曇りなき眼で見定めブログ

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Basic Proof Theory 読書記録 其の二 束縛変数の名前の付け替えのやつ

 ロジックを勉強していたら誰もが(?)出くわす束縛変数の名前の付け替えのやつをまとめたいのよ。

 以下のことを書いていて気づいたのだが、"Basic Proof Theory*1"(以下:BPT)には式 expressions や論理式 formulas の定義がない。subformulas の定義はあるので論理式の定義は暗になされているのだろうが、式はどうだろう。論理式を式に含めてよいのかどうか今のところハッキリとはわからない。もうちょっとちゃんと読み進めないと。しかしどうも含めていそうなので、以下では式の例として論理式を使っています。論理式や項 term の総称が式じゃないかなと。

 

 BPSの3ページにこんなお約束が出てくる。

{\mathcal E}{\mathcal E'} が束縛変数の名前のみで異なるならば、これらを同一視する。

 例えば \forall xFx\forall yFy同じということである。ではここで言っている同じとはどういう同じなのか。

 \forall xFx と \forall xFx は見るからに同じであるが、この同じを literal identity といって \forall xFx \equiv \forall xFx と書きましょうというのがBPTのいちばん最初に出てくるお約束のうちのひとつである(2ページ)。\forall xFx\forall yFy同じα同値(α-equivalence)という。literal identity よりもおおらかな同じである*2が、議論をしやすくするためにここまでを同じとしようということである。ある式の束縛変数の名前を付け替えて別の式を作る操作は二項関係とみなせるし同値関係である。α同値を同じとみなすというのことは、我々はα同値による式の同値類およびそれらの集合である商集合に着目するというわけだ。上の例の同値類は \{\forall xFx, \forall yFy, \forall zFz, ...\} となる。ただしアルゴリズムの実行とかそういう立場で考えると名前の付け替えを無視できない、という注意も書かれている。

 この同じを認めると代入の議論がしやすくなる。代入というのは基本的には

式 {\mathcal E} の変数 x に式 {\mathcal E'} を代入するとは、 x の自由出現を {\mathcal E'} で置き換えること。

 なのだが、条件として

{\mathcal E'} 中のどの自由変数も {\mathcal E'} の変数束縛する演算子*3で束縛されてはならない。

もしくは

代入の定義に束縛変数の名前の付け替え操作も加える。

というのが必要となる(このあたりはBPSからの正確な引用ではないです。こちらでかなりイジってます)。式の意味(?)が変ってきてしまうからである。前者の条件が満たされれば後者は必要ないし後者が満たされれば前者は必要ない。しかしBPSの定義では束縛変数の名前の付け替えをしても式は変わらないので、前者の条件を満たすように適当に名前を付け替えればよいわけである。なので一般性を失わず*4代入はいつでも可能。

 例。\forall x(Fx \land Gy)yfx を代入する。しかしこのまま yfx で置き換えてしまうと \forall x(Fx \land Gfx) となり fxx が束縛されてしまって話が違う*5。なので予め束縛変数の名前を付け替えて \forall z(Fz \land Gy) とする。こうしても同じである。これに代入を実行すると \forall z(Fz \land Gfx) となって事なきを得る。

 また、この他の効能として、量化子のすぐ後の変数を量化子の出現ごとに変えられたりとか*6、束縛変数の集合と自由変数の集合を互いに素にできるというのも挙げられている(4ページ)。これらはメタ定理の証明やそれを使った証明の分析をする際に便利であると思われる。前者の例はたとえば \forall xFx \land \forall xGx と \forall xFx \land \forall yGy同じということ。後者の例としては、Fx \land \forall xGx という論理式の束縛変数を見ても自由変数を見てもどちらにも x が入っていてややこしいがこれと同じである Fx \land \forall yGy にすれば束縛変数と自由変数に被りはない、というのが挙げられる。

*1:

*2:何故なら \forall xFx と \forall xFx は literal identity であるうえに α同値でもあるのが、 \forall xFx\forall yFy はα同値ではあるが literal identity ではない。こういうケースがあるので。

*3:「変数束縛をする演算子はこれとこれとこれ」みたいに明記はされていないのですが、おそらく量化子とラムダ演算子と考えておけばよいかと。

*4:これがよくわからないんすよ。

*5:Gfx って見にくいけどBPSノーテーションだとこんな感じです。

*6:冒頭の"式"に対する疑問ですが、ここで量化子の例が挙げられているのでたぶん論理式も含みます。

【アニメ哲学その2】これがアニメ現象学だ(現代現象学の手法でアニメを分析する試み)

 その1はこちら

【アニメ哲学その1】アニメの本質は絵か? 動きか?(あるいは声か?)玉川真吾『PUPARIA』など - 曇りなき眼で見定めブログ

 

 アニメを通して社会とか文化を考える言説は多いが、アニメそのものについて考えるものは驚くほど少ない。これほどアニメ文化・アニメ産業が隆盛を極める日本だが、実は日本人の多くが好きなのは「アニメ」そのものではないのではないかと私は睨んでいる。どちらかというとアイドル声優とかアニソンとかグッズ集めとかコスプレとか二次創作とか、アニメ周辺の文化が好きなのではないか、と。だからこそ私はアニメそれ自体について考えたいんすわ。

 

 

現象学とは

 今回のテーマは現象学である。主に『ワードマップ 現代現象学*1』(以下:『現代現象学』)という本を参照する。現象学フッサール(1859-1938)というという哲学者が創始した哲学である。生没年を見ればわかるとおりフッサールはかなり昔の人だが、その著作はいまなお真剣に読まれている。またフッサールに影響を受けて現象学を発展させたのがハイデガーサルトルレヴィナスメルロ=ポンティといった哲学者たちで、彼らは現代の思想や文化に強い影響を与えている。彼らはドイツやフランスの哲学者だが、近年の現象学分析哲学英米哲学の伝統ともいい感じで交わっているようである。現象学は理論というよりは手法なので、けっこう柔軟に応用が効くのである。『現代現象学』は分析哲学っぽいテーマに現象学でアプローチする感じの本である。なので上記のようなスター哲学者の思想の解説とかはない。「現代現象学」というタイトルの本としてはとても良い。

 私は現象学はアニメの分析に最適な手法だと思う。現象学の手法を用いた藝術論はけっこうあるようだ。『現代現象学』では音楽について論じられている。他にも、現象学者による絵画論や文学論はたくさんあると同書に書かれている。しかし映像論は意外にも少ないようなのだ。調べてもたいしてヒットしない。そしてもちろんアニメ論となるともっと見当らない。だから私がやっちゃうよ。

 アニメ哲学その1記事では、あるものがアニメであるといえる必要十分条件みたいなものを求める感じの議論をした。その条件をなんとなくで本質と呼んでいた。これは概念分析と呼ばれる手法をやったつもりである。概念分析とは何かと訊かれるとよくわからないのだが、その概念がどう使われているかに着目して概念の意味を明らかにしていくという感じである。対して現象学はちょっと異なるアプローチをとる。それは私たちの経験に着目するということである。しかし現象学の意味での経験とはどういうものなのか簡単には説明できない。『現代現象学』では経験という言葉を、対象へのかかわりとか意識経験全般など、かなり柔軟な意味で用いている*2。とりあえず次節で現象学的手法の例を見てみよう。

『現代現象学』の音楽論を見てみよう

 『現代現象学』の第7章1節は「音楽作品の存在論」と題されている。森功次先生である。森先生は分析美学や藝術哲学が専門だが、美学と現象学は分ちがたいものだと述べている。藝術の哲学において藝術の創作や鑑賞という経験の分析が不可欠だからである。

