曇りなき眼で見定めブログ

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ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ拾九・第Ⅲ部第8章3節まで(予習編)アニメの美学・現象学へ

 メイク・ビリーブだ!

 第8章のテーマは「描出体(depiction)」である。絵画を中心とした視覚的な表象体のことだが、しかし本書ならではの特徴づけで言語的な表象体との違いを探っている。

描出体とは

 本書では水車小屋のある風景を描いた風景画が例として出てくる。この絵画を見るとき人は、水車小屋やその後ろにいる人などを見ているということも想像している。水車小屋の絵を見るとき、虚構的に水車小屋を見るということも成立しているのである。絵画作品、特に風景画は容易に反射的小道具となる。対して例えば小説内の風景描写は、その文章を読んで想像はしているが、その文章そのものが風景であるとはふつう考えない。

 絵を見るという行為はいろいろな点で現実の物や景色を見ることと似ている。景色を見ながら何かを見つけるということは、絵画を見ながら思いがけない細部を見つけることとけっこう似ているのである。本書に出てこなかったが(あとで出てくるかもしれないが)ブリューゲルの『バベルの塔』はそういう発見に満ちた作品である。このような類似は、絵というのがなんらかの解釈や解読を基本的には必要とせず、「見ればわかる」ものだからである。

 描出体の性質は他にもいろいろと興味深いことが書いてあるが、それよりも気になる点がある、私には。それはアニメをどう考えるか、である。

アニメだとどうか

 アニメーションとアニメは歴史的に分化していて概念的にも違いがあるということは過去に書いている。アニメーションというのは絵を連続で映すことで動いているように見せる技法のことで、アニメというのは静止画を使ったり声を使ったりして生き生きした感じを出す総合的な技法である、というのが私の考え(というか概念工学というか)。

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 本章では例として絵画やイラストやモンタージュ写真や映画や演劇は出てきたが、アニメーションは今のところ出てきていない。いわんやアニメをや。

 映像について述べている箇所を抜き出す。

 演劇と映画の観客は、虚構において観るだけでなく聴いてもいる。(297ページ) 

これは描出体を聴覚的なものも含めるように拡張するという議論である。

 続いて変換(translation)という現象の説明のなかで出てくる。

絵画は三次元の対象たちの並びを二次元の表面に描いている。鉛筆による素描やほとんどの彫刻は、多くの色からなる情報を単色で表現している。運動は静止した媒体に描き出される。パノラマ的な見晴らしが小さな画布*1や舞台に切り縮められる。彫刻は隠退した英雄を実物大より大きく引き延ばす。映画や演劇のように、運動を描くために運動が使用されるときは、時間が縮められたり引き延ばされたりする。音楽的な再現では、自然の音が全音階の音に整理される。(320ページ。太字は引用者)

ここで重要なのは、アニメは運動を描くのに運動を使用していないということである。一枚一枚の絵をその都度描く(という作り方が一般的)。

映画でスローモーションやこま落としを使うと、描かれた出来事のある一定の側面が分かりにくくなる(他方で別の側面が顕わになる)。 低速映像も高速映像も、通常の運動状態なら明瞭に分かる虚構的真理を見つけにくくするのである。……虚構的な事柄を見出す際のこういった難しさは、当然ながら、そういった真理を私たちが見つけることは虚構として成り立たない、ということに変換されるのである。

リミテッド・アニメというのは一般にフル・アニメーションと呼ばれるものよりもコマ数を落している。この引用ではおそらくコマ落しによって動きがブツ切りになって間あいだの情報が落ちるということを言いたいのだと思う。しかし、アニメでは逆にコマを落すことで生き生きとして見えることがある。アニメーションやアニメは動きを使用せず動きのようなものを創造しているだけなので、やりようによってはコマ落しをしたほうが虚構的真理を見つけやすくなるのではなかろうか。

 私として気になるのは、アニメのこうした動きの表現は、ウォルトン先生の批判する規約という考え方で成り立っているのではないか、ということである。

 絵を見ることは物を見ることに、どのようなあり方において、似ているのだろうか。ここでは、絵を見る人と物を観察する人が、それぞれ経験している視覚的感覚作用、ないし現象学的な経験を比較するつもりはない。(この比較は、いったいどうやって絵画の視覚的特徴と事物の視覚的特徴の比較から区別できるのか、明らかではない。この二つの比較は、どちらも結局、絵がどう見えるか物がどう見えるかと比較することになる。)私が関心を持っている類似性は、何が虚構として成り立つのかを絵を見て詳細に調べる過程と、何が真として成り立つのかを現実を見て詳細に調べる過程との間に成り立つ類似性である。つまり、それは絵の世界の視覚的探索と現実世界の視覚的探索の間に成り立つものである。(305ページ) 

この現象学的な比較を是非やるべきで、私が試みているのはそういういことである。アニメを見る際の探索は一般的な映像を見るときや物や出来事を見ることとはかなり仕組みが異なっていると思うので。

*1:ガフの扉が開く…