曇りなき眼で見定めブログ

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【感想】『ゴジラVSコング』を観ていたら永田裕志の影がチラついた【ネタバレ】

 そこそこおもしろかった!

 

 コロナの影響でアメリカと日本で公開時期がズレまくって、アメリカではちょっと前にもうBlu-rayは出てたそうですな。

 

 私は日本のゴジラ映画はだいたいどれも見ているはずだが、ハリウッドのゴジラやコングの新しいやつはほとんど見ていない。怪獣映画で好きなのは『サンダ対ガイラ』、『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』、『シン・ゴジラ』。そんな感じである。ゴジラシリーズのなかだと平成のVSシリーズを録画したビデオを見まくっていた。デストロイアが好き。なのでハリウッド流の特撮にはあんまり馴染めない。

ドライモン

 まず、あの南極の穴から地球の内部の空洞(のグルメ界みたいなところ)へ行くというのはドライモンの「創世日記」でああったやつで、まあ古典的なオカルト・都市伝説の類だろうけどけっこうワクワクした。あと少年少女が組織に侵入するところなんかも。「ひと夏の冒険」的な感じである。ドライモンの映画みたいなテンションで観るとけっこうおもしろいお話ではなかろうかと。

 しかし全体的にダイジェスト感があってこれは調べてみるとけっこう多くの人が感じているようだった。どうもかなりカットしたり途中で路線変更したりしたらしい。

チグハグ

 話のなかで物凄くチグハグな点がある。

 まず、地球空洞説は主人公の科学者が提唱していたけど学界からは嘲笑されている。しかし事実であった。

 それと、陰謀論者のやつはエイペックス社が何か密かに企んでいると思って潜入していた。コイツは水道水がどうとかイルミナティがどうとかいかにも陰謀論者が言いそうなことを言う。しかし実際にその陰謀は真実だったわけである。

 なんかヘンである。地動説とか大陸移動説とか遺伝の法則とか、初めは(嗤われてたとまではいかなくとも)疑問視されていたのにのちに確かめられた学説というのはよくある。己が正しいと信ずる理論を貫いて結果正しいと判明したらこれはかっこいい。コペルニクスとかガリレオ・ガリレイとかダーウィンとかやや誇張してそういうふうに伝記が書かれたりする。地球空洞説のヤツもそんな感じだと思うが、早々に弱インディー・ジョーンズみたいになって自説の正しさとかどっかにいってしまう。むしろ陰謀論者のほうがそういうふうに描かれるのである。なぜ陰謀論大勝利映画にしてしまったのか。別にそれでもいいが、だったら学界から嗤われている科学者なんて出しちゃいかんのではなかろうか。もっと大勝利すべきヤツがいるだろうと思ってしまった。死んだお兄さんの話はどこへ行ったのか。(もしかしたら初期の構想では彼らは一人の人物だったのかもしれない。)

 これは科学考証がメチャクチャだとか逆にそこが良いとか以前の問題であろうかと。

永田裕志

 最初の海上輸送中のコング*1ゴジラの戦闘は永田裕志VSエメリヤーエンコ・ヒョードルのような絶望感があった。というかふつうに考えてコングがゴジラに勝てるわけないのでは? コングはパワー系だがゴジラもふつうにパワーがあるし尻尾でサブミッションもやってくる。とうぜん光線も吐く。しかもゴジラはエラもあって水陸両用である。永田はなんか知らない間に話が進んでヒョードルとやることになってしまったらしいが、まったく同じ状況である。コングが船上によじ登ってゼェゼェ言ってるところはプロレスラーみたいだった。

白目

 とか思ってたら小栗旬が永田ばりの白目を披露していて笑ってしまった。やはりこの映画の隠れたテーマは永田裕志なのかもしれない。

特撮

 特撮映像はまあダメだった。ハリウッドの怪獣映画ってこんな感じなのだなあ。特撮の真髄をまるでわかっとらん。喝だ!