「音楽作品の存在論」の要約

 全体は3節から成っている。その議論を要約してみよう。

 まず第1節は「音楽作品は何でないか」。まず、音楽作品を聴いて評価するという経験において実際には何を評価しているのかを分析している。考えられるのは(A)音そのもの、(B)演奏者の努力や姿勢、(C)聴くことで得られる心地良さ、である。しかしこれらはどれも音楽作品ではない。経験を分析することで、評価という営みにおいて評価されている対象は実は音楽作品ではないというケースがあることがわかる。

 続いて第2節は「音楽作品の特徴」。ここでは存在論でよく登場する分類を使って音楽作品の存在論的特徴を調べている。(1)音楽作品は空間的位置を持たないが時間的位置はありそうである。一般的なモノのように位置を示せるわけではないが、ある音楽作品が存在する以前と以後は分けられる。(2)音楽作品は反復可能である。同じ作品を何度も演奏できるので。(3)聴取可能である。知覚や評価の対象となる。(4)演奏の多様さを受け入れる。少しの音のズレがあったとしてもその時点で別の曲が生れたとは考えられない。

 第3節では形而上学でよくテーマになる同一性条件存続条件を音楽作品について考える。(1)ある音楽作品とある音楽作品が同一であるといえる条件は何か。音の連なり、構造と考えるのが普通だが、先述のとおり演奏ミスも許容する必要があるため「規範的な」音構造と条件をつける必要がある。また、異なる二人の人物が別々でまったく同じ作品を作ってしまう可能性もあるため、作者による創造行為という文脈も加えるべきだろう。(2)ある音楽作品の楽譜やレコードがすべてこの世から無くなったからといって、その作品も無くなるわけではない。これは存在論的依存(ontological dependence)という概念に置き換えて考える。

 同論考では『ワードマップ 現代形而上学*3』(以下:『現代形而上学』)という本も参照せよとある。この本の第7章が「存在依存」で、第8章の「人工物の存在論」では藝術作品についても論じられている*4(「存在依存」というのはexistential dependenceの訳語だが、『現代形而上学』ではこれと「存在論的依存 ontological dependensce」を区別しないとある)。『現代形而上学』第7章によると、存在依存の定義は普通は以下のようになる。

 

 αはβに存在依存する ⇔ 必然的に、αが存在すればβも存在する

 

 この「必然的に」というのがまたややこしい形而上学的問題を引き起こし、論理学専攻の私としてはいろいろ言いたことのある話になるのだが、それはここでは触れずにおく。さて、この条件の右辺は言い換えると「αが存在するのにβが存在しないことは不可能である」となる。こっちの表現のほうがわかりやすいかもしれない。それと『現代形而上学』第8章では、固定的依存類的依存という区別と歴史的依存恒常的依存という区別が以下のように導入される*5(ちょっと文言を変えている)。

 

 

 (固定的依存) αはβに固定的に存在依存する ⇔ 必然的に、αが存在すればこの特定のβも存在する

 (類的依存)  αはβに類的に存在依存する ⇔ 必然的に、αが存在すれば類βに属する何らかのxが少なくとも一つ存在する

 

 (歴史的依存) αはβに歴史的に存在依存する ⇔ 必然的に、αが存在するならば、βはαが存在し始める時点よりも前に、またはその時点と同時に存在する

 (恒常的依存) αはβに恒常的に存在依存する ⇔ 必然的に、αが存在するならば、βはαが存在するすべての時点において存在する

 

 これらを踏まえると音楽作品は、特定の人物の作曲行為に固定的・歴史的に依存し、観賞能力を持つ人々に類的・恒常的に依存し、作曲時の環境に固定的・歴史的に依存し、音構造、楽譜や記録媒体に類的・恒常的に依存する。特定の作者や作曲時の状況に依存するが、それは特定の人物やメディアのために作られるわけではない。また『現代形而上学』では作者や鑑賞者の意図や心の動きを志向的作用と呼んでいる。志向的作用への存在依存を考えることでより細かな議論ができる。作者や受容者の志向的作用に存在依存するというのが人工物の特徴である。

 このような音楽作品の分析はインガルデン(1893-1970)という哲学者が先鞭をつけた。インガルデンフッサールの弟子の現象学者である。また存在論的依存はフッサール契機基づけという考え方に由来する*6

アニメーションの現象学

 この議論にならってアニメーション作品について考えてみよう。

アニメーション作品は何でないか

 アニメーション作品を評価する際に(A)が綺麗とかが良いとかいう。また(B)制作者の頑張りを褒める。そして(C)「泣ける」とか、見ることによる感情の動き、泣くような状態になる気持ち、これが経験される。

 まず(A)について。音楽作品の分析では(A)は音そのものであった。そして音楽作品が音であるは、音が多少ズレても音楽作品がそれであることは変らないということで否定された。しかしアニメーションでは音楽における演奏ごとのズレのようなものがない。ただ、上映あるいは放映あるいは再生される際の環境によって画面の大きさや画質や音質が変るだろう。しかし作品が変るわけではない。よって見る際に現に見ている絵、あるいは聴える音がアニメーション作品というわけではない。

 (B)や(C)もアニメーション作品そのものとは別の経験であろう。

アニメーション作品の特徴

 (1)アニメーション作品は空間的位置を持たないだろう。時間的位置は、音楽作品と同じ理由であると言えそうだ。

 (2)アニメーション作品は反復可能である。ただしそれは音楽作品とは違った手段による。音楽作品は異なる演奏者による演奏を同一作品の反復ととらえることができるが、アニメーションだとこれは何に相当するだろうか。例えば音楽作品と同じように、アニメーション作品は記録媒体や上映・放送されるメディアによらず同じ作品とみなせるだろう。Blu-rayを持っていたり配信サイトに登録していれば、ひとつの作品を何度も見ることができる。しかし演奏というのは、メディアを再生することとは違い、別人が何度も再創造しているともいえる。アニメーションでは、同じ脚本をもとに別人がその後の作業を行っても同じものとはならない。『涼宮ハルヒの憂鬱(2期)』(2009)で、7回に渡って同じ脚本の回が制作・放送されたことがあったが、絵コンテや作画、そして声優の演技は回ごとにかなり異っていた。これは「話は同じだが違う作品」とされるだろう*7。ただし、絵コンテや作画まで同じならば反復しうるといえそうだ。これと(4)とは次節の同一性条件と深く関わってくる。

 (3)アニメーションは目や耳によって知覚可能である。空間的位置を持たないが知覚によって把握されるのである。

 (4)音楽作品は演奏の多様さを許容するがアニメーションはどうだろうか。これについては次節で述べる同一性条件で。

 

アニメーション作品の同一性条件

 上映や放映の形態に依らず作品は同一なのだから、多少の画質や音質の違いは重大ではない。ただし、ディレクターズカットとかリニューアルみたいなものがアニメーションにはある。デジタルリマスターなどでは別作品にはならないだろうが、新作カットを加えたりすると微妙である。リメイクも程度によるだろう。『新世紀エヴァンゲリオン』と「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズは別作品だろうが、『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』と『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊2.0*8』が別作品かどうかは微妙である。

 音楽作品以上に創造の文脈に左右されそうである。またそれだけでなく興行のあり方や作品のファンが形成するコミュニティの文化も重要だろう。しかしそうなるともはや哲学の射程ではない。

