなしているからである。虚構世界と現実世界の断絶というのは第5章で述べられたが、そこは強調されるべきである。そして現実で感じる準恐怖が、男の心理的参加によるごっこ遊びの虚構のなかで恐怖になっているのである。このとき、準恐怖を感じる男は反射的な小道具になっている。自分自身が準恐怖を感じているというまさにその事実が、自分自身が虚構において恐怖を感じているという想像をうながし、そのように想像される。これはなかなかおもしろい論理展開だと思う。

 悲劇のパラドクスの恐怖バージョンというのを考えてみても、感じているのは準恐怖であって恐怖ではない、すなわち見ている男に実際に危険が迫っているわけではないのでパラドクスとは呼べないことになる。「すばらしき世界」という映画の感想でも述べたが、人は何故わざわざ嫌な気持ちになるような作品を見るのか、それは、現実で感じているのは「準」嫌な気持ちであって、実際の嫌な気持ちを感じているのは虚構内の自分であると考えると、それほど問題とは思えなくなる。

 恐怖以外、またこうした脇台詞パターン以外にも共感のような現象一般にこの論理は使える。準称賛とか準憐憫という例が出ているが、私の例では準性的興奮ということになろうか。AVを見て性的に興奮するのは、脇台詞パターンとそうでないパターンがある。すなわち、POVで撮影されているのと女優男優の絡みを見るのとである。POVの場合はスライムと同じで、絡みを見るパターンは他人のセックスを覗き見する際に覚える興奮と似ているだろう。私はAV鑑賞がセックスの擬似体験だと思っていたが、実際には他人のセックスを見るだけでも性的興奮は得られるはずである。準かどうかは虚構(というか画面)の内か外かの問題になってくるか。POVかそうでないかで問題は違ってきそうだが、それは現実においても自分自身がセックスの当事者かどうかの違いはあるのでたいした問題ではなさそうである。