曇りなき眼で見定めブログ

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【アニメ哲学その2】これがアニメ現象学だ(現代現象学の手法でアニメを分析する試み)

 その1はこちら

【アニメ哲学その1】アニメの本質は絵か? 動きか?(あるいは声か?)玉川真吾『PUPARIA』など - 曇りなき眼で見定めブログ

 

 アニメを通して社会とか文化を考える言説は多いが、アニメそのものについて考えるものは驚くほど少ない。これほどアニメ文化・アニメ産業が隆盛を極める日本だが、実は日本人の多くが好きなのは「アニメ」そのものではないのではないかと私は睨んでいる。どちらかというとアイドル声優とかアニソンとかグッズ集めとかコスプレとか二次創作とか、アニメ周辺の文化が好きなのではないか、と。だからこそ私はアニメそれ自体について考えたいんすわ。

 

 

現象学とは

 今回のテーマは現象学である。主に『ワードマップ 現代現象学*1』(以下:『現代現象学』)という本を参照する。現象学フッサール(1859-1938)というという哲学者が創始した哲学である。生没年を見ればわかるとおりフッサールはかなり昔の人だが、その著作はいまなお真剣に読まれている。またフッサールに影響を受けて現象学を発展させたのがハイデガーサルトルレヴィナスメルロ=ポンティといった哲学者たちで、彼らは現代の思想や文化に強い影響を与えている。彼らはドイツやフランスの哲学者だが、近年の現象学分析哲学英米哲学の伝統ともいい感じで交わっているようである。現象学は理論というよりは手法なので、けっこう柔軟に応用が効くのである。『現代現象学』は分析哲学っぽいテーマに現象学でアプローチする感じの本である。なので上記のようなスター哲学者の思想の解説とかはない。「現代現象学」というタイトルの本としてはとても良い。

 私は現象学はアニメの分析に最適な手法だと思う。現象学の手法を用いた藝術論はけっこうあるようだ。『現代現象学』では音楽について論じられている。他にも、現象学者による絵画論や文学論はたくさんあると同書に書かれている。しかし映像論は意外にも少ないようなのだ。調べてもたいしてヒットしない。そしてもちろんアニメ論となるともっと見当らない。だから私がやっちゃうよ。

 アニメ哲学その1記事では、あるものがアニメであるといえる必要十分条件みたいなものを求める感じの議論をした。その条件をなんとなくで本質と呼んでいた。これは概念分析と呼ばれる手法をやったつもりである。概念分析とは何かと訊かれるとよくわからないのだが、その概念がどう使われているかに着目して概念の意味を明らかにしていくという感じである。対して現象学はちょっと異なるアプローチをとる。それは私たちの経験に着目するということである。しかし現象学の意味での経験とはどういうものなのか簡単には説明できない。『現代現象学』では経験という言葉を、対象へのかかわりとか意識経験全般など、かなり柔軟な意味で用いている*2。とりあえず次節で現象学的手法の例を見てみよう。

『現代現象学』の音楽論を見てみよう

 『現代現象学』の第7章1節は「音楽作品の存在論」と題されている。森功次先生である。森先生は分析美学や藝術哲学が専門だが、美学と現象学は分ちがたいものだと述べている。藝術の哲学において藝術の創作や鑑賞という経験の分析が不可欠だからである。

「音楽作品の存在論」の要約

 全体は3節から成っている。その議論を要約してみよう。

 まず第1節は「音楽作品は何でないか」。まず、音楽作品を聴いて評価するという経験において実際には何を評価しているのかを分析している。考えられるのは(A)音そのもの、(B)演奏者の努力や姿勢、(C)聴くことで得られる心地良さ、である。しかしこれらはどれも音楽作品ではない。経験を分析することで、評価という営みにおいて評価されている対象は実は音楽作品ではないというケースがあることがわかる。

