曇りなき眼で見定めブログ

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ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ参・第1章5節まで(予習編)

 ウォルトン『フィクションとは何か*1』勉強会。第2回は第1章の5節までです。

 表象体をごっこ遊びの小道具(props)とみなすというアイデアを提示している。いろいろな物がごっこ遊びにおける想像にとって果すのと同じような役割を表象体も担うのである。しかしそれは細かく分類すると以下の三つになる。

現実の事物が想像に対して果す役割(21ページ)

  • 想像活動を促す。
  • 想像活動のオブジェクトとなる。
  • 虚構的真理を生み出す(小道具)

 しかしこれらの分析に入る前にまず「想像」となんなのかを考察している。これは以下の記事で扱っている現代現象学と似ている。ウォルトン先生は現象学が出自というわけではないようだが、現代美学は現象学に起源を持つ部分もあるので、必然的に似たアプローチになるのだろう。

cut-elimination.hatenablog.com

それで自然に起こる想像と熟慮にもとづく想像であるとか、現に生起している想像と生起していない想像であるとか、単独の想像と社会的な想像であるとか、想像の分類がなされているが、著者はこれらを理論的に扱おうとはしないため、それほど重要そうではない。そもそも想像とは何かということも明確に定義するのは困難であるが、だからといって理論を進めることが困難というわけでもない。

想像活動を促すことと想像活動のオブジェクト

 これらは比較しながら考えたほうがわかりやすい。切り株をクマに見立てるごっこ遊びでは、「切り株を使ってクマを想像する」ことと「切り株について、それがクマだと想像する」ことの二つの想像活動がありうる。前者は切り株から想像が派生しているが、後者は切り株そのものに関する想像である。

 なぜ小道具や表象体が存在を促すのかというと、それはまあ、あったほうが想像が生き生きとするからとか、他者と想像を共有しやすいからとか、そんな感じである。ただしこれはオブジェクトの役割も同じか。

演劇と映画の違い

 これらの違いが顕在化するケースとして演劇と映画の違いが取り上げられている(26ページ)。演劇と映画の違いとして、普通に考えると、俳優が目の前にいるかどうかというのがある。これに対する反論もあるようだがここでは受け入れる。

 演劇においては、ある役者が何らかの役を演じていて、それを見る観客は「その役者について、それが役の人物であると想像する」、すなわち役者が想像活動のオブジェクトになっているのである。対して映画では目の前にあるのはスクリーン上の映像である。映画においては「映像を使って出来事を想像する」、すなわち映像が想像活動を促すのである。映画でもスクリーンのなかにオブジェクトとしての俳優はいるのだが、目の前にはいないので生き生きしていない。ウォルトン先生はアニメーションにはそうしたオブジェクトとしての俳優がそもそも出てこないと書いている。これについては後でちょっと述べる。

虚構的真理メーカー(?)

 私のような論理学界隈の人間にとって興味深いのはこれである。切り株の例では、ごっこ遊びの参加者は「切り株=クマ」というような規則を共有している。切り株がクマではないかのように振る舞ってしまうとそれはその虚構において間違いとなるし、切り株の存在に気づかなくても切り株が存在している以上は虚構においてクマが存在することは真となる。

 つまり小道具としての事物は真理メーカー(という言葉をウォルトン先生は使っていないが)のように働く。表象体にいろいろな描写があるのも、規則を提供しているのだと考えられる。ただし、虚構は真理っぽいものではあるが真理ではないという。

 しばしば「〜ということはある虚構世界において真である」という語は省いていいように感じられる(42ページ)。これは興味深い。ウォルトン先生によるとこれは「〜ということは真である」を省いていいのと対応する。文からこれを取ることは、「〜」を断定する効果を持つ。虚構についても、虚構世界内の事実を断定する効果を持つ。

二次創作の理論への応用

 この理論では、いわゆる「if」をどう扱うだろう?

 二次創作の虚構世界において、一次創作のキャラクターは想像活動のオブジェクトなのではないか。

 ちょっとこれは勉強会で提起してからちゃんと書こうかな。