曇りなき眼で見定めブログ

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今更ながら『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』を見たけどこれは確かに伊達じゃない

 アマプラで見た。

 この大クラシック作品を恥ずかしながらまだ見ていなかった。ガンダムは『ZZ』は見ていないけどファーストと『Z』は見ていて、それだけ見ていれば『逆襲のシャア』の予習としては十分と聴いている。にもかかわらず『逆シャア』はまだ見ていなかった。なんか見る機会を逃していた。

 しかし!

 現在、宇宙世紀シリーズにおける続編である『閃光のハサウェイ』が絶賛公開中で、この予習としても見ねば*1なるまいと思い、見た。というかまったく知らなかったのだけど『逆シャア』ではハサウェイが準主役級の扱いなのですね。

 

 ガンダムシリーズは基本的にテレビで1年とか放送するのだが、それは長すぎだと思う。80年代くらいまではそれがテレビアニメの基本だったわけだけど。わたくし的には昔のロボットアニメって作戦と戦闘の繰り返しでけっこう退屈なのである。それよりも『ガンバの冒険』や『未来少年コナン』のような2クールで話がどんどん進展していく冒険ものとか『アルプスの少女ハイジ』のように執拗に生活を描く作品のほうが好きである。

 ちょっと話がそれたが、そういうわけなので『逆シャア』のように劇場作品でひとつの武力衝突を描くのが丁度よいと思った。

 

 で、私は基本「ガンダム」がそれほど好きではない。それが何故なのか『逆シャア』を見てちょっとわかった。なんというか人間関係が濃密すぎる気がする。

 ナナイみたいなエロいおねえちゃんはなんだかんだでアニメでは貴重なのでありがたい。富野さんてこういうキャラもいけるのだなあ。CVの榊原良子さんはハマーン・カーン役もやっている。しかしそれよりも良い(悪い)のがチェーンである。クェスが初対面からチェーンのことを嫌っていたが、あの気持ちはちょっとわかる。なんかアムロにくっついて嫌な感じなのである。しかしいきなり面と向かって悪態をつくクェスはヤバイ。クェスはニュータイプの訓練でオウムみたいなヤバイ団体に洗脳されてるんじゃないかという感じもする。

 そしてなんじゃい、シャアもアムロもキレイなおねえちゃんを侍らせといてララァララァと。ぜんぜん違う作品だけど、もっとバトーを見習え! と思った。しかしこの妙に生々しい男女の感じ、性愛に溺れているのか母性や父性を求めているのか政治的に利用しているだけなのかよくわからない感じ、こういうのはエヴァみたいな感じである。私はエヴァは大好きなのだが何が違うのかはよくわからない。エヴァはもうちょっとユーモアの配分がよいのかもしれない。その分、人間のエグい部分が描かれたときの落差に震える。ついでに、ハサウェイが初めてスペースコロニーの景色を見るシーンは演出も含めてシンジくんがジオフロントに到達するところに似ていた。

 あとファーストガンダムでちょっと出てきたミライさんの婚約者がここでも出てくるのがけっこうおもしろい。この人もハサウェイもギュネイも、というか全員が全員、戦争や地球の未来に私情を持ち込みすぎである。けれどもそれがガンダムシリーズの本質で、結局そういう私情がニュータイプのサイコパワーを引き出すんだからしょうがない。

 というわけで、ガンダムが好きな人はこういうのが好きなのだろうなあというのはよくわかる。私は『パンダコパンダ』みたいなのが好きなのであまり良さを感じられないが、それでも凄いことは認めざるをえない*2。そういう作品で、自分にとって富野監督という人もそういう人な感じである。

 

 作画はかなり良くて、私は『Z』がどうだったかよくおぼえていないけどファーストのまだまだもっさりした感じのイメージとはだいぶ違う。CGも使われているし。キャラクターの顔とかスタイルもかなりかっこいい。ミライさんとかめちゃくちゃ美人になっている。ハヤトみたいな妙な頭身のやつは出てこない。

 モビルスーツの動きやミサイルの起動や爆発、これらはかなりハイレベルである。作画監督のひとりにこのあたりの技術革新をもたらした磯光雄氏がいて、その参加経緯がなかなかおもしろい↓。

w.atwiki.jp

あとガイナックスも参加している。ついでに言うとジオフロントの設定を作ったのは磯さんである。

 作画よりも印象的なのは美術である。緻密で綺麗で。でも私は美術を褒める語彙があんまりない。詳しくないので。

 