 続いて第2節は「音楽作品の特徴」。ここでは存在論でよく登場する分類を使って音楽作品の存在論的特徴を調べている。(1)音楽作品は空間的位置を持たないが時間的位置はありそうである。一般的なモノのように位置を示せるわけではないが、ある音楽作品が存在する以前と以後は分けられる。(2)音楽作品は反復可能である。同じ作品を何度も演奏できるので。(3)聴取可能である。知覚や評価の対象となる。(4)演奏の多様さを受け入れる。少しの音のズレがあったとしてもその時点で別の曲が生れたとは考えられない。

 第3節では形而上学でよくテーマになる同一性条件存続条件を音楽作品について考える。(1)ある音楽作品とある音楽作品が同一であるといえる条件は何か。音の連なり、構造と考えるのが普通だが、先述のとおり演奏ミスも許容する必要があるため「規範的な」音構造と条件をつける必要がある。また、異なる二人の人物が別々でまったく同じ作品を作ってしまう可能性もあるため、作者による創造行為という文脈も加えるべきだろう。(2)ある音楽作品の楽譜やレコードがすべてこの世から無くなったからといって、その作品も無くなるわけではない。これは存在論的依存(ontological dependence)という概念に置き換えて考える。

 同論考では『ワードマップ 現代形而上学*3』(以下:『現代形而上学』)という本も参照せよとある。この本の第7章が「存在依存」で、第8章の「人工物の存在論」では藝術作品についても論じられている*4(「存在依存」というのはexistential dependenceの訳語だが、『現代形而上学』ではこれと「存在論的依存 ontological dependensce」を区別しないとある)。『現代形而上学』第7章によると、存在依存の定義は普通は以下のようになる。

 

 αはβに存在依存する ⇔ 必然的に、αが存在すればβも存在する

 

 この「必然的に」というのがまたややこしい形而上学的問題を引き起こし、論理学専攻の私としてはいろいろ言いたことのある話になるのだが、それはここでは触れずにおく。さて、この条件の右辺は言い換えると「αが存在するのにβが存在しないことは不可能である」となる。こっちの表現のほうがわかりやすいかもしれない。それと『現代形而上学』第8章では、固定的依存類的依存という区別と歴史的依存恒常的依存という区別が以下のように導入される*5(ちょっと文言を変えている)。

 

 

 (固定的依存) αはβに固定的に存在依存する ⇔ 必然的に、αが存在すればこの特定のβも存在する

 (類的依存)  αはβに類的に存在依存する ⇔ 必然的に、αが存在すれば類βに属する何らかのxが少なくとも一つ存在する

 

 (歴史的依存) αはβに歴史的に存在依存する ⇔ 必然的に、αが存在するならば、βはαが存在し始める時点よりも前に、またはその時点と同時に存在する

 (恒常的依存) αはβに恒常的に存在依存する ⇔ 必然的に、αが存在するならば、βはαが存在するすべての時点において存在する

 

 これらを踏まえると音楽作品は、特定の人物の作曲行為に固定的・歴史的に依存し、観賞能力を持つ人々に類的・恒常的に依存し、作曲時の環境に固定的・歴史的に依存し、音構造、楽譜や記録媒体に類的・恒常的に依存する。特定の作者や作曲時の状況に依存するが、それは特定の人物やメディアのために作られるわけではない。また『現代形而上学』では作者や鑑賞者の意図や心の動きを志向的作用と呼んでいる。志向的作用への存在依存を考えることでより細かな議論ができる。作者や受容者の志向的作用に存在依存するというのが人工物の特徴である。

 このような音楽作品の分析はインガルデン(1893-1970)という哲学者が先鞭をつけた。インガルデンフッサールの弟子の現象学者である。また存在論的依存はフッサール契機基づけという考え方に由来する*6

アニメーションの現象学

 この議論にならってアニメーション作品について考えてみよう。

アニメーション作品は何でないか

 アニメーション作品を評価する際に(A)が綺麗とかが良いとかいう。また(B)制作者の頑張りを褒める。そして(C)「泣ける」とか、見ることによる感情の動き、泣くような状態になる気持ち、これが経験される。

