曇りなき眼で見定めブログ

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ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ弍・序章(復習編)

ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ壱・序章(予習編) - 曇りなき眼で見定めブログの復習編です。たいしたことはないです。

 

 表象体(representations)という漠然とした言葉を使うのは、あえてそうすることで確定した用法を持たせないためである。これがなかなか良いと予習編で書いた。その話に続けてさらに

 表象体というカテゴリーをどう形づくるべきか、またそう決定する理由は何か、といったことは、理論が展開されるにつれて徐々に明らかになるだろう。実際、理論を組み立ててものごとの理解に達するということは、その大部分が、ものごとをどう分類すれば最善なのかを決定し、どの類似性と相違性を認知し強調すべきかを決定する、ということなのである。それゆえ、探究範囲の確定は、その大部分が探究の結果として得られる。最初に挙げた作品例を越えて、いったい私たちの理論が何についての理論なのかを分かろうとしても、理論そのものを手中にするまでは無理なのだ。(4ページ)

 とある。これを最初に明言してしまうのもなかなかおもしろい。数学の本だとなかなかこうはならない。

 

 "make-believe"という語について訳注で「『ごっこ遊びにおけるように、事実でないと分かってはいるが進んで受け入れることにする』という心的態度」と書かれている。しかしごっこ遊びにおいては「事実でない」ということを意識してはいないはずである。なので難しい。

 

 言語分析によるアプローチについても。予習編で書き忘れていたが「ごっこ遊びを私が強調するのは、部分的には、この言語アプローチが過剰になっているのに対抗するためである」(5ページ)と述べられているのは重要である。分析哲学は基本的に言語の分析であるが、本書はその限界を超えうるのである。ただし著者は言語アプローチの重要性も同時に認めている。これらは相補的なのである。ここから予習編でも書いた「二種類の問い」に繋がる。