曇りなき眼で見定めブログ

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ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ六・第1章6節から第2章終りまで(復習編)

ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ伍・第1章6節から2章終りまで(予習編) - 曇りなき眼で見定めブログ の復習をざっくりと。

 

 不完全性とか矛盾とかの処理は、哲学というより個々の作品の批評(価値判断)とかジャンルの伝統の問題なのだと思う。『ジョジョの奇妙な冒険』の第1部でウィル・A・ツェペリは妻子がないと言っていたのに第2部でシーザー・ツェペリという息子が出てくる。これはのちに修正された。こうやって修正されることもあるし矛盾が味わいになることもある。『ジョジョ』はこういう穴も楽しむ作品だと思う。緻密な作品では欠陥とされるだろう。いずれにせよ、言語哲学や論理的意味論の問題とは言えないのではないか。

 

 この本では鑑賞は想像で創作は想像の規則を設定することという感じになっているが、私の気になっている二次創作という事例では両者が絡み合っている。想像体験から創作を分析することをもうちょっと考えたい。予習編で書いた感じだと、創作の基本て受容則なのかもという気になってくる。すなわち、創作というのは、自分の想像から想像を膨らませていくことなのではないか、と。

 

 予習編で述べたところの二次創作は、二次創作という行為や文化を一面的にしか捉えていなかった。私は、自分自身の想像を根拠に表象体が提供する規則を改定することが二次創作の本質となんとなく思っていたが、二次創作といってもいろいろである。「行間を埋める」感じの二次創作もある作中で明確に描かれていないシーンを想像して描くのである。これは作品に促されキャラクターをオブジェクトとした想像から逸脱してはいなさそうだ。