アニメーション作品の存在依存

 これが微妙である。何故なら、アニメーション作品は集団で作られ、特定の人物の存在あるいは志向的作用の存在に依存するといいにくいからである。

 観賞能力を持った受容者に類的・恒状的に依存するのは確かである。フィルムやBlu-rayやインターネットサーバなどの記録媒体にも類的・恒状的に依存する。

 しかし制作者と制作者の志向的作用はうまく特定できない。これについてはアニメーションの仕組みを考える必要がある。

作者は誰か

 音楽や絵画や文学は作者を特定しやすいのだが、アニメーションではそうはいかない。まず素朴に考えると監督が作者だと言えそうだがどうだろうか。宮崎アニメや「エヴァンゲリオン」シリーズは「宮崎駿の作品」「庵野秀明の作品」とみなされがちだが、実際の制作は多くのスタッフが携わる。例えば作画という実作業はアニメーターがやるもので、監督みずから描くことはない。しかし駿は自ら作画をチェックして直すしキャラクターやプロップの設定もかなり自分でやっているので「宮崎駿作品」といってもそれほどはずれていないかもしれない。ただ庵野さんはそうでもない。エヴァのSF的な設定の多くは磯光雄さんが作ったらしい。また、庵野さんも一流のアニメーターだが、駿ほど万能なアニメーターではないのであまり作画に介入はしないはずである。

 ここで存在依存を考えてみよう。『風の谷のナウシカ』は原作も宮崎駿であり、駿に固定的・歴史的に存在依存しているだろう。しかし駿だけではない。スタジオジブリ鈴木敏夫さんはどうだろうか。つまり、鈴木さんがいなかったら『風の谷のナウシカ』が存在することは不可能だったのではないか。これも真といえると私は思う。『ナウシカ』の当時はまだジブリはなく、鈴木さんは徳間書店の社員で雑誌「アニメージュ」の編集長だった。『ナウシカ』は鈴木さんの進言によって「アニメージュ」で先行してマンガを連載するという条件で製作が決定されたのだ。『ナウシカ』は高畑先生がプロデューサーをやっている。映画は監督よりもプロデューサーのものだという意見がある。アメリカなんかでは監督よりもプロデューサーの権限のほうが明確に強いらしい。『ナウシカ』に関しては宮崎・鈴木・高畑の三者のうち誰が欠けても成立しえなかっただろうと私は思っている。なので三者に固定的・歴史的に存在依存する。しかし『エヴァ』も同様に庵野さんには固定的・歴史的に存在依存するが、キングレコードの大月プロデューサーにもそうといえるかは微妙かもしれない。

 次にアニメーターを考えてみよう。アニメーションの制作過程におけるアニメーターの役割はその1で詳述しているので見ていただきたい。『風の谷のナウシカ』には多くのアニメーターが参加している。巨神兵のシーンの原画を庵野さんが担当したというのは有名な話かもしれない。しかし、庵野さんが存在しなくても『ナウシカ』という作品は存在しえただろう。つまりアニメーション作品は、アニメーターに歴史的には存在依存するだろうが、固定的には存在すると言えない。アニメーターに類的・歴史的に存在依存するのである。これは例えば美術スタッフであるとかキャストに関しても広範囲で言えることだと思われる。

 ただし、「このキャラクターの声はこの人しかありえない」みたいなパターンもある。これは言葉のうえでそう言っているだけのことが多いだろうが、実際にキャスティングが先行する企画もありうる。また、アニメーターには作品ごとの名物アニメーター的な人がいる場合がある。「ポケットモンスター」シリーズの岩根雅明とか「NARUTO」シリーズの松本憲生さんなんかである。こういう人たちはその作品にとって不可欠なのだろうか。このあたりはまたのちほど。また、アート・アニメーションならばほぼひとりで作ることもある。新海誠さんも最初はそんなだった。

 続いて志向的作用について考えてみよう。アニメーションには特定の作者がいないため作者の意図なるものはバラバラになる、という話である。例えばアニメーターは、ごく短期的な目標を立てて作業しているはずである。多くのアニメーターは自身に割り当てられた仕事をこなすことで精一杯で、作品の完成形が見えているわけではない。つまりその作品を作ろうという志向的作用はここには存在していない。そもそも、アニメーションの制作過程のうち、完成形をイメージして行う部分は実は小さいものと思われる。全工程に携わるのはやはり監督である。ただ、有能な監督にはそれができるだろうが、できない人も多いだろう。しかも実際のところ本当に監督が全工程に携わっているといえるかどうかは微妙である。監督とは別に演出という役職があったり、作画監督や撮影監督や美術監督や音響監督といった役職ごとの責任者もいる。『風の谷のナウシカ』は宮崎駿の志向的作用に固定的・歴史的に存在依存するだろうが、特定のスタッフの志向的作用に対してはそうではない。やはり固定的ではなく類的である。これは「『特定のスタッフ』の志向的作用」に依存しないという意味でもあるしまた「あるスタッフの『特定の志向的作用』」に依存しないという意味でもある。個々のスタッフは「作品を作ろう」という意図を持つ必要はないからである。しかし『現代形而上学』ではこの区別は曖昧だったのでこの議論がいいのかどうかはわからない。

 もうひとつ作者について。これは日本アニメの体質かもしれないが、誰(の志向的作用)にも固定的に存在依存しない作品が実は多い。『ナウシカ』や「エヴァ」は実はかなりレアケースである。マンガやライトノベルやゲームなど原作もののアニメは「この人たちが作らなかったとしても誰かが作っただろう」というものばかりである。『現代形而上学』の例でいうとこうした存在は電話などの発明品に近いことになる。電話はベルが発明しなくても誰かが発明したので(そして実際ベル以前に考えついていた人がいた)。となると、アニメーションはどうしても制作スタッフに類的に依存するものだが優れたアニメは固定的に依存する先がある、ということか。ただし『鬼滅の刃』のように、どう考えても誰かがいずれはアニメ化したであろうけれど、結果的にufotableというスタジオとともに認識されるような作品もある。これは『アニメ・鬼滅の刃』という作品にufotableという存在は不可欠だったと言えるケースかもしれない。こういうのはのちほどまた。

アニメーションの技法とアニメの現象学

 ちょっと話題を変える。その1ではアニメーションの原理についても述べた。アニメーションは絵を連続して写すことで動いているように見せる技法である。またその映像作品。そこではアニメーションとアニメの違いについても考えてみた。かなり偏った視点からの分類だろうが、アニメーションは動きを重視するのに対しアニメは静止画を効果的に使う、ということになった。

 もうちょっと用語を追加しておく。映像というのが1秒間に24フレームの画像を連続して映すものであるとしたら、アニメーションにおいても1秒間あたりに24枚の絵を描けば実写映像と同じように滑らかに動くこととなる。このような方針は1コマ作画と呼ばれる。これの半分の1秒間あたり12枚でもかなり滑らかに見える。これは2コマ作画という。フルアニメーションというのはだいたい1コマないし2コマ作画のアニメーションである。日本のアニメの多くは3コマ作画、すなわち1秒間あたり8枚を基本としている。ただし作画に力を入れているアニメはもっと多くなるし、通常のテレビアニメはもっと少ない。また、後述するように静止画を多用するアニメもある。こうした日本アニメの手法はリミテッドアニメーションと呼ばれる。

アニメ作画の現象学

 ではアニメーションとアニメの違いは動きのあるなしなのかというとそうでもない。むしろアニメはアニメーションとは違った技法で動きを演出しているといったほうがよい。アニメーターの様々な技法を見てみよう。