 ゴジラやコングの造形の緻密さはすごいのだが、CGの弱点である(と私が思っている)重量感はあんまり克服できていない。思うに、クリーチャーごとではよくできていても、それと何か他のオブジェクトとの接触に違和感があるのではないかと。確かコングの手から砂みたいなのがこぼれるカットがあったのだが、そういう描写にリアリティがなかった。すべり方が変だったような。

 コングが四つ足で駆ける動きはけっこう良かった。あとゴジラの泳ぎのフォームも良かった。

 あのグルメ界の重力がデタラメになる感じはマリオカートでよく見るのでそんなにすごいとは思わなかった。

 ロケット弾みたいなの*2がパァーッと放射状に飛んでいくやつは日本のアニメでもよくある。マクロスとか。板野サーカスというのの系譜である*3板野サーカスのほうがうまいかな、と思った。やはりアニメーターは技術だけでなく「何を描いてどう見せるか」という演出面が大事なんでしょうな。

 で、特に文句を言いたい点が3つある。

最大の文句1

 まず、カメラワークがおかしい。というか視点がおかしい。例えばゴジラがコングにマウントポジションをとるところで、ゴジラから見たコングの顔とコングから見たゴジラの顔がアップになる。これは興醒めである。なんだか怪獣がすごく小さくなったように感じる。巨大なものの目線になってしまうのも問題だが、怪獣は人間ではないのだから、怪獣バトルにこんな人間臭い演出を入れるでない。あとついでに言っておくと、コングの表情が腹立つ。なんかゴリラの化け物というより毛深いシュレックみたいに見える。

 怪獣は大きいわけだから下からのアングルが怪獣映画の基本だと思う。上からあるいは怪獣の目線と同程度の高さから撮る際には、ヘリコプターなどからの視点と仮定されるような展開になっているものである。あと望遠にすることで安全圏から観察してるっぽくしたり。確認したが、『シン・ゴジラ』ではこれが貫かれている。ゴジラの顔のアップも印象的な場面を除いてかなり少ない。と、いうのは本作の制作者も重々承知であえてこうしているのだろうが、私には解せない。

最大の文句2

 カメラワーク以外にも編集がもろもろおかしいと思う。何を見せようとしているのか。これも『シン・ゴジラ』と見比べてみると一目瞭然なのだが、ひとつひとつの映像表現が雑に扱われすぎている。何が起きたのかこちらが認識する前にカットやアングルが変ってしまうのである。こういうのをスピード感とかスペクタクル感と思っているとしたら根本的に間違っている。

 とか思うのは私がアニメ至上主義者で庵野さんの(というかエヴァの)ファン故に歪んだ特撮観を持っているからかもしれないが、どうだろう。例えばコングがビルに叩きつけられてビルが崩壊したりするが、ビルの崩壊はそれ自体として見応えのある映像になりうる素材である。しかしどうも「コングがビルに叩きつけられてビルが崩壊した」という事実とデカい音、これで客が興奮すると思っている感じで、全然ビルの崩壊の味わいを噛みしめさせてくれない。デカい音と「怪獣が暴れてますよ」感を積み重ねていけば怪獣映画になると思っとりゃせんか? あと爆発とか怪獣の殴り合いとかデカブツがジャンプしたり光線を吐いたり、それらをもっと丁寧に見せてほしかった。『シン・ゴジラ』では爆炎による逆光で電柱と電線が黒く浮び上がるカットとかとことん美的に計算されている。本作ではゴジラが地下へ光線を吐くところと天に向って吐くところは良かった。

 こういうのが好きな人は映像作品が好きというよりアトラクションが好きなんじゃなかろうか。

最大の文句3

 最大の最大の文句は、コングがドシンドシン歩くたびに画面も揺れることである。なんで揺れるのかがわからない。これこそアトラクションである。

 これも人間の目線くらいの高さのアングルであれば地上の人間が感じる振動を表現しているものとわかるのだが(『シン・ゴジラ』でもそういう演出はある)、なぜかそれ以外に空中(これも何を想定した目線なのかわからんが)のアングルでもドシンの揺れがあった。要するにこれは何かを表現した揺れなのではなく、単にドシンという音と連動して視覚効果も加えておこうという演出で、やはり映像作品的でなくアトラクション的なのである。

総評

 最終的に文句が多くなったけどふつうにそこそこおもしろかったですよ。

 

 