 まず(A)について。音楽作品の分析では(A)は音そのものであった。そして音楽作品が音であるは、音が多少ズレても音楽作品がそれであることは変らないということで否定された。しかしアニメーションでは音楽における演奏ごとのズレのようなものがない。ただ、上映あるいは放映あるいは再生される際の環境によって画面の大きさや画質や音質が変るだろう。しかし作品が変るわけではない。よって見る際に現に見ている絵、あるいは聴える音がアニメーション作品というわけではない。

 (B)や(C)もアニメーション作品そのものとは別の経験であろう。

アニメーション作品の特徴

 (1)アニメーション作品は空間的位置を持たないだろう。時間的位置は、音楽作品と同じ理由であると言えそうだ。

 (2)アニメーション作品は反復可能である。ただしそれは音楽作品とは違った手段による。音楽作品は異なる演奏者による演奏を同一作品の反復ととらえることができるが、アニメーションだとこれは何に相当するだろうか。例えば音楽作品と同じように、アニメーション作品は記録媒体や上映・放送されるメディアによらず同じ作品とみなせるだろう。Blu-rayを持っていたり配信サイトに登録していれば、ひとつの作品を何度も見ることができる。しかし演奏というのは、メディアを再生することとは違い、別人が何度も再創造しているともいえる。アニメーションでは、同じ脚本をもとに別人がその後の作業を行っても同じものとはならない。『涼宮ハルヒの憂鬱(2期)』(2009)で、7回に渡って同じ脚本の回が制作・放送されたことがあったが、絵コンテや作画、そして声優の演技は回ごとにかなり異っていた。これは「話は同じだが違う作品」とされるだろう*7。ただし、絵コンテや作画まで同じならば反復しうるといえそうだ。これと(4)とは次節の同一性条件と深く関わってくる。

 (3)アニメーションは目や耳によって知覚可能である。空間的位置を持たないが知覚によって把握されるのである。

 (4)音楽作品は演奏の多様さを許容するがアニメーションはどうだろうか。これについては次節で述べる同一性条件で。

 

アニメーション作品の同一性条件

 上映や放映の形態に依らず作品は同一なのだから、多少の画質や音質の違いは重大ではない。ただし、ディレクターズカットとかリニューアルみたいなものがアニメーションにはある。デジタルリマスターなどでは別作品にはならないだろうが、新作カットを加えたりすると微妙である。リメイクも程度によるだろう。『新世紀エヴァンゲリオン』と「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズは別作品だろうが、『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』と『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊2.0*8』が別作品かどうかは微妙である。

 音楽作品以上に創造の文脈に左右されそうである。またそれだけでなく興行のあり方や作品のファンが形成するコミュニティの文化も重要だろう。しかしそうなるともはや哲学の射程ではない。

アニメーション作品の存在依存

 これが微妙である。何故なら、アニメーション作品は集団で作られ、特定の人物の存在あるいは志向的作用の存在に依存するといいにくいからである。

 観賞能力を持った受容者に類的・恒状的に依存するのは確かである。フィルムやBlu-rayやインターネットサーバなどの記録媒体にも類的・恒状的に依存する。

 しかし制作者と制作者の志向的作用はうまく特定できない。これについてはアニメーションの仕組みを考える必要がある。

作者は誰か

 音楽や絵画や文学は作者を特定しやすいのだが、アニメーションではそうはいかない。まず素朴に考えると監督が作者だと言えそうだがどうだろうか。宮崎アニメや「エヴァンゲリオン」シリーズは「宮崎駿の作品」「庵野秀明の作品」とみなされがちだが、実際の制作は多くのスタッフが携わる。例えば作画という実作業はアニメーターがやるもので、監督みずから描くことはない。しかし駿は自ら作画をチェックして直すしキャラクターやプロップの設定もかなり自分でやっているので「宮崎駿作品」といってもそれほどはずれていないかもしれない。ただ庵野さんはそうでもない。エヴァのSF的な設定の多くは磯光雄さんが作ったらしい。また、庵野さんも一流のアニメーターだが、駿ほど万能なアニメーターではないのであまり作画に介入はしないはずである。

