メイク・ビリーブ説についての勉強の記録。他の回はこちらから。
で、今回も問題提起的な章なのであまり中身が無い感じになります。ただし、私もつねづね疑問に思っていたことが提起されている。
第5章で取り上げられているのは
- 現実世界と虚構世界との隔絶
- なぜ虚構内のものに恐怖するのか
といった点である。
前者について、劇中で死んでしまうヒロインを救いたい観客はどうすればよいか、という例が提示される。演劇ならば舞台装置を壊してしまえば結末を回避できるが、これはズルの匂いがもちろんする。作者ならば結末を改変できるが、これもなんだか良くない気がする。つまり、現実世界でどのように働きかけても、虚構世界の真理が変るわけではない。もっと一般化して、そもそも劇中の人物を称賛したり共感してしまったりするのは何故なのだろうか。それは正当なことなのか。不思議である。
この論点は私の二次創作への哲学的興味にとって非常に重要なものである。多くの二次創作者は、一次創作の悲劇的な結末を救おうとして筆を取る。むしろそうした読者や観客の補完にこそフィクションの本質があるようにも思う。
後者はよく哲学で取り上げられるように思う。本では「恐怖のスライムの映画を観てポップコーンを食べる手を止める」という例が出てくる。そのようなスライムが現実にいると思っているわけではないし、過去に体験した別の恐怖を思い出しているとかでもなさそうだ。似た例として、幼児体験で犬を見ただけで恐怖を覚える人が歯が無くて噛むことのない犬も拒絶するとか、飛行機が怖い人とかが挙げられている。これらは虚構を恐れることとは違うらしい。その解決はまだ先である。
私が連想したのは、アダルトビデオを見てオナニーをするという経験である。あれってけっこう不思議ではなかろうか? 自分がセックスしているわけではないのに性的な興奮を覚えるのは何故だろう? 恐怖もそうだが、虚構を鑑賞することと生理的なものがこれほど結びつくのも驚異的である。
AVもそうだが、現代のVR技術なんかはどうだろうか??? もはや共感とかそういうものとは別次元の話と融合してくるかもしれない。よく「没入感」などというがあれはなんだろう? あとゲームの一人称視点と三人称視点の違いとか。