 公開された1988年というのは『AKIRA』や『となりのトトロ』『火垂るの墓』も公開された年で、OVAでは『機動警察パトレイバー』や『トップをねらえ!』のリリースが始まった年でもある。アニメ史において技術的にも産業的にも文化的にも重大な一年であったのだなあ。ちなみにテレビアニメでは『それいけ!アンパンマン』の放送が開始している。

 

 それでは『ハサウェイ』も観てきます。

 

*1:ミネバ・ザビ

*2:認めたくないものだな…

自然演繹のここがダメ! 4選(by ジラール)

 ジャン=イヴ・ジラール先生といえば、線形論理の開発者であり、他にもさまざまな斬新な業績を打ち立てた論理学界の大巨人である。ジラール先生の線形論理解説論文"Linear Logic: Its Syntax and Semantics"に自然演繹の4つの問題点というのが書かれていた。これは線形論理の証明をどう描くかという観点からのもので、推件計算はカット除去手続きに関してチャーチ=ロッサー性を満たさないという欠点がその前に挙げられている(直観主義論理の自然演繹ではこれが起きない)。非本質的な分岐ができてしまうのである。以下の自然演繹の欠点は、基本的に推件計算は逃れている。

 あとここで挙げられているのは特にジラール先生のオリジナルというわけでなくよくある議論かもしれない。私はよく知らないので、もしそうだったらすみません。また、本文では線形論理の結合子と暫定的な規則について述べているが、ここでは線形論理に限らず広く自然演繹一般についても当てはまりそうなのでその方針で書く。

その4つとは

非対称性

 古典論理の推件計算には左辺と右辺の対称性があるが、自然演繹ではそうならない。複数の前提があっても結論は常に一つだからである。これは古典線形論理を考えるうえではちょっと良くない。となるとそもそも古典論理と自然演繹の相性が良くないということに帰着してしまう。そういう議論は証明論的意味論とかであると思う。私はよく知らないのでまたいずれ考えます。

実際の数学との違い

 除去規則の問題点である。例えば「AならばB」と「A」に"ならば"除去を適用すると「B」が出てくるが、これは上下が逆なのではないか、ということらしい。これはちょっとよくわからなかったが、ふつう数学をやる際は「B」を証明したいという動機から「AならばB」と「A」を証明するのではないか、ということかと思う(たぶん)。ただ、ジラール先生も書いているがこの点はそれほど本質的な批判ではない。しかしやはり証明論的意味論とかではもんだいになるかも(証明論的意味論をよく知らないのにイメージでいろいろ言ってすみません)。

グローバルな性質

 "ならば"導入則や"または"除去則などの問題点である。これらの規則は適用する際にそこまでで出現している仮定をすべて消去しなければならない。これはなかなかややこしい。直前の式だけでなく証明図の全体を参照しなければならないのである。"This global character of the rule is quite a serious defect." とジラール先生も書いている。

余計な論理式

 "または"の除去則と存在量化の除去則で出てくる問題である。規則が適用される"または"や存在量化子を含んだ論理式とはまったく関係ない論理式が帰結として出てきてしまう。これはなんか変な感じがする。

 また、この性質のせいで(らしい)"permutation conversion"とか"commutative conversion"と呼ばれるものを考える必要が出てきて正規化が非常にややこしいものになってしまう。

証明ネットへ

 これらの欠点を逃れ、尚且つ推件計算の欠点も免れているものとしてジラール先生が提案するのが((乗法的)線形論理についてだが)証明ネットである。ただしこれは証明の体系ではないっぽい。あくまで片側推件計算の導出(証明)をグラフに置き換えて構造を単純化する装置で、証明ネットの規則にしたがって生成されるグラフは一般的に導出(証明)になっていない。

 まあ大変である。

 

↓表紙に証明ネットが描かれてる。

 

 

ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ弐拾・第Ⅲ部第8章3節まで(復習編)

 こちらの復習編。

 予習編でウォルトンは規約による説明を批判していると書いたが、全面的に否定しているわけではない。規約は十分条件ではないというだけである(302-303ページ)。となると私の考えとしては、実写映像を鑑賞する際には生理的に必然に発見できる真理が、アニメだと規約に依存していたりとか、そういうことになるかもしれない。