*1:怪獣の輸送は失敗しがち。

*2:ミリタリーをぜんぜん知らなくてすみません…

*3:板野サーカスというのは単なる弾や戦闘機の軌道のことではないですが。

ナチスと新書の記事にコメント

 こんな記事を読んだ。

gendai.ismedia.jp

雑誌「群像」が講談社現代新書とコラボした企画らしい。それを知らずに読んだので後半で「なんで急に新書を薦めだしたのだ?」と思ってしまった。

 著者の田野大輔先生はなかなかのトゥイッター強者らしく、トゥイッターでなんか言って見つかったら怒られそうなのでブログでコソコソ書くことにする。

 「ナチスは良いこともした」という人って確かにいるよなあ。私もそういうのをネットとかで見るので「へ〜」と思っていた。でもそうじゃないらしい。「良いこと」の例とされる失業者対策(私も聞いたことある)も実際はたいして良くなかったらしい。私は歴史をあんまり知らないのでそもそもこの記事自体が勉強になった。しかしよく知らないからこそ謙虚になるべきで(無知の知)、専門家に講釈を垂れるようなことは私は決してしないだろう(専門家である田野先生が「ナチスは良いこともしましたよ」と「教え」られた話がこの記事の前半の話)。

 で、そういう人が出てこないための対策として、新書のような手軽かつ堅実な入門書が重要だと述べている。なんというか、田野先生は本気でそう思っているのだろうか? 企画の趣旨がそうだから取り敢えずそう書いたのか? 実際おすすめしている新書は良い本ぽいし、良い新書がたくさん出るのは良いことだが、田野先生がトゥイッターで遭遇したような人たちに「新書を嫁」と言っても意味がない気がする。そもそもあんまりそういう本を読まなそうな気がするし、潜在的にこういう人はもっとたくさんいるはずで田野先生と直接やりとりしないと良い本に出会えないようでは意味がない。

mobile.twitter.com

↑田野先生はこういうのをリトゥイートしているので、まあ新書がもろもろを解決すると本気では思っていないだろう。

 私の考えでは、こういった専門家に講釈を垂れようとする態度が悪いはずで、それを脱するには知識を得ることよりも継続的な読書で知の世界の広さを体感することが必要だと思う。知識が広まらないことよりも、知識を広める立場の人への信頼が広まらないことが問題なのではないかと。

 しかし上のトゥイートもそうだがトゥイッターの人というのは(拙者もやってるけど)なんか口が悪くて怖い。田野先生のトゥイッターもなかなかである。記事の中でも

だが「ナチスは良いこともした」と主張する人たちにあっては、そうした反権威主義的な姿勢はいわゆる「中二病」的な反抗の域を出ず、歴史から真摯に学ぼうとする態度につながることはほとんどない。

と書いていて、「そんな言い方せんでも…」と思ってしまった。これは私には悪口に見えるのだが、どうだろう? 私がナイーブ*1すぎるのかもしれないが。だがトゥイッターをやりすぎて悪口の感覚が麻痺してる人って私はけっこういると思う。田野先生も授業では学生に対してこうは言わないのでは。

 新書を薦めるにとどまったりとか、中二病呼ばわりをしたりとか、こういう知識人の方は知識のない人と接するのが嫌なのだろうな〜と思ってしまった。これじゃあ信頼なんて結べないのでは。

「新書なんて薦めてもムダっすわ(笑)」

「ほんまやね」

つってまた各々の世界に戻って終り、というまあいつもの光景に落ち着いてしまうのではなかろうか。分断というやつ。

 

 ↓この本がオススメらしい

*1:「ナイーブ」という言葉の意味ってよくわからんのですが使い方あってます?

ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ弐拾弐・第8章4節から終りまで(復習編)ロックを聴く・作るという経験

 こちらの復習編。

 

 音楽について。ライブで体を動かすというのを思い浮べると音楽のメイク・ビリーブがわかりやすいかも。

 331ページなんかで論じられているが、音楽については小説や絵画と違って作品世界なるものがあるのかどうかよくわからない。となるとごっこ遊び感はより強い感じがする。作り手は作りながらごっこ遊びをしている?