黄瀬和哉と『機動警察パトレイバー the Movie

 黄瀬和哉さんというのはプロダクションIGのアニメーターである(監督もやっている)。押井守監督は彼の手腕をかなり気に入っているようで、あちこちのインタビューで称賛している*9。押井さんの監督作品である『機動警察パトレイバー the Movie*10』(1989)(以下:パト1)はかなりの部分が黄瀬さんのおかげで成り立っているらしい(この場合『パト1』は黄瀬さんに存在依存しているといえるかどうかは後述します。)。最近でた『押井守の映画50年50本*11』で押井さんは『パト1』における黄瀬さんの功績をかなり詳細に語っていた*12。同書は押井さんが50年間で観てきた映画を1年1本ずつ紹介して語っていくという内容で、出﨑統監督の『あしたのジョー2』の章で出﨑演出の影響とともに『パト1』の話をしている。ちなみに押井さんはアニメーター出身ではないので作画の実際的な技術には疎いようである。

 出﨑演出についてはその1でも解説したしこのあと節を改めてまた書く。出﨑さんはリミテッドアニメーションの可能性を追求した演出家で、作画枚数が少なくても撮影や演出でダイナミックでドラマチックな映像が作れることを示した、ということである。押井さんは、むしろ作画枚数が少ないほうがダイナミックな映像になるという例として『パト1』の経験をあげている。押井さんはタツノコプロの出身なのだが、劇場作品は2コマ作画で作るという常識があり、それになんとなく従って『パト1』を作っていた。黄瀬さんは作画監督として、(確か)やや遅れて制作に参加したらしい。そして押井さんに「3コマ作画にしたほうがダイナミックな映像になる」と提案した。この場合の3コマ作画は手抜きというか楽をしようということではない。2コマで進めていたものを直さなければならないので作業は増えるのである。押井さんは初めは疑っていたが、出来てくる映像を見て黄瀬さんの手腕に驚いたらしい。それくらい3コマ作画の効果は絶大だったのである。

磯光雄のフル3コマ作画

 磯光雄さんは『電脳コイル*13』(2007)の監督として有名だが、アニメーターとしても超一流である。磯さんは上手いだけでなく新たな作画理論というか概念を次々と創出しており、それが90年代の作画界に大きな影響を与えたらしい。以下の井上俊之さん(以下:井上老師)のインタビューを見るとその衝撃の深さがよくわかる。

www.style.fm

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このインタビューを見ると、一流のアニメーターは哲学者以上に哲学的に作画を考えているなと感じる。

 フル3コマ作画というのは磯さんが考案した技法ないし概念である。3コマ作画でフルアニメーションのような動きを実現するという意味であるが、具体的には、すべてを原画で描くということになる。原画と動画の違いはその1で解説した。さらに付け加えると、原画というのは動きのポイントとなるタイミングの絵を描くことだが、原画と原画の間を埋めることで動きが出る。この作業およびその絵を中割りという。動画の役割はこの中割りを描くことである。フル3コマは中割りを必要としない作画ということになる。これは中割りを原画マンが描くということではない。描くうえで原画と中割りという区別をしないということである。井上老師曰く

今は、極端に言えば、中割りなど存在しないのだ、という方向になりつつあるかな。人間の動きを再現するのに、中割りなど存在するはずがない、と(笑)。

こういうのは描く際よりは何を描くべきかを見極める際に差が出るのだと思う。人間の動作にはポイントとなる部分とそうでない部分という差はない、ということを念頭に動きをイメージして描くのである。また井上老師はフルかリミテッドかというのは枚数の違いには依らないということを断言している。フルとリミテッドは動かし方の志向の問題であって枚数の方針ではない。2コマでも無意味に中割りをしているだけではフルとはいえないし、2コマですべて原画で描いてもフル3コマと比べてそれほどの効果の上乗せは期待できないようである。

3コマ作画の現象学

 ここからは自論である。

 ちょっと出典は示せないので不正確な話です。確か井上老師がアニメスタイルのイベントで仰っていたと思うのだが、磯作画の魅力は静止画である絵と絵を脳内で繋ぐ快感にあるという。

 日本のアニメは動きがカクカクしている。これはディズニー作品を見慣れているとよりそう感じられるだろう。これをよく考えてみたい。1コマ作画や2コマ作画はが滑らかに見えるのは、おそらく人間の視覚では捉えきれない速さで絵が流れていくからだろう。イヌの目にはチカチカして見えると聴いたことがある。3コマやリミテッドアニメがカクカクして見えるのは、人間の目にもギリギリ一枚一枚が認識できてしまうからであろう。しかしこれが劣っているわけではないということはここまで読んでこられた方にはわかると思う。黄瀬さんや磯さんは、人間のそうした知覚を逆に利用しているのである。

  なお、作画に詳しくない人がよく「ヌルヌル動く」というが、ここまでの議論でわかるとおりこれは褒め言葉ではない。注意されたし。むしろヌルヌルを拒否する方向に進化したのがアニメの作画である。また枚数の多さを褒める傾向もあるのだが、これも同様の理由で間違っている。

出﨑アニメにおける静止画

 カクカクしているどころか、静止画を巧みに使う演出がアニメにはある。その代表格が出﨑統の演出である。例として『あしたのジョー*14』(1970-1971)のオープニング映像を見てみる。ふたつ付け加えておくことがある。このオープニング映像の演出が出﨑さん自身なのか私は知らない。ただ、出﨑テイストは出ている。また、しこのころはまだ、いわゆる出﨑演出とされる一連の手法は確立していない。

 ドドンッチャ〜ンというイントロののち「サンドバッグに〜」という歌が始まる。ここではこのイントロの部分に着目したい。主人公の矢吹丈(以下:ジョー)の胸から上が映され、徐々に顔に寄っていく。しまいに画面はジョーの右目を中心としたものとなりフェードアウト、そしてタイトルロゴが出て「サンドバッグに〜」が始まる。ジョーの憂いを帯びた表情が印象的で、原作でも謎のままであったジョーの過酷な生い立ちを伺わせる。

 さて、この間、一切の動きがない。カメラが寄っていくという撮影上の効果はあるが、作画による動きはない。一枚しか絵が描かれていないのである。しかし「矢吹丈の絵にカメラが寄っていっている」のではなく、あくまで「矢吹丈という人物にカメラが寄っていっている」ように見える。つまり絵を映したものではなくアニメという映像作品にちゃんと見えるのだ。アンドレイ・タルコフスキイ監督の『アンドレイ・ルブリョフ*15』(1971)という映画作品がある。実在するイコン画家の伝記映画である。この作品のラストで実際のルブリョフのイコンが次々と映されるが、それはあくまで「イコン画というもの」を映している。ジョーはどうやらこれとは違う、という話である。何故だろうか。

 やはり文脈がそうさせるように思える。つまり「これは絵です」という説明がない。あるいは絵の外の情報がない。額縁や、それを描いている人や撮影している人は画面には映らない。これが「これは絵だ」という意識を弱める、あるいはそれ以上の経験をもたらすものと思われる。例えば絵画や写真を見るときには、描かれているものや写っているものを見ている意識とともに「これは絵画だ」「これは写真だ」ということも理解している。こうした経験は像意識といい、フッサール以来現象学で盛んに論じられているらしい*16。ジョーの絵を見る際に人は、「これはジョーだ」と「これは絵だ」という意識(あるいは無意識)とともに「これはアニメだ」という理解をする。すなわち一枚の絵ではなくカメラの寄りと音楽も含めた映像作品ということを理解しているのだ。出﨑演出はこのアニメ的な像意識をうまく利用しているものと思われる。

アニメーションとアニメの現象学的な違い

 まとめ。

 アニメーションは絵を動かす技法であった。つまり、絵だったものが制作工程で映像に変る。対してアニメは、完成品を見ても「絵が動いている」「絵である」という感覚が残る。映像であるだけでなく絵でもあると認識される余地が大きいのだ。これは作画枚数が多すぎると生じない現象である。日本アニメのアニメーターや演出家の様々な工夫は、作画枚数に制限があるからというネガティブな理由によるものだけでなく、アニメ特有の現象を活かしたものでもある。