 VTuberについても興味深い説を。水車小屋ならば、絵を見ることが水車小屋を見ることだと想像するというのは容易に理解できる状況だが、バーチャルなキャラクターだとどうだろう。「実際にキャラクターを見ている」という状況とはいったい。このあたりがキャラクターの存在の面白い点だと思う。マンガやアニメでモニターの中のバーチャルなキャラクターが外に出てくると言う展開があるが*1、現実でもそのような想像は可能なのだろうか。 

*1:といっても具体例が思いつかない。『電影少女』は読んだことがないけどそんな感じだろうか?

「直観主義型理論(ITT, Intuitionistic Type Theory)」勉強会ノート其ノ拾八「選択公理」「"〇〇 such that □□"みたいなやつ」(復習編)

 こちらの復習編。

選択公理について

 ACAC'という二つの形の選択公理が出てきた。これらの同値性は新井先生の本で証明されているが、 ITTにおいても同値になるのかどうかはまだ調べていないのでわからない…

 選択公理が証明できるということはITTは古典数学より強い体系なのかというと、まあそんなことはないはずで、どこかで代償を支払うはずである。そもそも選択公理が証明できたのも、前件が真であるためにはそれの証明となる具体的なメソッドが必要であるという厳しい条件のおかげで、これが他の定理の証明でどのようにきいてくるのか。ただしそうしたメソッドの要求というのはなかなか地に足ついた考え方でよい。

コーシー列

 例えば \sqrt{2} という無理数

 1, 1.4, 1.41, 1.414, 1.4142, ...

という列で表せる。以下でやっているのは、もしこれがコーシー列ならば例えば e \in {\mathbb Q} として 0.001 をとったとき(そして同時にそれが 0 より大きいという証明も)、1.414 のような有理数(これは上の列の(0番目から始めて)3番目の要素)を返すことの確認である。

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この返す手続きは \sqrt{2} を定義したときに目撃情報として含まれていなければならない。これはなかなか厳しい話だが、こうすることである程度の解析学ができる。目撃情報を用意できないような無理数についてはITTでは扱えないということかと。

 あと具体的にどうやって \sqrt{2} のコーシー列を作るのかは知らない…

ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ拾九・第Ⅲ部第8章3節まで(予習編)アニメの美学・現象学へ

 メイク・ビリーブだ!

 第8章のテーマは「描出体(depiction)」である。絵画を中心とした視覚的な表象体のことだが、しかし本書ならではの特徴づけで言語的な表象体との違いを探っている。

描出体とは

 本書では水車小屋のある風景を描いた風景画が例として出てくる。この絵画を見るとき人は、水車小屋やその後ろにいる人などを見ているということも想像している。水車小屋の絵を見るとき、虚構的に水車小屋を見るということも成立しているのである。絵画作品、特に風景画は容易に反射的小道具となる。対して例えば小説内の風景描写は、その文章を読んで想像はしているが、その文章そのものが風景であるとはふつう考えない。

 絵を見るという行為はいろいろな点で現実の物や景色を見ることと似ている。景色を見ながら何かを見つけるということは、絵画を見ながら思いがけない細部を見つけることとけっこう似ているのである。本書に出てこなかったが(あとで出てくるかもしれないが)ブリューゲルの『バベルの塔』はそういう発見に満ちた作品である。このような類似は、絵というのがなんらかの解釈や解読を基本的には必要とせず、「見ればわかる」ものだからである。

 描出体の性質は他にもいろいろと興味深いことが書いてあるが、それよりも気になる点がある、私には。それはアニメをどう考えるか、である。

アニメだとどうか

 アニメーションとアニメは歴史的に分化していて概念的にも違いがあるということは過去に書いている。アニメーションというのは絵を連続で映すことで動いているように見せる技法のことで、アニメというのは静止画を使ったり声を使ったりして生き生きした感じを出す総合的な技法である、というのが私の考え(というか概念工学というか)。

cut-elimination.hatenablog.com

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 本章では例として絵画やイラストやモンタージュ写真や映画や演劇は出てきたが、アニメーションは今のところ出てきていない。いわんやアニメをや。

 映像について述べている箇所を抜き出す。

 演劇と映画の観客は、虚構において観るだけでなく聴いてもいる。(297ページ) 