 

youtu.be

 

「直観主義型理論(ITT, Intuitionistic Type Theory)」勉強会ノート其ノ弐拾「二つの集合の直和」「命題的な(?)等しさ(途中まで)」(復習編)

 こちらの復習編。簡単に。

直和

 \Sigma は任意の集合の直和でここでは二つの集合の直和である。違いは数だけではない。\Sigma ではインデックス? ラベル? のようなものと集合族とで直和を形成したが、ここでは集合と集合からである。なので&にあった非対称性が \land にはない。

選言

 一般的な自然演繹では A から規則で A \land B を導くと A から出てきたのか B から出てきたのかという情報が落ちてしまう。しかしITTでは construction として残っている。それが良い。

 選言を含む命題論理のトートロジーの証明が例として出ている。ここで\land除去則は依存しないケースとして導入されているが、依存したらどうなるのだろう。その場合は例の途中で含意に書き換える前の全称良化の形に現れている。A + B は全称量化のドメインの直和ということになる。この述語論理と命題論理の対応はおもしろい。

internal form

 31ページに出てくる"an internal form of ="というフレーズの意味がよくわからなかった。

フレーゲのパズル

  意味と意義の区別の話が出ている。ここでは sense が意味(Bedeutung)で meaning が意義"Sinn"である。また、sense とは method の value のことでもある。meaning は intentional(内包的)である。2^22 + 2 は内包が違うが値は同じ、意義は違うが意味は同じ、である。

I

 I はなんだかこれまでの construction(命題の証明)と proof(判断の証明)の区別を破ってる感じがしてちょっと怖い。集合族を形成するというのもそういうことかも。

 

 

ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ弐拾壱・第8章4節から終りまで(予習編)モビルスーツやエヴァンゲリオンといった現実にありえないものの描写に"リアリティ"を感じるのは何故だろう?

 メイク・ビリーブ、はじまるザマスよ!

 描出体の続きであるよ。

写実性

 写実性(realism)についてはちょっと言いたい事例がある。ちょうど『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』を観てきたので(【何やってるの!】ガンダムにわかの私が『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』を観た感想!【バカにするぅ!】 - 曇りなき眼で見定めブログ)。本書では『指輪物語』の描写を例にとり「最大限に空想的な作品でも、もう一つの種類の並外れた「写実性」をもつことが可能なのは明らかである」ということを論じている(324ページ)。モビルスーツみないな現実には今のところ実現が難しそうと思われているものでも、うまく作画をすると動きにリアリティが出ることがある。以下の磯光雄作画MADを見てほしい(2021年にアップされた最新版)。


www.youtube.com

この中の『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』は作画史上でも有名で、モビルスーツをキャラクターっぽさのない無機質な兵器として描くことに成功しているといわれる。「いわれる」というか実際そう見える。これはすごいことである。あとアスカのエヴァ弐号機と量産機の戦闘シーンもそうである。現実にこのような巨大ロボットがいたらこんな動きをするだろうという感じがする。ただしエヴァモビルスーツと違ってバイオテクノロジーの産物なので、もうちょっと生物みがある。という点も写実的である。おそらく磯氏は「『もしこんなものが実在したらこんな感じに動くだろう』と人々は想像するだろう」ということをわかって描いている。それはそれ以前のモビルスーツ描写などへの人びとの無意識化の違和感みたいなのを察知しているのだと思う。

様相、音楽

 「様相」ってなんの訳語だろう? "modality"だろうか?「様相論理」とかの様相ではない気がする。"mode"かも。様相横断的な描出というのは、ある感覚(様相)から別の感覚(様相)への変換であるという。

 音楽論はけっこう興味深いのだが、私はあんまりマジで音楽を聴いたことがないのでよくわからない。久石譲の曲を聴いて癒される、とかそういうのはわかる。ヒーリングである。こうした音楽を聴くことに付随する内観は音楽作品の描出だという。

 さて、しかしJ-POPだと音楽においては歌、ひいては歌詞が重要である。歌詞はもちろん言葉であって、言語的な表象体になる。これは様相横断的な描出を利用しているのか。言葉を音に変えたりとか??

視点

 なんか「漫画では、知覚している登場人物に見えているものの描写は、その登場人物の絵に付随する吹き出しの中に入れられる」(337ページ)とあるのだけどこれがよくわからない。アメコミ文法だろうか?