作画オタクの現象学

 受容者の志向的作用にもちょっと考えるべき点が残っている。

 特殊な受容の例として、作画オタクと呼ばれる人たちについて考えてみよう。アニメの作画に対してマニアックな興味を示す人のことである。私もけっこう作画が好きだが、ガチの作画オタクの人らを見ると私なんぞまだまだである。

 ひとつ注意点を述べておく。アニメの作画には原画と動画という工程があるということはその1と前章で既に述べた。作画オタクが注目するのは主に原画の仕事である。作画という工程は原画がメインで動画は補助的な役割なので、作画が良いとされるシーンやカットは原画の功績であることが大半である。しかし「作画の良いシーン」を作画しているのは原画マンだけではないということは注意すべきである。動画マンが中割りをしているので。

うつのみや理と『御先祖様万々歳!』

 まず例として取り上げるのは『御先祖様万々歳!*17』(1989-1990)というOVA作品である。これは原作・監督・脚本が押井守なので「押井作品」という色合いが強い。しかし作画好きの間では、作画監督を務めたうつのみや理(当時はうつのみやさとる)の画期的な作画が有名である*18。さて、本作は押井守に固定的・歴史的に存在依存することは間違いない。ではうつのみやさんに対してもそうだろうか? おそらくうつのみやさんが存在しなくてもこの作品は存在しえたのではないかと思う。しかし、受容者を作画オタクとすると、すなわち作画オタクの「作画を見てやる」という特殊な志向的作用に類的・恒状的に存在依存するとすれば、うつのみやさんにも固定的・歴史的に存在依存するだろう。何故なら受容者はうつのみやさんの作画自体を楽しみにしているのだから。となるとここでいわれているのは『御先祖様万々歳!』という作品ではなく「『御先祖様万々歳!』におけるうつのみや理の作画」という作品になるだろうか。

松本憲生の『NARUTO』作画

 作画オタクは、あるテレビシリーズの特定の回であるとか、さらにその特定のカットに着目することがある。有名なのは『NARUTO』の第30話「蘇れ写輪眼!必殺・火遁龍火の術」である。この回の前半の戦闘シーンは松本憲生というアニメーターの手腕が発揮されていることで名高い。もちろん『NARUTO』は大ヒット漫画が原作で、松本さんがいなくても『NARUTO』というシリーズの第30話という回は存在したはずだ。しかし「『NARUTO』第30話の前半の戦闘シーン」をひとつの作品として見ると、これは松本憲生さんに固定的・歴史的に存在依存するだろう。その際、作品の成立に作画オタクの志向的作用が関わっていること(存在依存していること)が条件である。これは固有名や種名辞と様相の議論なんかも関わってきそうでけっこう哲学的に興味深いのではなかろうか。

 前にちょっと触れた『鬼滅の刃』とufotableもこれに似たケースだろう。

オタクってこういうことでしょ

 制作者の意図せざるディテールに注目するというのはすごくオタク的で、そういうのを大事にするのがアニメ文化なのだと思う。そうして育った人がプロになって、さらに自分の理論を追求したりマニアにしかわからないネタを仕込んだりもする。なので「意図せざる」というのはあくまで例えば『御先祖様万々歳!』の押井さんのような人は、であって、うつのみやさんはあきらかに「こういう作画をしよう」という志向的作用をもって作っているのだ。

 声優オタクにもこの傾向があるはずなので、声優好きの人に考えてもらいたいなあ。

全体の雑なまとめ

 現象学はおもしろい! アニメは深い!

*1:

現代現象学―経験から始める哲学入門 (ワードマップ)

現代現象学―経験から始める哲学入門 (ワードマップ)

  • 発売日: 2017/08/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

*2:同書第1章4節を参照。

*3: 

*4:この第7, 8章を書かれた倉田剛先生は『現代存在論講義』Ⅰ・Ⅱという本も書いています。

現代存在論講義I—ファンダメンタルズ

現代存在論講義I—ファンダメンタルズ

  • 作者:倉田剛
  • 発売日: 2017/04/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
現代存在論講義II 物質的対象・種・虚構

現代存在論講義II 物質的対象・種・虚構

  • 作者:倉田 剛
  • 発売日: 2017/10/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

現代分析哲学存在論の基本のだいたいを網羅した素晴しい本である。この本についてはこちら→倉田剛『現代存在論講義』読書メモ - 曇りなき眼で見定めブログ。この本でも存在依存と人工物の存在論については『現代形而上学』を参照せよと書かれているのでどちらもよむとちょうどよい。

*5:こういう議論はトマソンという哲学者による。

*6:これらはフッサールの『論理学研究』という本に出てきます。インガルデンの研究はこの本を発展させたものであると『現代形而上学』の倉田先生のコラムに書いてあります。現象学分析哲学の起源のひとつで不可分だというのが倉田先生の研究テーマのようです。分析哲学の形式的な議論が好きな私にも現象学はけっこう楽しいのはそういう理由でしょうな。

*7:テレビシリーズの場合、各話をそれぞれひとつの作品とみなしてよいのかどうかは微妙ですけどね。

*8:サウンドをリニューアルしてCGを作り直したもの。声優も一部で交代しています。

*9:ただし、一時期彼らは仲違いしていたようです。ちなみに押井さんはイヌ派だけど黄瀬さんはネコ派だとか。

*10:

機動警察パトレイバー 劇場版 [Blu-ray]

機動警察パトレイバー 劇場版 [Blu-ray]

  • 発売日: 2008/07/25
  • メディア: Blu-ray
 

*11:

押井守の映画50年50本 (立東舎)

押井守の映画50年50本 (立東舎)

  • 作者:押井 守
  • 発売日: 2020/08/12
  • メディア: 単行本
 

*12:ちょっと同書が手元にないので記憶で書きます。

*13:

電脳コイル Blu-ray Disc Box

電脳コイル Blu-ray Disc Box

  • 発売日: 2011/11/25
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*14:

第1話「あれが野獣の眼だ!」

第1話「あれが野獣の眼だ!」

  • 発売日: 2013/11/26
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*15:

アンドレイ・ルブリョフ Blu-ray

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  • 発売日: 2013/12/20
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*16:『現代現象学』50ページ。

*17:

御先祖様万々歳! Vol.1 [DVD]

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  • 発売日: 2001/12/07
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*18:詳しくはアニメスタイルのインタビューを参照→WEBアニメスタイル_アニメの作画を語ろう

【アニメ哲学その1】アニメの本質は絵か? 動きか?(あるいは声か?)玉川真吾『PUPARIA』など

 これは聴き捨てならん。私はアニメは絵である前に動き、すなわち映像だと思っている。 アニメの本質は絵ではなく動きである、と。「どこで止めても絵として成立している」というのはアニメに対する褒め言葉として不適切であると私は思う。ちょっとこのへんを題材に私のアニメ哲学を書きますよ。

「作画」とは何か?