 ここで存在依存を考えてみよう。『風の谷のナウシカ』は原作も宮崎駿であり、駿に固定的・歴史的に存在依存しているだろう。しかし駿だけではない。スタジオジブリ鈴木敏夫さんはどうだろうか。つまり、鈴木さんがいなかったら『風の谷のナウシカ』が存在することは不可能だったのではないか。これも真といえると私は思う。『ナウシカ』の当時はまだジブリはなく、鈴木さんは徳間書店の社員で雑誌「アニメージュ」の編集長だった。『ナウシカ』は鈴木さんの進言によって「アニメージュ」で先行してマンガを連載するという条件で製作が決定されたのだ。『ナウシカ』は高畑先生がプロデューサーをやっている。映画は監督よりもプロデューサーのものだという意見がある。アメリカなんかでは監督よりもプロデューサーの権限のほうが明確に強いらしい。『ナウシカ』に関しては宮崎・鈴木・高畑の三者のうち誰が欠けても成立しえなかっただろうと私は思っている。なので三者に固定的・歴史的に存在依存する。しかし『エヴァ』も同様に庵野さんには固定的・歴史的に存在依存するが、キングレコードの大月プロデューサーにもそうといえるかは微妙かもしれない。

 次にアニメーターを考えてみよう。アニメーションの制作過程におけるアニメーターの役割はその1で詳述しているので見ていただきたい。『風の谷のナウシカ』には多くのアニメーターが参加している。巨神兵のシーンの原画を庵野さんが担当したというのは有名な話かもしれない。しかし、庵野さんが存在しなくても『ナウシカ』という作品は存在しえただろう。つまりアニメーション作品は、アニメーターに歴史的には存在依存するだろうが、固定的には存在すると言えない。アニメーターに類的・歴史的に存在依存するのである。これは例えば美術スタッフであるとかキャストに関しても広範囲で言えることだと思われる。

 ただし、「このキャラクターの声はこの人しかありえない」みたいなパターンもある。これは言葉のうえでそう言っているだけのことが多いだろうが、実際にキャスティングが先行する企画もありうる。また、アニメーターには作品ごとの名物アニメーター的な人がいる場合がある。「ポケットモンスター」シリーズの岩根雅明とか「NARUTO」シリーズの松本憲生さんなんかである。こういう人たちはその作品にとって不可欠なのだろうか。このあたりはまたのちほど。また、アート・アニメーションならばほぼひとりで作ることもある。新海誠さんも最初はそんなだった。

 続いて志向的作用について考えてみよう。アニメーションには特定の作者がいないため作者の意図なるものはバラバラになる、という話である。例えばアニメーターは、ごく短期的な目標を立てて作業しているはずである。多くのアニメーターは自身に割り当てられた仕事をこなすことで精一杯で、作品の完成形が見えているわけではない。つまりその作品を作ろうという志向的作用はここには存在していない。そもそも、アニメーションの制作過程のうち、完成形をイメージして行う部分は実は小さいものと思われる。全工程に携わるのはやはり監督である。ただ、有能な監督にはそれができるだろうが、できない人も多いだろう。しかも実際のところ本当に監督が全工程に携わっているといえるかどうかは微妙である。監督とは別に演出という役職があったり、作画監督や撮影監督や美術監督や音響監督といった役職ごとの責任者もいる。『風の谷のナウシカ』は宮崎駿の志向的作用に固定的・歴史的に存在依存するだろうが、特定のスタッフの志向的作用に対してはそうではない。やはり固定的ではなく類的である。これは「『特定のスタッフ』の志向的作用」に依存しないという意味でもあるしまた「あるスタッフの『特定の志向的作用』」に依存しないという意味でもある。個々のスタッフは「作品を作ろう」という意図を持つ必要はないからである。しかし『現代形而上学』ではこの区別は曖昧だったのでこの議論がいいのかどうかはわからない。