これは描出体を聴覚的なものも含めるように拡張するという議論である。

 続いて変換(translation)という現象の説明のなかで出てくる。

絵画は三次元の対象たちの並びを二次元の表面に描いている。鉛筆による素描やほとんどの彫刻は、多くの色からなる情報を単色で表現している。運動は静止した媒体に描き出される。パノラマ的な見晴らしが小さな画布*1や舞台に切り縮められる。彫刻は隠退した英雄を実物大より大きく引き延ばす。映画や演劇のように、運動を描くために運動が使用されるときは、時間が縮められたり引き延ばされたりする。音楽的な再現では、自然の音が全音階の音に整理される。(320ページ。太字は引用者)

ここで重要なのは、アニメは運動を描くのに運動を使用していないということである。一枚一枚の絵をその都度描く(という作り方が一般的)。

映画でスローモーションやこま落としを使うと、描かれた出来事のある一定の側面が分かりにくくなる(他方で別の側面が顕わになる)。 低速映像も高速映像も、通常の運動状態なら明瞭に分かる虚構的真理を見つけにくくするのである。……虚構的な事柄を見出す際のこういった難しさは、当然ながら、そういった真理を私たちが見つけることは虚構として成り立たない、ということに変換されるのである。

リミテッド・アニメというのは一般にフル・アニメーションと呼ばれるものよりもコマ数を落している。この引用ではおそらくコマ落しによって動きがブツ切りになって間あいだの情報が落ちるということを言いたいのだと思う。しかし、アニメでは逆にコマを落すことで生き生きとして見えることがある。アニメーションやアニメは動きを使用せず動きのようなものを創造しているだけなので、やりようによってはコマ落しをしたほうが虚構的真理を見つけやすくなるのではなかろうか。

 私として気になるのは、アニメのこうした動きの表現は、ウォルトン先生の批判する規約という考え方で成り立っているのではないか、ということである。

 絵を見ることは物を見ることに、どのようなあり方において、似ているのだろうか。ここでは、絵を見る人と物を観察する人が、それぞれ経験している視覚的感覚作用、ないし現象学的な経験を比較するつもりはない。(この比較は、いったいどうやって絵画の視覚的特徴と事物の視覚的特徴の比較から区別できるのか、明らかではない。この二つの比較は、どちらも結局、絵がどう見えるか物がどう見えるかと比較することになる。)私が関心を持っている類似性は、何が虚構として成り立つのかを絵を見て詳細に調べる過程と、何が真として成り立つのかを現実を見て詳細に調べる過程との間に成り立つ類似性である。つまり、それは絵の世界の視覚的探索と現実世界の視覚的探索の間に成り立つものである。(305ページ) 

この現象学的な比較を是非やるべきで、私が試みているのはそういういことである。アニメを見る際の探索は一般的な映像を見るときや物や出来事を見ることとはかなり仕組みが異なっていると思うので。

*1:ガフの扉が開く…

「直観主義型理論(ITT, Intuitionistic Type Theory)」勉強会ノート其ノ拾七「選択公理」「"〇〇 such that □□"みたいなやつ」(予習編)

 直観主義型理論シリーズ。他の回はこちらから。

選択公理

 選択公理はITTでは定理になる。

選択公理の定式化

 新井敏康『集合・論理と位相』を参考にする。

 選択公理は以下のような定式化が一般的かもしれない。

 

 (AC)任意の集合族 (X_i)_{i \in I} について

 I \neq \emptyset \land \forall i \in I [X_i \neq \emptyset ] \to \Pi_{i \in I} X_i \neq \emptyset

 

しかし、以下もこれと同値である。

 

 (AC’)任意の集合 A, B と任意の P \subset A \times B について

 \forall a \in A \exists b \in B [(a, b) \in P] \to \exists f \in B^A \; \forall a \in A [(a, f(a)) \in P]

 

ITT論文ではこのAC'が採用されている。

選択公理の証明

 というわけなので、ITTでは選択公理は以下のように書ける。

 (\forall x \in A)(\exists y \in B(x))C(x, y) \supset (\exists f \in (\Pi x \in A)B(x))(\forall x \in A)C(x, \textsf{Ap}(f, x)) \; true