 作画の功績と撮影の功績を混同している人もよく見られるが*1、やはり「作画が良い」と「絵が綺麗」を同じ意味で使っている人は多い。しかしアニメ用語としての「作画」はそういうものではないようだ。

 アニメ用語では作画というのは原画と動画の総称として使われる。原画を描く人は原画マンといい、動画を描く人は動画マンという。原画マンと動画マンを合わせてアニメーターという。原画と動画の違いはちょっとややこしいので割愛する。アニメーターの仕事は主に、キャラクターやメカや炎など、動くものの絵を描くことである。絵はそれだけでは動かない。何枚も描いて連続で映すことで動いているように見せる。これがアニメーションの原理である。アニメーターというのは、連続させることで動いているように見えるような絵が描ける、という特殊技能を持った人なのである。

 ちょっと言語分析みたいなことをしてみよう。私の観察では、プロのアニメーター*2は「絵」と「作画」をまったく別の言葉として使う。「作画は上手いけど絵は下手」のような表現も成立する。これはつまり「絵を動かす技術はあるけどデッサンやイラスト的なのは下手」という意味である。しかし一般のアニメ好きやマンガ好きは作画という言葉を「絵を描く作業」あるいは「絵のスタイル」というような意味で使っているようである。前者の使用例は「作画した人」などで、後者は「作画変わった?」みたいなケースである。両者の中間くらいに「作画がおかしい」という言い回しが入ってくるかと思う。これはマンガ制作の用語である「作画」がアニメ用語の「作画」と混同されているから、というか分けずに使われているからだろう。

アニメの本質は絵ではなく「作画」である、と思いたい

 あんまりこういう議論は推奨されないのだが、アニメという語の語源を考えてみよう。アニメはアニメーションの略語である。animationというのはもともとラテン語で、アニマ(anima)すなわち生命や魂を吹き込むという意味である。これは静止した絵を何枚も描いて動かすという営みをうまく言い表しているように思える。animaというのはanimalの語源でもある*3。昔のディズニーや手塚治虫東映動画がやたらと動物ものの作品を作っていたのも本質に迫っている感じがする。

 しかしこういう議論はあまり推奨されないと書いた。なぜ推奨されないのかというと、語源がそうだからといってそうでなければならないということはないからである。例えば経済。英語ではeconomyというが、これはギリシア語のオイコノミア(οικονομια)に由来する。オイコス(οικος)が「家」という意味で、オイコノミアは「家政」と言ったほうが近いようである。しかしだからといって経済の本質は家政にあり、というわけではなかろう。そのへんを考慮して「経世済民」略して「経済」といううまい訳語がある。

 では言葉ではなくアニメーションという概念そのものを分析してみよう。絵のないアニメーションはあるが動きのないアニメーションはない。私にはこのように思われるのであるが、どうだろうか。パペットアニメーションというのは欧米では非常に多い。日本では少ないが、いま「PUIPUI モルカー」が大人気である。3DCGアニメも絵といえるかどうか微妙である。これは、アニメーションは絵かどうかが重要ではないということの証拠であるように思われる。アニメーションというのは、動いているものを撮影するのではなく技術を駆使して動いているように見せるということ、これが真理ではなかろうか。

 アニメーターは、動かしたときにどう見えるかを計算して描く。なので、止めたらどう見えるかは関係ない。これは積極的に主張する意義がある。ネット上でよく「作画崩壊」という言葉が使われる。スケジュールなどの都合で作画の質が低くなることはあるのだが、静止画を抜き出して「作画がおかしい」というバッシングが起こることがある。これはナンセンスである。むしろ、一枚一枚の絵はデッサンが狂っているとしても動かすと自然に見えるというのがアニメーターの技能である。

 また、私は『鬼滅の刃 無限列車編』に批判的なのだが*4、同作はアクションの合間にわざわざキャラクターが静止して決めポーズみたいなのをとったりする。これはマンガの絵をアニメ上で再現しているのだろうが、アニメーションとして本末転倒に思える。動きを描くメディアであるアニメでアクションをやっているのにわざわざ止まるのだから。

アニメの本質ってもしかして絵なのか?

 というような前節の議論には反例がある。つまり、動きのないアニメというものある。しかしそれほどドンピシャの例があるわけではなく、演出として静止画を効果的に活かしたものしか私は知らない。これを見ていこう。

 さて、典型的なのが『哀しみのベラドンナ*5』(1973)である。これはアングラというか前衛的なアニメ作品で、基本的に幻覚的なシーンに動きをつけて現実的なシーンを静止画で描くという演出がとられている*6

 これは極端な例だが、静止画を効果的に使うということであれば普通に行われている。いわゆる「止め絵」技法を多用することで有名な演出家は出﨑統(1943-2011)である。『ベラドンナ』を制作した虫プロの出身である。虫プロというのは手塚治虫を中心としたアニメスタジオで、日本初の長編テレビアニメシリーズである『鉄腕アトム』を制作した*7。その際に製作費を安くしたり早く仕上げたりするために様々な省略技法が、というか手抜きが行われたのは有名な話である。これは当時劇場作品を中心に作っていた東映動画の手法とは対照的であった。特に違うのは作画枚数である。たくさん絵を描いて1秒あたりに映る絵の枚数が多いと滑らかに動いて見える。東映動画や海外の大作アニメはこのような方針で作っていて、これをフルアニメーションという。対して虫プロはこの枚数が非常に少ない。こういうのをリミテッドアニメーションという。虫プロ流のアニメは「電気紙芝居」と揶揄されることもあったとか。しかし出﨑さんの演出は、編集を工夫したり静止画にハーモニーという処理をほどこしたりして劇的な効果を生むものだった。東映動画出身のスタッフも次第にテレビアニメに多く参加するようになってリミテッドアニメーションに順応していき、フルアニメーションの伝統とリミテッドアニメーションの演出技法が複雑に絡まり合ったものが日本のアニメの特徴となった。

 ここでひとつの注意点がある。しかもこれはかなり重大な注意点である。「アニメーション」と「アニメ」は別の概念なのではないか、ということである。アニメーション(animation)というのは英語だが、アニメ(anime)は日本語である。近年は日本のアニメを指す語として英語圏でanimeという言葉が使われるくらいである。つまりアニメーションとアニメは異なる文化的背景や伝統を持った別概念と考えたほうがよさそうだ。

 つまり、アニメーションは動きを本質とし、アニメは動きに加えて演出上で静止画を巧みに利用するもの、と分けて定義してしまえばよいのではないか。東映動画出身のアニメ作家で代表的な人物はジブリ高畑勲宮崎駿である。発言を見てみるに、高畑先生や駿は「アニメ」という言葉は使っていないようである。彼らはあくまで「アニメーション」の監督なのだ。『哀しみのベラドンナ』は「アニメロマネスク」という新しいジャンルと銘打った作品だった。けっこうエロシーンの多い作品なので大人向けということを表した言葉なのだが、浸透はしなかった。まあ伝統的なアニメーションとは違うということは伝わってくる。そして最初の玉川真吾さんのツイートも「アニメ」とは書いているが「アニメーション」とは書いていない。

 また、当然アニメの絵には作画以外にも美術とか撮影とか様々な要素があり、作画だけを特別視するのは独善的かもしれない。

羅小黒戦記を観よ

 ただし、いかにもアニメっぽいけれども動きを重視した作品だってもちろんある。当ブログが激推ししている「羅小黒戦記」なんかがそうである。

 羅小黒戦記は手描き2Dアニメであり、中国の作品だが出てくるキャラクターのデザインや漫符表現なんかは非常に日本アニメっぽい。しかしダイナミックかつ繊細な動きでアクションや日常動作が描かれている。その作画はフルアニメーション的ではなく、洗練されていてメリハリがある。スタッフはかなり日本のアニメの作画を研究しているものと思われる。

 すごくアニメ的なキャラクターとか書くと、アニメの本質ってキャラクターなのかもしれないという感じもしてくる。しかしキャラクターは抽象的な対象だが絵や作画や次節の声は時空的な実体を持つものなのでカテゴリーが違うかなと思う。なので今回の議論とはまた別ということにしておこう。とにかく、アニメ的なキャラクターが素晴しい作画によって縦横無尽に動き回る。それがすごく楽しい。ほら、やっぱりアニメにおいても動きって大事じゃないか、と思ったのである。だから私は羅小黒戦記が好きだ。私にとって理想のアニメなのである。