 もうひとつ作者について。これは日本アニメの体質かもしれないが、誰(の志向的作用)にも固定的に存在依存しない作品が実は多い。『ナウシカ』や「エヴァ」は実はかなりレアケースである。マンガやライトノベルやゲームなど原作もののアニメは「この人たちが作らなかったとしても誰かが作っただろう」というものばかりである。『現代形而上学』の例でいうとこうした存在は電話などの発明品に近いことになる。電話はベルが発明しなくても誰かが発明したので(そして実際ベル以前に考えついていた人がいた)。となると、アニメーションはどうしても制作スタッフに類的に依存するものだが優れたアニメは固定的に依存する先がある、ということか。ただし『鬼滅の刃』のように、どう考えても誰かがいずれはアニメ化したであろうけれど、結果的にufotableというスタジオとともに認識されるような作品もある。これは『アニメ・鬼滅の刃』という作品にufotableという存在は不可欠だったと言えるケースかもしれない。こういうのはのちほどまた。

アニメーションの技法とアニメの現象学

 ちょっと話題を変える。その1ではアニメーションの原理についても述べた。アニメーションは絵を連続して写すことで動いているように見せる技法である。またその映像作品。そこではアニメーションとアニメの違いについても考えてみた。かなり偏った視点からの分類だろうが、アニメーションは動きを重視するのに対しアニメは静止画を効果的に使う、ということになった。

 もうちょっと用語を追加しておく。映像というのが1秒間に24フレームの画像を連続して映すものであるとしたら、アニメーションにおいても1秒間あたりに24枚の絵を描けば実写映像と同じように滑らかに動くこととなる。このような方針は1コマ作画と呼ばれる。これの半分の1秒間あたり12枚でもかなり滑らかに見える。これは2コマ作画という。フルアニメーションというのはだいたい1コマないし2コマ作画のアニメーションである。日本のアニメの多くは3コマ作画、すなわち1秒間あたり8枚を基本としている。ただし作画に力を入れているアニメはもっと多くなるし、通常のテレビアニメはもっと少ない。また、後述するように静止画を多用するアニメもある。こうした日本アニメの手法はリミテッドアニメーションと呼ばれる。

アニメ作画の現象学

 ではアニメーションとアニメの違いは動きのあるなしなのかというとそうでもない。むしろアニメはアニメーションとは違った技法で動きを演出しているといったほうがよい。アニメーターの様々な技法を見てみよう。

黄瀬和哉と『機動警察パトレイバー the Movie

 黄瀬和哉さんというのはプロダクションIGのアニメーターである(監督もやっている)。押井守監督は彼の手腕をかなり気に入っているようで、あちこちのインタビューで称賛している*9。押井さんの監督作品である『機動警察パトレイバー the Movie*10』(1989)(以下:パト1)はかなりの部分が黄瀬さんのおかげで成り立っているらしい(この場合『パト1』は黄瀬さんに存在依存しているといえるかどうかは後述します。)。最近でた『押井守の映画50年50本*11』で押井さんは『パト1』における黄瀬さんの功績をかなり詳細に語っていた*12。同書は押井さんが50年間で観てきた映画を1年1本ずつ紹介して語っていくという内容で、出﨑統監督の『あしたのジョー2』の章で出﨑演出の影響とともに『パト1』の話をしている。ちなみに押井さんはアニメーター出身ではないので作画の実際的な技術には疎いようである。

 出﨑演出についてはその1でも解説したしこのあと節を改めてまた書く。出﨑さんはリミテッドアニメーションの可能性を追求した演出家で、作画枚数が少なくても撮影や演出でダイナミックでドラマチックな映像が作れることを示した、ということである。押井さんは、むしろ作画枚数が少ないほうがダイナミックな映像になるという例として『パト1』の経験をあげている。押井さんはタツノコプロの出身なのだが、劇場作品は2コマ作画で作るという常識があり、それになんとなく従って『パト1』を作っていた。黄瀬さんは作画監督として、(確か)やや遅れて制作に参加したらしい。そして押井さんに「3コマ作画にしたほうがダイナミックな映像になる」と提案した。この場合の3コマ作画は手抜きというか楽をしようということではない。2コマで進めていたものを直さなければならないので作業は増えるのである。押井さんは初めは疑っていたが、出来てくる映像を見て黄瀬さんの手腕に驚いたらしい。それくらい3コマ作画の効果は絶大だったのである。