論理読みをしなかったら

 (\Pi x \in A)(\Sigma y \in B(x))C(x, y) \supset (\Sigma f \in (\Pi x \in A)B(x))(\Pi x \in A)C(x, \textsf{Ap}(f, x))

となる(\supset よりも \to のほうがよかったかも)。

 これを証明する。以下のようになる(A \; setB(x) \; set \; (x \in A) も暗黙的に仮定している)。※カッコがたりてないところアリ。

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かなり込み入った導出だが、ポイントは

  • 選択公理は「XならばY」の形をしている。
  • 直観主義数学でこれを証明するには、Xの証明を得ているものとしてYの証明を得ればよい。
  • 選択公理の場合、Xの証明とは、任意の x \in AyC(x, y) の証明のペアにうつすメソッドである。
  • f を任意の x をそのようなペアのひとつめの要素にうつすメソッドであるとすると、任意の x について C(x, f(x)) は成り立つ。これはYも成り立たせる。
  • この議論をITTのなかで形式的にシミュレートしたのが上の導出である。

古典数学との違い

 ZF集合論では選択公理は証明できないので公理として立てる必要がある。しかし選択公理は自明とは言い難い。しかしここでは証明ができなので正当化としては十分である。

 いろいろな言語で選択公理は表現はできても証明できない。例えば有限型のハイティング算術では公理としている。

なぜ証明できるのか?

 古典数学では証明できないのにITTでは証明できるのは何故か?

 新井本にいろいろ書いてある。AC'の形だと選択公理は自明に見える。前件部分を「任意の a に対して適当に b \in B を取ってくれば (a, b) \in P とできる」と読めばそのように思われる。しかし、\\exists b \in B [(a, b) \in P] を仮定したとて、(a, b) \in P となる b \in B を表す具体的な式が取ってこれるわけでは必ずしもない。これが選択公理を要請する理由である。

 しかるにITTでは、前件が真であるということがそのような具体的なモノが構成されていることを含意するのである。それを左射影で取り出している。

 なお、前回ヒルベルトの規則も選択公理と同じような理由で要請されていたと思う。

 ACの形だったらどうなるのか、それはわからない。

"〇〇 such that □□"みたいなやつ

the comprehension axiom, the separation principle, the witnessing information

目撃情報

 \Sigmaの応用例としてもうひとつ、"the set of all a \in A such that B(a) holds(B(a) を満たすようなすべての a \in A の集合)"というのがある。A を集合、B(x)x \in A についての命題とする。定義したいのは要するに \{x \in A : B(x)\} という集合である。B(a) を満たす A の要素 a を持っているというのはつまり、A の要素 a とともに B(a) の証明、すなわち B(a) の要素 b を持っているということである。なので \{x \in A : B(x)\} の要素は b \in B(a) を満たすペア (a, b) であり、それはつまり  (\Sigma x \in A)B(x) の要素である。よって\Sigma規則が包括原理やZFの分出公理のような役割を果たす。 b \in B(a) によって得られる情報をフェファーマンは目撃情報(witnessing information)と呼んでいる(ふつう古典的な理論では \{x \in A : B(x)\} だけならば目撃情報は要請されないだろう)。

 このちょうどよい応用例はコーシー列である。

例:コーシー列としての実数(集合)

 コーシー列も新井本に出てくるのだが、ここではあまり関係ない。 コーシー列というのは実数を定義するひとつの手法である。ITTでは以下のように定式化できる。まず、

 {\mathbb R} \equiv (\Sigma x \in ({\mathbb N} \to {\mathbb Q}))Cauchy(x)

とする。すなわち、実数集合というのはコーシー条件なるものを満たす有理数列(自然数集合から有理数集合への関数で表現)とそれがコーシー条件を満たすことの証明のペアの集合である。伝統的な書き方をすると \{x \in {\mathbb Q^{\mathbb N}} : Cauchy(x)\} ということになる。このコーシー条件はITTでは次のように書ける。

 Cauchy(a) \equiv (\forall e \in {\mathbb Q})(e > 0 \supset (\exists m \in {\mathbb N})(\forall n \in {\mathbb N})(|a_{m + n} - a_m|) \leq e)(ただし、aa_0, a_1, ... という有理数列である。)