(声の重要性)

(ちょっと脇道に逸れるが、アニメにおいては声優の声も重要である。これについても書いておく。)

 アニメオタクの多くが作画よりも声優に興味を持つのが不思議だとつねづね思っている。ふつう(広い意味での)絵が好きだからアニメが好きになるのだと思っていたがそうでもないのだろうか。アニメーターは表には出てこないけれど声優はタレント活動もするし情報が豊富なので、そうならざるをえないのはわかる。しかし敢えて世に出ていない情報を追求するのが楽しいのではないか。

 とか書くと私が作画オタクで声優を蔑視しているみたいだがそんなことはない。そもそも私はそんなに作画に詳しいわけでもない。なんなら声優の声が好きであればこそ、あんまり表に出てきてほしくないと思うタイプの人間かもしれない。まあそんなこともないか。とにかく私の声優観はアンビバレントなもので、自分でもあんまりよくわからないのでちょっと横においておく。

 アニメーションにとって動きは本質的だがアニメにとってはそうでもないのかも、というのが前節の議論であった。しかし声はさすがにどちらにとっても本質的ではないのではないか。声のないアニメーションはいくらでもある。アニメーションをアニメと分けるとしても、声のないアニメは僅かながらも確実にある。ただし声のないアニメはけっこう異端ではあるだろう。

 ところが別の論点もある。コミックスの付録なんかでドラマCDというのがよくある。あれはすごくアニメっぽい。絵も動きも何もないのに、である。これはかなり興味深い。やはりアニメにおいてはキャラクターが重要で、しかもキャラクター性には声がかなり寄与するのである。ドラえもんなんかは大山のぶ代さんの声のイメージがかなり強く、水田わさびさんに代ったことでキャラクター性そのものが変った感じがある。

 というわけで、声優の重要性もアニメーションとアニメを分ける大きな要素と考えられる。

問題の『PUPARIA』の感想

 最初のツイートの主は玉川真吾さんというアニメ作家の方で、自身の『PUPARIA』という自主制作短編作品についてのツイートである。『PUPARIA』は私の思う理想のアニメと全く反する思想で作られている。絵は綺麗だし音楽とも合っているが、動きはとても少ないのである。

 しかし。

 この作品はとても良い。美しくて、幻想的というか幻惑的で、本当に素晴しい作品だと思う。良いものは良い。良いものは認めざるをえない。

 玉川さんはサンライズのアニメーターだったが独立して自主制作を始めたらしい。

 本作を見て学んだことがいろいろある。ズームをすることで遠景と近景の見え方に微妙なズレが生じたりとか*8、ピントが変ったりとか、カメラが移動して背景が動いたりとか、本作にはそういうのがけっこうある。絵に映像的な効果を加えていくことがアニメだとしたら、これこそ純粋なアニメなのかもしれない。となるとベースとなる絵が最重要であろう。動きが大事だ、というのは教条的な考えにすぎないのかもしれない。あとやっぱりアニメ的なかっこいいキャラクターが効いている。アニメは深い。

 あと、本作はフツーに動きもけっこう良い。

 三分という非常に短い作品でありながら、かなりアニメ先入観を揺さぶる良いアニメ体験であった。

 YouTubeで公開されているので是非ご覧ください。


PUPARIA

結論

「本質は何か?」みたいな議論は不毛なのでやめましょう。自分の信念に則って良いと思うものを自由に作ったり観たりすればよいのです。

 ただし、本質などという仰々しい言葉遣いはやめて、もっと適切な問いの立て方をすれば本当に哲学っぽい議論ができそうである。こういう考察は楽しいので、今後もっと哲学の議論を援用してアニメ哲学を構築していきます。「その2」は現象学を扱う予定です。

*1:撮影というのは、アニメーターや美術スタッフなど各部署で描いた絵をコンピュータに取り込んで映像にする工程です。昔は実際にセルや絵をカメラで撮影していたのでこう呼ばれます。近年では光やピントやブレなど様々な効果を付け足して画面をゴージャスにすることが重要な仕事となっています。新海誠作品や京都アニメーションufotableはこの撮影の技術が優れているのでパッと見て綺麗な絵だと思えるのです。

*2:私はインタビューやイベントでしかアニメーターの意見を聴くことができないので、そういうところに頻繁に登場するような一流の人に限られるかもしれません。

*3:語源というか語根かな。

*4:

【感想】「えんとつ町のプペル」と「鬼滅の刃 無限列車編」と「羅小黒戦記(中国語音声・日本語字幕)」を観てきたぞ! - 曇りなき眼で見定めブログ

*5:

哀しみのベラドンナ [DVD]

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*6:そのように言われているが、実際それほどこの法則を守っているわけではない。

*7:『アトム』の何が日本初なのかを正確に言おうとすると難しいようです。

*8:こういうのなんていうのかわかりませんが。

将棋の独特な言い回し集 其の二

 其の一はこちら → 将棋の独特な言い回し集 其の一 - 曇りなき眼で見定めブログ

 

「場合によっては」

 これは本当によく聴く。具体的な手順は定かではないが、狙いとして見えている手順を示すときに「場合によってはこういう手もありますね〜」みたいに言う。

 

「うっかりした」

 其の一でもよく出てきた省略表現である。「うっかり手を見落した」みたいなことを言う際に単に「うっかりした」と言いがち。

 

「いやー」

 プロ棋士が対局中に「いやー」と声を漏らすことがよくある。しかも負けているほうではなく勝っているほうがいうことも多い。

 

「そっか…」

 これも対局中の棋士がよく漏らすやつ。羽生さんがけっこうよく言うイメージがある。羽生さんのような猛者が「そっか…」とか言ったら対局者はビビるだろう。

 

「いやーひどい」

 ミスをして負けた人は終局後に「いやーひどい」と言うことが多い。この「ひどい」という言い回しはすごく将棋の独特な言語感覚だと私は思う。

 

「〇〇しておくのが冷静か…」

 実況とか解説でよくある言い回し。これも省略表現で「〇〇という手順が冷静で良い指し回しですかね」みたいな意味である。

【論理学は役に立つ】人文系の大学新入生へ─論理学のすすめ─

 春ですね。大学新入生の皆さん、合格およびご入学おめでとうございます。いや〜大学って本当にいいもんですね。そんな私は大学院生です。専攻は哲学。哲学といってもいろいろあって、そのなかでも論理学を専攻します。本記事は主に人文系の大学新入生の方むけに論理学を宣伝するものです。新入生じゃなくても論理学に興味があるけどよく知らない人にも。

論理学とは?