磯光雄のフル3コマ作画

 磯光雄さんは『電脳コイル*13』(2007)の監督として有名だが、アニメーターとしても超一流である。磯さんは上手いだけでなく新たな作画理論というか概念を次々と創出しており、それが90年代の作画界に大きな影響を与えたらしい。以下の井上俊之さん(以下:井上老師)のインタビューを見るとその衝撃の深さがよくわかる。

www.style.fm

www.style.fm

このインタビューを見ると、一流のアニメーターは哲学者以上に哲学的に作画を考えているなと感じる。

 フル3コマ作画というのは磯さんが考案した技法ないし概念である。3コマ作画でフルアニメーションのような動きを実現するという意味であるが、具体的には、すべてを原画で描くということになる。原画と動画の違いはその1で解説した。さらに付け加えると、原画というのは動きのポイントとなるタイミングの絵を描くことだが、原画と原画の間を埋めることで動きが出る。この作業およびその絵を中割りという。動画の役割はこの中割りを描くことである。フル3コマは中割りを必要としない作画ということになる。これは中割りを原画マンが描くということではない。描くうえで原画と中割りという区別をしないということである。井上老師曰く

今は、極端に言えば、中割りなど存在しないのだ、という方向になりつつあるかな。人間の動きを再現するのに、中割りなど存在するはずがない、と(笑)。

こういうのは描く際よりは何を描くべきかを見極める際に差が出るのだと思う。人間の動作にはポイントとなる部分とそうでない部分という差はない、ということを念頭に動きをイメージして描くのである。また井上老師はフルかリミテッドかというのは枚数の違いには依らないということを断言している。フルとリミテッドは動かし方の志向の問題であって枚数の方針ではない。2コマでも無意味に中割りをしているだけではフルとはいえないし、2コマですべて原画で描いてもフル3コマと比べてそれほどの効果の上乗せは期待できないようである。

3コマ作画の現象学

 ここからは自論である。

 ちょっと出典は示せないので不正確な話です。確か井上老師がアニメスタイルのイベントで仰っていたと思うのだが、磯作画の魅力は静止画である絵と絵を脳内で繋ぐ快感にあるという。

 日本のアニメは動きがカクカクしている。これはディズニー作品を見慣れているとよりそう感じられるだろう。これをよく考えてみたい。1コマ作画や2コマ作画はが滑らかに見えるのは、おそらく人間の視覚では捉えきれない速さで絵が流れていくからだろう。イヌの目にはチカチカして見えると聴いたことがある。3コマやリミテッドアニメがカクカクして見えるのは、人間の目にもギリギリ一枚一枚が認識できてしまうからであろう。しかしこれが劣っているわけではないということはここまで読んでこられた方にはわかると思う。黄瀬さんや磯さんは、人間のそうした知覚を逆に利用しているのである。

  なお、作画に詳しくない人がよく「ヌルヌル動く」というが、ここまでの議論でわかるとおりこれは褒め言葉ではない。注意されたし。むしろヌルヌルを拒否する方向に進化したのがアニメの作画である。また枚数の多さを褒める傾向もあるのだが、これも同様の理由で間違っている。

出﨑アニメにおける静止画

 カクカクしているどころか、静止画を巧みに使う演出がアニメにはある。その代表格が出﨑統の演出である。例として『あしたのジョー*14』(1970-1971)のオープニング映像を見てみる。ふたつ付け加えておくことがある。このオープニング映像の演出が出﨑さん自身なのか私は知らない。ただ、出﨑テイストは出ている。また、しこのころはまだ、いわゆる出﨑演出とされる一連の手法は確立していない。