 それはさておき、この「視点(描出体における)」という節はピカソキュビスム絵画や黒澤映画『羅生門』を同じ角度から論じていておもしろい。キュビスム絵画は一枚の中に複数の視点から見たはずの描写が混在している。『羅生門』は場面ごとに異なる人物の視点から見た世界に切り替わる。キュビスムではそれらがそれでも全体を形成していることが重要だが、『羅生門』では場面ごとに異なる想像をするからおもしろい、ということらしい。

 先日の『映画大好きポンポさん』の感想でも書いたが、アニメではとにかく図とか抽象的なモデルみたいなのとかを使った演出が多い(本書では天気図とかは描出ではないとされてた)。ポンポさんはとくにそれが多い。また個人の心象風景に他人が入ってきて話したりとか、時間が飛んだり戻ったり、時間を数字にして画面にデカデカと書いたりする。こういうのはマンガの影響だろうか。そもそもマンガというのは『羅生門』とキュビスム両方の特徴を持ち合せていると思う。いちおう一コマ一コマについて順番に描出を見るが、見開き全体でひとつのようでもある。さらにマンガ的なブチ抜きとか描き文字とか変なコマ割りや吹き出しがある。実はマンガは「描出的」度合いが小さいジャンルなのかもしれない。それがアニメにも浸透しつつあるとかかも。

【何やってるの!】ガンダムにわかの私が『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』を観た感想!【バカにするぅ!】

 とてもおもしろかった!

 記事タイトルにあるような富野調(?)の台詞回しがいいね。

 この予習のために大急ぎで『逆襲のシャア』も見た(今更ながら『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』を見たけどこれは確かに伊達じゃない - 曇りなき眼で見定めブログ)。

逆シャア』を見た直後なので、いろいろ富野演出との違いとかアニメ技術の進歩と退歩に想いを馳せながら観たのである。タイトルに「にわか」と書いたが、ファーストガンダムとZと逆シャアとGレコは見ている。

 なんにも知らずに観にいったので、途中で「あれ、これマフティーってハサウェイなんじゃないの?」と気づき、そういうわけなので序盤のギギとのやりとりをよく理解できていなかった! これガンダムにわかの皆さんそうでない? 上映前にトイレに行ったら冒頭をほんのわずかに見逃したのだが、そのせいか。ギギがハサウェイについてケネスと話しているところは見たけど。

 あとギギはニュータイプってことでええの?? これは今後のお楽しみだろうか。『逆シャア』を見た感じだとハサウェイはニュータイプっぽかった。ニュータイプという概念は『逆シャア』の後の時代では禁忌になっているらしい。やっぱ地球と宇宙とかよりニュータイプかどうかのほうが危険な分断を生むのだろうか。この間の話を私はまったく知らない。じゃあモビルスーツサイコミュとかサイコフレームとかはどうなったのだ!? というかそもそもアムロやブライトはどうしてる? なんかにわかの私でもガンダム世界の考察がけっこう楽しい。あと特別出演的な感じで山ちゃん(山寺宏一さん)が出ていて、ハサウェイに「シャアの反乱のときのご活躍は〜」みたいな台詞があった。オマエ(ギュネイ)はシャアの反乱で死んだでしょうに!

 話は普通におもしろかった。ギギが謎すぎて「理解できないワシが悪いのか?」とちょっと思ったが(あと喋り方がなんか奇妙)、続編で明かされるのでしょう。主人公が普通にテロリストだったりとか、(わざわざダミーの攻撃のために)空爆を仕掛けたりとか、なかなか生々しくて良い。現実の戦争もそういう削り合いになりがちである。

 あと作画について、「オレがずっと求めてた「兵器としてのモビルスーツ描写が初めて実現されている!」みたいなのをツイッターで見かけたのでそれにも注目した*1。 これに関してはある程度はそうだけど極まってはいないかなと思った。こういう「兵器としてのモビルスーツ」みたいな評価は作画好きの間では大抵『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』の冒頭の磯光雄氏が原画を担当したシーケンスについて言われる、と思う。