コーシー列の直感的な意味はうまく言えない。

 さて、こうすると、c \in {\mathbb R}, e \in {\mathbb Q}, d \in (e > 0)de > 0 の証明)とおけば

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というようにして具体的な a_m \in {\mathbb Q} が得られる(導出の最下段がそれである)。c がコーシー条件を満たすことの証明である \textsf{q}(c)有理数列を構成し、m 番目に、有理数 e に応じた精度で a_m という近似を出すメソッドとなっているのである。このように具体的な近似値を出せる(どれくらいの手間でどのように出せるかわかるのもも含めて)のが目撃情報であろう。

ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ拾八・第7章の4節から終りまで(復習編)M-1のインディアンスのネタとキングオブコントのゾフィーのネタの不可解さについて

 こちらの復習編

 

インディアンスのネタ

 予習編で書いていなかった大問題がある。M-1グランプリ2020のインディアンスの漫才である。

 私は敗者復活から見ていたのだが、インディアンスは敗者復活戦でおおいにウケて視聴者投票によってみごと復活した。インディアンスは明らかにアンタッチャブルの影響を受けているコンビで、ボケの田渕がボケというよりおふざけを連発してツッコミのきむを翻弄する。この敗者復活では、きむのちょっとした言い間違いに対して田渕が執拗に揚げ足をとるというくだりがあった。私はちょっと違和感があった。言い間違いをネタに組み込むのってどうなのだろう。かまいたちUSJUFJを言い間違えるネタをやっていたが、かまいたちはそれほど変に思わなかった。インディアンスのネタに違和感があるのは、それがあたかも本当の間違いであるかのように見せすぎているからであると思う。

 漫才というのはコントと違って「何かを演じている」ということを意識させないことが重要となる。かまいたちのネタでは「山内という実在の人物がUSJUFJを言い間違えた」ということが虚構において成立している。一般にコントでは、コント師は別人を演じているのでこうはならない。

 インディアンスのネタを成立させるには「きむが現実において言い間違えた」ということが虚構において成立していなければならない。しかし見ただけでは「きむが現実において言い間違えた」ということが現実において成立している(つまりきむのミス)ようでもある。観客や視聴者はどのような虚構的事実あるいは事実が生成されているのか判断できないのである。かまいたちは山内のアブナイ目つきのおかげでこれがネタだとわかるようになっているのであまり問題はない。インディアンスは決勝でもこのネタをやり、やはりこの言い間違いがネタの一部だとわかった。しかしそうなると「きむが現実において言い間違えた」の「現実において」の部分を想像するのは困難になる。すでに先ほどやったネタなので同じように言い間違えるのは不自然である。これは再度の参加が困難な例だと思う。私は決勝のインディアンスのネタにはけっこう冷めた。そしてこの不可解さを指摘していたのは私の知る限り伊集院光だけだった。


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 このいとし先生はたぶん本当に言い間違えている。

流し見

 今日の話では「流し見」について話が出た。

 例えば嫌いな作品では、ごっこ遊びが成立していて虚構的事実が生成されているのはわかるのだが、あまりそれに積極的に参加したくはない。参加はしているけれど冷めている。そうすると虚構的事実はあまり成立しなくなるかもしれない。ヤバイ飲み会みたいに、参加はしているけど時計をチラチラ見ている。『プペル』を観たときはそんな感じだった。

 逆に、虚構的事実が生成されていないのになんとなくでしか観ていないから何かが生成されているように勘違いしてしまうということもある。これにはもうちょっと根源的な例がある。キングオブコント2019のゾフィーのコントである。ふくちゃんという腹話術人形を使ったコントなのだが、私にはこれの何がおもしろいのかがわからない。腹話術師が不倫の釈明会見に腹話術人形を持ってきて会見の途中途中で人形がツッコミを入れる、記者がそれにつっこむというネタである。しかし何がどうボケになっていてサイトウは何につっこんでいるのかいまいちわからないのである。釈明会見で芸をやるということがすでにおかしいのだからサイトウはそういう観点からつっこんでいる。しかしネタの主眼は何故かふくちゃんのしゃべりそのものに置かれているようだ。だがふくちゃんはあくまで人形で喋っているのは腹話術師なのだからあまり響かない。わかります?? 実はこれはコントとして成立していなくて、見ている人は単にふくちゃんの見た目とか喋り方の音とリズムや雰囲気で笑ってるだけなのではないかと私は睨んでいる。