曇りなき眼で見定めブログ

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ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ拾六・第7章1-3節(復習編)

 こちらの復習編。

 


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 この動画のコメント欄に素晴しいコメントがついている。

劇場で見ました。客は6,7人しか居ませんでした。
中盤で客が一人入ってきた時、
私も含めた客全員がいっせいにその客のほうを見ました。
みんなその客が銃を持っていないことに安堵しました。
そういう映画でした。

優れた映画というのは観客がごっこ遊びに心理的に参加することを促し、それが虚構であることを忘れさせる。

VTuber

 VTuber論構築に向けて、またいろいろ話した。VTuberの中の人と役者の違いはなんだろう。大きな違いは、中の人がしかじかの感情を抱いているという事実が、VTuberがしかじかの感情を抱いているという虚構内真理を生成するということではないか。VTuberが身内の不幸で配信を休むということがあったらしい。中の人の身内に不幸があったということがそのVTuberの身内に不幸があったという虚構内真理を生成している。これは本文に出てきた小説の舞台をロンドンにするという例に似ている。そうすることで読者はロンドンに関する知識をその虚構内の真理とみなすことができる。VTuberは中の人のパーソナリティをそのまま出すことで生成の機構を節約しているのだと思う。

その他

 観る者がごっこ遊びに参加するというのは論じられているが、役者・演者もごっこ遊びに参加しているということはどうなっているのだろう。子どものごっこ遊びはそういうものだが。演者と客のインタラクションでごっこ遊びになるという例も(VTuberの配信などそうだが)考えるべし