 ドドンッチャ〜ンというイントロののち「サンドバッグに〜」という歌が始まる。ここではこのイントロの部分に着目したい。主人公の矢吹丈(以下:ジョー)の胸から上が映され、徐々に顔に寄っていく。しまいに画面はジョーの右目を中心としたものとなりフェードアウト、そしてタイトルロゴが出て「サンドバッグに〜」が始まる。ジョーの憂いを帯びた表情が印象的で、原作でも謎のままであったジョーの過酷な生い立ちを伺わせる。

 さて、この間、一切の動きがない。カメラが寄っていくという撮影上の効果はあるが、作画による動きはない。一枚しか絵が描かれていないのである。しかし「矢吹丈の絵にカメラが寄っていっている」のではなく、あくまで「矢吹丈という人物にカメラが寄っていっている」ように見える。つまり絵を映したものではなくアニメという映像作品にちゃんと見えるのだ。アンドレイ・タルコフスキイ監督の『アンドレイ・ルブリョフ*15』(1971)という映画作品がある。実在するイコン画家の伝記映画である。この作品のラストで実際のルブリョフのイコンが次々と映されるが、それはあくまで「イコン画というもの」を映している。ジョーはどうやらこれとは違う、という話である。何故だろうか。

 やはり文脈がそうさせるように思える。つまり「これは絵です」という説明がない。あるいは絵の外の情報がない。額縁や、それを描いている人や撮影している人は画面には映らない。これが「これは絵だ」という意識を弱める、あるいはそれ以上の経験をもたらすものと思われる。例えば絵画や写真を見るときには、描かれているものや写っているものを見ている意識とともに「これは絵画だ」「これは写真だ」ということも理解している。こうした経験は像意識といい、フッサール以来現象学で盛んに論じられているらしい*16。ジョーの絵を見る際に人は、「これはジョーだ」と「これは絵だ」という意識(あるいは無意識)とともに「これはアニメだ」という理解をする。すなわち一枚の絵ではなくカメラの寄りと音楽も含めた映像作品ということを理解しているのだ。出﨑演出はこのアニメ的な像意識をうまく利用しているものと思われる。

アニメーションとアニメの現象学的な違い

 まとめ。

 アニメーションは絵を動かす技法であった。つまり、絵だったものが制作工程で映像に変る。対してアニメは、完成品を見ても「絵が動いている」「絵である」という感覚が残る。映像であるだけでなく絵でもあると認識される余地が大きいのだ。これは作画枚数が多すぎると生じない現象である。日本アニメのアニメーターや演出家の様々な工夫は、作画枚数に制限があるからというネガティブな理由によるものだけでなく、アニメ特有の現象を活かしたものでもある。

作画オタクの現象学

 受容者の志向的作用にもちょっと考えるべき点が残っている。

 特殊な受容の例として、作画オタクと呼ばれる人たちについて考えてみよう。アニメの作画に対してマニアックな興味を示す人のことである。私もけっこう作画が好きだが、ガチの作画オタクの人らを見ると私なんぞまだまだである。

 ひとつ注意点を述べておく。アニメの作画には原画と動画という工程があるということはその1と前章で既に述べた。作画オタクが注目するのは主に原画の仕事である。作画という工程は原画がメインで動画は補助的な役割なので、作画が良いとされるシーンやカットは原画の功績であることが大半である。しかし「作画の良いシーン」を作画しているのは原画マンだけではないということは注意すべきである。動画マンが中割りをしているので。

うつのみや理と『御先祖様万々歳!』

 まず例として取り上げるのは『御先祖様万々歳!*17』(1989-1990)というOVA作品である。これは原作・監督・脚本が押井守なので「押井作品」という色合いが強い。しかし作画好きの間では、作画監督を務めたうつのみや理(当時はうつのみやさとる)の画期的な作画が有名である*18。さて、本作は押井守に固定的・歴史的に存在依存することは間違いない。ではうつのみやさんに対してもそうだろうか? おそらくうつのみやさんが存在しなくてもこの作品は存在しえたのではないかと思う。しかし、受容者を作画オタクとすると、すなわち作画オタクの「作画を見てやる」という特殊な志向的作用に類的・恒状的に存在依存するとすれば、うつのみやさんにも固定的・歴史的に存在依存するだろう。何故なら受容者はうつのみやさんの作画自体を楽しみにしているのだから。となるとここでいわれているのは『御先祖様万々歳!』という作品ではなく「『御先祖様万々歳!』におけるうつのみや理の作画」という作品になるだろうか。

