曇りなき眼で見定めブログ

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ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ拾七・第7章の4節から終りまで(予習編)やたらとエヴァで例える回

 メイク・ビリーブであるぞ。

 ここでは「虚構として成り立つと知ること」と「真なることを虚構において知ること」とか、参加する表象体とそうではない装飾とか、そういう区別が出てくる。

 今回はエヴァの例ばかりでてきます。

「虚構として成り立つと知ること」と「真なることを虚構において知ること」

  これは特に変な話ではない。しかし重要な帰結を導く。なぜ同じ話で何度も新鮮に驚くことができるのか、ということについてである。

 私は『新世紀エヴァンゲリオン』の第拾六話が好きで何度も見ているのだが、見るたびにシンジくんの独断先行作戦無視のシーンで「何してんねん!」と思うのである。そして最後に使徒の体内(?)から初号機が出てくるところで「ヒェ…」となる。私は「シンジくんが独断先行作戦無視する」ことと「初号機が使徒の体内から出てくる」ことが虚構として成り立つことを知っている。しかし見ているときはそれが真であると知らない、というごっこ遊びをしているのである。

 本のなかでは伝統芸能や古典演劇のように誰もが筋を知っているのに何度も再演されるものが例として挙げられている。日本では落語や歌舞伎がそんな感じになっていて、ツウになると話ははじめから知っている。その語り口のほうを楽しむというツウもいようが、しかし話がいつも新鮮に感じられるという点もあるはずだ。

 ただし、本当に毎回新鮮に驚いているのかというと疑問ではある。これはネタバレのありなしとも関わってくるだろう。フィルカルでネタバレ特集があったらしいが読んでいない。読みたし。

参加と観察

「読者が知っていること」というのは曖昧である。今はこの点を理解できる。この言い方は、読者が自分のごっこ遊びの参加者として「知っている」ことと、虚構世界の観察者として知っていることのどちらなのか、曖昧なのである。(虚構世界は、作品世界のこともあるし、読者のごっこ遊び世界のこともある。)言い換えれば、この言い方は、それを読者が知っているということが虚構として成り立つ事柄と、それが虚構として成り立つと読者が知っている事柄との間で、曖昧なのである。(272-273ページ)

 この曖昧さというのは今日のサブカルチャーなんかを考えるうえで本質的なのではないかと思う。『エヴァ』の最終回は謎が謎のまま終ることで有名だが、その謎、例えば「人類補完計画とはなんなのか?」ということはいちおう虚構のなかで窺い知ることはできる。しかしそれは上記のような曖昧さを多分に含んでいるように思う。『エヴァ』という作品についていろいろな情報を調べたからこそそれが判断できているというのは間違いなくそうだし、それは設定とかだけでなく批評みたいなものも含むので。また、シンジくんの心情を読み取ろうとすると庵野監督の心情を読み取ることになってしまったり、自分の心情の吐露になったりする。こうした"考察"であるとか、作品語りを通した自分語りみたいなものとか、そういう文化の先駆者としてエヴァはある。なので例として挙げた次第。

作品にのめり込むというのはどういうことか

 "参加"という現象のしめくくりである。

 なぜ人は虚構を鑑賞したりごっこ遊びをしたりするのか、哲学がそれに完全に答えることなど到底できないが、この本の立場から言えるのは、想像する自分自身が虚構世界のなかにいるということの重要さである。

だが、注目に値することは、想像する人が自分の虚構世界で占める位置こそ、非常に多くのさまざまに異なる事例において、中心となるように見える、ということである。反射的小道具としての想像者自身の役割、ないし自分自身についての想像活動こそ、中心にあるように見えるのだ。(275ページ)

装飾

 装飾は参加を必要としない鑑賞を要請する。ここはちょっと難しい。

 装飾的な表象体というのは確かにある。『エヴァ』の最終話や劇場版や(もうさすがにネタバレしていいだろうけど)『シン・エヴァ』は意味不明な映像が羅列されたりする。それは虚構的真理とはなんの関係もない。ウォルトン先生によると、装飾的な表象体は想像活動を妨害するようなものであるという。『エヴァ』や『シン・エヴァ』はまさにこれを巧みに利用した演出となっている。

 こうした作品では鑑賞者は二つの別個の虚構世界をうまく行き来しているのだという。メタフィクションを盛り込んだ現代の虚構はそれくらい複雑な構造をしていても不思議ではない。