曇りなき眼で見定めブログ

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ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ拾八・第7章の4節から終りまで(復習編)M-1のインディアンスのネタとキングオブコントのゾフィーのネタの不可解さについて

 こちらの復習編

 

インディアンスのネタ

 予習編で書いていなかった大問題がある。M-1グランプリ2020のインディアンスの漫才である。

 私は敗者復活から見ていたのだが、インディアンスは敗者復活戦でおおいにウケて視聴者投票によってみごと復活した。インディアンスは明らかにアンタッチャブルの影響を受けているコンビで、ボケの田渕がボケというよりおふざけを連発してツッコミのきむを翻弄する。この敗者復活では、きむのちょっとした言い間違いに対して田渕が執拗に揚げ足をとるというくだりがあった。私はちょっと違和感があった。言い間違いをネタに組み込むのってどうなのだろう。かまいたちUSJUFJを言い間違えるネタをやっていたが、かまいたちはそれほど変に思わなかった。インディアンスのネタに違和感があるのは、それがあたかも本当の間違いであるかのように見せすぎているからであると思う。

 漫才というのはコントと違って「何かを演じている」ということを意識させないことが重要となる。かまいたちのネタでは「山内という実在の人物がUSJUFJを言い間違えた」ということが虚構において成立している。一般にコントでは、コント師は別人を演じているのでこうはならない。

 インディアンスのネタを成立させるには「きむが現実において言い間違えた」ということが虚構において成立していなければならない。しかし見ただけでは「きむが現実において言い間違えた」ということが現実において成立している(つまりきむのミス)ようでもある。観客や視聴者はどのような虚構的事実あるいは事実が生成されているのか判断できないのである。かまいたちは山内のアブナイ目つきのおかげでこれがネタだとわかるようになっているのであまり問題はない。インディアンスは決勝でもこのネタをやり、やはりこの言い間違いがネタの一部だとわかった。しかしそうなると「きむが現実において言い間違えた」の「現実において」の部分を想像するのは困難になる。すでに先ほどやったネタなので同じように言い間違えるのは不自然である。これは再度の参加が困難な例だと思う。私は決勝のインディアンスのネタにはけっこう冷めた。そしてこの不可解さを指摘していたのは私の知る限り伊集院光だけだった。


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 このいとし先生はたぶん本当に言い間違えている。

流し見

 今日の話では「流し見」について話が出た。

 例えば嫌いな作品では、ごっこ遊びが成立していて虚構的事実が生成されているのはわかるのだが、あまりそれに積極的に参加したくはない。参加はしているけれど冷めている。そうすると虚構的事実はあまり成立しなくなるかもしれない。ヤバイ飲み会みたいに、参加はしているけど時計をチラチラ見ている。『プペル』を観たときはそんな感じだった。

 逆に、虚構的事実が生成されていないのになんとなくでしか観ていないから何かが生成されているように勘違いしてしまうということもある。これにはもうちょっと根源的な例がある。キングオブコント2019のゾフィーのコントである。ふくちゃんという腹話術人形を使ったコントなのだが、私にはこれの何がおもしろいのかがわからない。腹話術師が不倫の釈明会見に腹話術人形を持ってきて会見の途中途中で人形がツッコミを入れる、記者がそれにつっこむというネタである。しかし何がどうボケになっていてサイトウは何につっこんでいるのかいまいちわからないのである。釈明会見で芸をやるということがすでにおかしいのだからサイトウはそういう観点からつっこんでいる。しかしネタの主眼は何故かふくちゃんのしゃべりそのものに置かれているようだ。だがふくちゃんはあくまで人形で喋っているのは腹話術師なのだからあまり響かない。わかります?? 実はこれはコントとして成立していなくて、見ている人は単にふくちゃんの見た目とか喋り方の音とリズムや雰囲気で笑ってるだけなのではないかと私は睨んでいる。