松本憲生の『NARUTO』作画

 作画オタクは、あるテレビシリーズの特定の回であるとか、さらにその特定のカットに着目することがある。有名なのは『NARUTO』の第30話「蘇れ写輪眼!必殺・火遁龍火の術」である。この回の前半の戦闘シーンは松本憲生というアニメーターの手腕が発揮されていることで名高い。もちろん『NARUTO』は大ヒット漫画が原作で、松本さんがいなくても『NARUTO』というシリーズの第30話という回は存在したはずだ。しかし「『NARUTO』第30話の前半の戦闘シーン」をひとつの作品として見ると、これは松本憲生さんに固定的・歴史的に存在依存するだろう。その際、作品の成立に作画オタクの志向的作用が関わっていること(存在依存していること)が条件である。これは固有名や種名辞と様相の議論なんかも関わってきそうでけっこう哲学的に興味深いのではなかろうか。

 前にちょっと触れた『鬼滅の刃』とufotableもこれに似たケースだろう。

オタクってこういうことでしょ

 制作者の意図せざるディテールに注目するというのはすごくオタク的で、そういうのを大事にするのがアニメ文化なのだと思う。そうして育った人がプロになって、さらに自分の理論を追求したりマニアにしかわからないネタを仕込んだりもする。なので「意図せざる」というのはあくまで例えば『御先祖様万々歳!』の押井さんのような人は、であって、うつのみやさんはあきらかに「こういう作画をしよう」という志向的作用をもって作っているのだ。

 声優オタクにもこの傾向があるはずなので、声優好きの人に考えてもらいたいなあ。

全体の雑なまとめ

 現象学はおもしろい! アニメは深い!

*1:

現代現象学―経験から始める哲学入門 (ワードマップ)

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*2:同書第1章4節を参照。

*3: 

*4:この第7, 8章を書かれた倉田剛先生は『現代存在論講義』Ⅰ・Ⅱという本も書いています。

現代存在論講義I—ファンダメンタルズ

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現代存在論講義II 物質的対象・種・虚構

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現代分析哲学存在論の基本のだいたいを網羅した素晴しい本である。この本についてはこちら→倉田剛『現代存在論講義』読書メモ - 曇りなき眼で見定めブログ。この本でも存在依存と人工物の存在論については『現代形而上学』を参照せよと書かれているのでどちらもよむとちょうどよい。

*5:こういう議論はトマソンという哲学者による。

*6:これらはフッサールの『論理学研究』という本に出てきます。インガルデンの研究はこの本を発展させたものであると『現代形而上学』の倉田先生のコラムに書いてあります。現象学分析哲学の起源のひとつで不可分だというのが倉田先生の研究テーマのようです。分析哲学の形式的な議論が好きな私にも現象学はけっこう楽しいのはそういう理由でしょうな。

*7:テレビシリーズの場合、各話をそれぞれひとつの作品とみなしてよいのかどうかは微妙ですけどね。

*8:サウンドをリニューアルしてCGを作り直したもの。声優も一部で交代しています。

*9:ただし、一時期彼らは仲違いしていたようです。ちなみに押井さんはイヌ派だけど黄瀬さんはネコ派だとか。

*10:

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*11:

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*12:ちょっと同書が手元にないので記憶で書きます。

*13:

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*14:

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*15:

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*16:『現代現象学』50ページ。

*17:

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*18:詳しくはアニメスタイルのインタビューを参照→WEBアニメスタイル_アニメの作画を語ろう