曇りなき眼で見定めブログ

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ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ伍・第1章6節から2章終りまで(予習編)

 ケンダル・ウォルトン先生の『フィクションとは何か*1』(田村均訳)の読書会の記録でござる。「メイク・ビリーブ」というカテゴリーをクリックすると他の回も見られますよ。

受容則(想像しているという事実が想像を命令する)

 1章6節の夢や白昼夢の分析は本書においてそれほど本質的ではなさそうだが、ここで出てくる受容則という考え方に私は痺れた。

 夢というのは小道具のない虚構である。虚構と言えるのは虚構的真理を決める、命令する規則があるからである。前回ちょっと書いただけだったが、小道具は虚構の規則を提供するという重要な役割がある。では夢には規則がないのかというとそうではない。「夢において〇〇が想像された」という事実が、夢の虚構性を決める規則を提供するのである。本書の例では、ある人が夢のなかでA地点にいる状態とB地点にいる状態を経験した。これは想像である(夢が想像なのかというのもいろいろ議論があろうけど)。そしてそれが想像されたという事実から、夢という虚構内でA地点からB地点へ旅をしたという想像も命令される。

 みたいな感じである。

二次創作の理論に応用してみよう

 前回、想像のオブジェクトという考え方を二次創作に適用してみた。それをさらに発展させたい。つまり、二次創作は夢の延長なのではないか、と。この受容則ってかなり強力なのではなかろうか。人は自分の想像を題材にしてさらなる想像を行っていて、それも虚構といってよいということを示しているのである。

 次のようなケースを考えてみよう。Aさんはあるマンガ作品を読んでいる。その主人公と敵キャラが恋をするという想像(妄想)をする。作中では彼らはヘテロセクシュアルだが、Aさんの想像のなかではホモセクシュアルになる。つまりこの想像はそのマンガ作品の命令から逸脱している(ここで作品は想像を促していて、キャラクターは想像のオブジェクトである)。Aさんはこの想像をもとに同人作品を描くとする。そのとき、Aさんのさらなる想像の規則を与えるのは先ほどのAさんの想像なのである。作品にとって非標準的な想像をしているというより、新たな規則による想像に転じたと考えたほうが当っているように思われる。

 これは二次創作という現象の、作品に依拠しつつ作品にない要素も持ち込むという特徴をうまく捉えていると思うのだがどうだろうか。

表象体とは?

 切り株や人形や絵画作品や文学作品が取り上げられてきたが、表象体とは何か? ウォルトン先生は「小道具となることがその機能であるような物」とするのが「望まし」く、また「機能」という語の意味を緩やかにとるべきとしている(53ページ)。

虚構世界とは?

 虚構世界とは何かという議論もあるが、これはあまり明確ではないしウォルトン先生も理論化を避けているフシがある。これをやろうとするとデイヴィッド・ルイスみたいに難解になる。ただし、(いわゆる構文論的に)完全な可能世界(命題の集合)と考えるのはやめておいたほうがいいらしい。虚構世界は完全ではないし、矛盾もする。

言語アプローチ批判

 序章では「言語アプローチに偏りすぎないように」ぐらいのテンションだった本書だが、第2章ではかなりしっかりとした言語アプローチ批判が展開されている。第2章のタイトルは「フィクションとノンフィクション」だが、これらの区別を通して言語アプローチは虚構の分析に適さないことが論じられる。

 サールの「フリをする」というやつだが、創作するときに別にフリをしているわけではない。これや発語内行為説もそうなのだが、絵画も虚構であるし、文学に比重を置きすぎているのである。ウォルトン先生は虚構を「真面目な」言語の使い方から派生したものとする考え方に反対する。虚構は虚構としての特徴を持っていることは、本書のここまでの議論で十分に伝わる。

 いいところを引用する。

言語行為論は虚構を説明する上で著しく役立たずであることが判明するだろう。私たちは、この領域で、「理論がうまくいきますように」症候群の不幸な一例を見ることになる。新しい難問に直面すると、理論家たちは、別の問題のために考案されたよく知られている古い理論を自分の好みに従って取り出し、局面の打開に使ってみて、それがうまくいくよう祈るのである。この場合、それはうまくいかない。その結果は、問題の解明ではなく混乱である。(77ページ)

これは虚構どころか分析哲学あるあるである。

 フィクションとノンフィクションの境界事例として歴史小説やニュージャーナリズムや対話形式の哲学書が取り上げられるのだが、割愛。

抽象絵画

 マレーヴィチの絵画が取り上げられているので触れざるをえない。「絶対主義」というのはロシア語で"Супрематизм(スプレマチズム)"というのだが、私はこれをラジオネームにするくらい好きなのである。

 ウォルトン先生は絵画の美学が専門なのかもしれない。ただ四角がたくさん描かれただけの絵画も、「四角の上に四角がある」ように感じるという点でメイク・ビリーブなのである。この分析にはおそれいった。というわけで抽象画、マレーヴィチのいう無対象の絵画も表象なのではないか、と。

神話など

 神話時代の人や子どもは、虚構の内容が真だと思っているのではなく、真かどうかなど考えもしないのではないか、という話。

 フレーゲ以降の哲学が真理理論にこだわりすぎているのかも、と私は思った。