↑これか。にわかの私はそのシーケンスしか見たことがない…。しかしこの磯氏の描くモビルスーツの無生物感というのは本当にすごい。磯氏と言ったらエヴァの「Air」の弐号機VS量産機のところもそうだが、重量感がマジで伝わる。あんなに巨大なロボットが動くところなんてこの世の誰も見たことがないはずなのに何故かリアリティがある。で、そういう動きの面では『ハサウェイ』よりも『ポケ戦』の磯氏のほうが上回っている。ただし、物語上の役割として、小さな人間にとっての脅威の感じがなかなか良かった。モビルスーツって怖いのだなあ。しかしこれが『ハサウェイ』の独特な描き方なのかどうかはにわかの私にはわからない。

 それよりも空中戦闘の迫力が『逆シャア』よりも良いと思った。あのガウマンが衝撃で身体を歪めるところとかいいね。それと宇宙空間までガンダムを取りに行くところとかなんかSOLを止めにいく鉄雄みたいで良かった。物語の壮大なスケール感が一気にワッと伝わってきた。あとアムロの声が聴こえるのもなんか良かった。ファーストガンダムの時代から十数年後の設定のはずだが、私が初めてガンダムを見てから10年ちょっと経っているので、けっこうその重みがシンクロして感動した。

 ちょっと言いたいのだが、画面が暗すぎである。二度の衝突がいずれも夜なのである。モビルスーツのデザインがよく見えないし、どっちが攻撃してどっちがやられたのか戦闘の経過もよくわからない。これはこだわりなのかもしれないが単純に見づらかった。ウルトラセブンのプロテ星人の回みたいだった。ウルトラマンって何回かに一回のペースで夜の戦闘があるが、あれは何回かに一回だから良いのである。たぶん。

 あと『逆シャア』を見た直後だからなのだが、あまり好きではなかったはずの富野演出の魅力みたいなのもちょっとわかってしまった。例えば『逆シャア』に典型的だけどセリフが言い切りみたいになっている。観客に向けたセリフなんてほぼなくて、その人がその場で言うべきことを言っているだけなのである。そのせいで話がわからなくなったりする。『ハサウェイ』はそうではない、しかしどうしても「普通のアニメ」っぽさを感じてしまう部分があった。富野さんてもしかしたら「キャラクターのドラマを見せよう」という気持ちがないのかもしれない。『ハサウェイ』はキャラクターを動かしてセリフや表情や視線や人間関係でドラマを作っている。しかし富野作品にはなんかもっと変なエネルギーがある。その変なエネルギーは『ハサウェイ』にはなかった。何故だろう、セリフの問題もそうだし、声優の演技がいかにもアニメっぽいという問題もあるし、弱々しいモノローグが多かったり、(テロリストや偉い人も含めて)わりと常識人が多かったりとか、いろいろ原因はあろう。でもまあそのおかげでおもしろいロボットSFアニメにはなっているからいいでしょう。

 音楽が『逆シャア』の主題歌のTM Networkを彷彿とさせて良かったのだが、エンディングのAlexandrosはちょいとダサかった…。声優とJ-Rockは映画に不向き説を提唱したいかも。

 ↓Blu-rayの販促上映なんですよね。でも劇場で観て良かったですよ。

 原作は角川スニーカー文庫なのですなあ。

私はライトノベルには疎いのだが、ガンダムの小説版がライトノベルの起源だというのは聞いたことがある。これのイラストを美樹本先生が描いているからキャラクター原案が美樹本先生なのだなあ。そういえばその仕組みも現代アニメでよくある。

*1:しかしこのツイートはいま探したら見つからなかった。消えたのかも。

「直観主義型理論(ITT, Intuitionistic Type Theory)」勉強会ノート其ノ拾九「二つの集合の直和」「命題的な(?)等しさ」(予習編)

 過去のシリーズはこちらから。

 今回は自分の担当ではないので内容がないよう。

二つの集合の直和

 数を指定しない直和は連言になって二つの集合の直和は選言になるというのはなんか凄い。

 {\textsf D} というまた新しいのが出てきた。

命題的な(?)等しさ

 "propositional"はここではどう訳すべきか。「命題の」等しさではないので、「命題としての」等しさとかか。

 この I の導入則はなんかせこいような!? ちょっとメタなが話が体系内に入っている感じがする。しかし非常に面白い。