 入学する大学のシラバスがネットか冊子かで公開されていたら見てみていただきたい。「論理学」という科目があったら幸運である。大学によっては論理学を教えられる先生がいなかったりする。実際、多くの大学では他の大学の先生や非常勤の先生で論理学が専門の人を招いて開講している。なので、その大学の先生がそのまま論理学の講義を担当していたらなお幸運である。論理学に興味を持ったらその先も教えていただけるので。さらに幸運な方は、その先生が論理学の単なるユーザーではなく論理学そのものの研究をしているだろう。たとえば英語の先生でも、英語を使った読み書きに習熟しているのみの人よりも英語という言語そのものの研究が専門の人のほうが知識が深い。論理学にもそういう事情がある。

 さて論理学とは何か? 高校の教科でいえば、数学の単元で「集合と論理」というのがあったかと思う。命題とか必要十分条件とか。あれの延長である。大学レベルではもっといろいろな概念や記号が増えて、「自然演繹」とか「完全性定理」とかカッコよさげな言葉が登場する(有名な不完全性定理というのは入門段階ではどういう定理なのか理解するのも苦労するレベルのやや発展的な定理)。

 しかし私の専攻である哲学というのは主に文学部で扱われる学問である。その哲学のいちジャンルである論理学が数学の延長というのは変に思われるかもしれない。でもこれこそ私が論理学をオススメする理由なのである。論理学は、いわゆる理系/文系の"はざま"に位置する学問である。事実、文学部だけでなく理学部数学科や工学系の情報学科でも論理学が開講されているところは多い。その場合は「数学基礎論」もしくは「数理論理学」という名前になっているかもしれない。文学部の科目なのに数学科や情報学科でやるようなことができるというお得感が論理学の魅力だと、私は本気で信じている*1

ちょっと難しい話(飛ばしてけっこう)

 なにゆえ論理学はこのような"はざま"の学問となったのか? 歴史的には論理学は、哲学に関心のある数学者が始めたものなのである。論理学の歴史の初期の人物であるラッセルやウィトゲンシュタイン*2は高校の倫理にも名前が出てくるかと思う。彼らに影響を与えた人物としてフレーゲという人もいる。こうした人々は19世紀末から20世紀初頭に活躍した。フレーゲは基本的に数学者で、ラッセルは最初は数学者で全体的には数学と哲学の二刀流みたいな人だった。ウィトゲンシュタインは数学者としての業績はないがもともと工学を学んでいた。それ以降ヒルベルトゲーデルやゲンツェンといった哲学マインドを持った数学者が発展させ、今日の論理学が確立した。

 彼らの研究の関心というのはこういうものである。数学では論理的な議論をする。これは高校数学でやったような意味での論理である。それを観察してみると、数学の論理には構造やパターンがあることがわかる。つまり数学の議論や証明には構造やパターンがあるのである。構造やパターンがあるということは、それ自体が数学を使って研究できる。数学の議論や証明そのものを記号に置き換えて数学的に研究する、これが現代の論理学という分野である*3

 というわけで「数学をやるとき、我々は実際のところ何をやっているのか?」「数学的における推論や証明とは何なのか?」「証明に理論的限界はあるのか」みたいななんとなく哲学っぽいテーマを扱いつつもあくまで手法は数学である、という微妙な立ち位置の学問である論理学が誕生した。なお、そんな現代論理学の手法がさらに他の哲学的なテーマに応用されてもいる。

形式的な議論

 数学の知識は大事である。というか、あるに越したことはない。しかしがっつり数学を勉強する暇は人文系の学生さんにはなかろうと思う。だったら! 論理学がオススメである。

 大学レベルの数学の教科書は、色々な概念を記号と論理を使って厳密に定義してから話を進める。そういうようにできている。そうすることで概念の使用範囲が明確になって先入観をなくすことができる。こういうのを形式的な議論*4といったりする*5。論理学を勉強するメリットは、この形式的な議論への抵抗がなくなることである。これが身につくと、例えばプログラミングやデータ科学を勉強する必要が出てきたときに役に立つはずだし、人文科学の勉強や研究にもきっと良い影響を与えるだろう。

ちょっと注意点

 論理学は歴史的にフレーゲ(ら)以前以後にわかれる。フレーゲより前の論理学は伝統的論理学などと呼ばれる。フレーゲ以降が現代論理学である(だいたい)。フレーゲ以降は記号を多用して形式化するとか「多重量化」なるものを扱うとかいろいろ違いがある。文学部の論理学の講義は伝統的論理学を教えている可能性があって、ここまで書いてきたことが当てはまらないかもしれない。

 それとクリティカル・シンキングというのもある*6。これは大学の教養科目とか基礎講座みたいなので教わると思う(専門の科目がある場合もあるでしょう)。論理的(批判的)思考能力を鍛えるというやつである。ここまで読んでこられた方にはわかるだろうが、現代論理学は論理的思考能力を鍛える学問ではない。ただし、論理学を学ぶと論理的思考能力がちょっとは鍛えられるかと思う。それ自体が目的ではなく、あくまで副産物として、である。

 論理学の授業のシラバスに「真理(値)表」「タブロー」「述語論理」「自然演繹」、こんなワードが書いてあればアタリです。それは現代論理学を教える講義です(伝統的論理学を勉強するのもそんなに悪くないので一考の価値あり)。

付録

 ↓文系学生向けの優れた論理学の教科書はこちら。戸田山和久『論理学をつくる』。けど若干古くなっているかもしれない。

 ↓こちらの方が良いかもしれないけどちょっと堅め。戸次大介『数理論理学』。装丁がかっこいい。

 ↓やや発展的な哲学風味の教科書。大西琢朗『論理学』。

 ↓ガチるなら理数系向けだけどこちら。鹿島亮『数理論理学』。

 ↓哲学者が書いた読み物風教科書。野矢茂樹『論理学』。著者は論理学の専門家という感じではないので注意。でもおもしろい本。

*1:他の論理学専攻の人がどう思っているかはわかりません…

*2:ウィトゲンシュタインが論理学の人と言えるかどうかは人によって意見がわかれるのだけど、まあまあまあ。

*3:論理学は情報学科でも教えられると書きましたが、記号に置き換えられた数学の証明はコンピュータのプログラムとよく似ているという性質がある。コンピュータの理論と論理学は他にもいろいろと深い関係があったりする。

*4:この言葉、検索してもそれらしいものがヒットしないので、私が勝手に言っているだけかもしれない

*5:高校の教科書でもできるだけ形式的に議論していると思う。

*6:有名論理学ブロガーの「そくらてす」さんに当記事をリンクしていただいていた。

sokrates7chaos.hatenablog.com

ありがとうございます。そくらてすさんによると当記事は非形式論理学に触れていないのが残念らしい。クリティカル・シンキングと非形式論理学は別物という考え方もあるらしく(まあおんなじようなものと思ってた)、それは知りませんでした。すみません。それはさておき、論理を探究の対象と考えていてあまり道具と思っていないのがこの記事の特徴のような気がする。だから非形式論理学への関心が薄いのかも。人文系学生向けの論理学オススメ記事なのに「分析哲学」という言葉も記事内に出てきていないし…。私の尊敬するジャン=イヴ・ジラール先生という論理学者は、論理を徹底して探究の対象と考える人で(たぶん)、論理を道具のように使う分析哲学をめちゃくちゃ批判している。

 非形式論理学といえばこの本。倉田剛『論証の教室〔入門編〕』。ちょっとしか読んでないけど。

ありがちなタイトル

ありがちなタイトルをまとめました。

(若い)○○の肖像

 ジェイムズ・ジョイスの『若い藝術家の肖像(A Portrait of the Artist as a Young Man)』より。

 例:伊藤整『若い詩人の肖像*1』(伊藤整は英文学者でもあってジョイスの『ユリシーズ』の翻訳(共訳)もしている)

 意外と少ない!

〇〇批評宣言、〇〇宣言(「○○」は漢字のことが多い)

 蓮實重彦『表層批評宣言*2』より。のちに草野進という人が『プロ野球批評宣言*3』という本を出した。その影響か、それまで批評の対象でなかったようなものを批評するときにこういうタイトルがよく付けられる。なお草野進は蓮實先生のペンネームだと言われている。

 例:米澤嘉博『マンガ批評宣言*4』、PLANETS 6「特集 お笑い批評宣言」

〇〇2.0、3.0、4.0、5.0、…

 そもそもは「ウェブ2.0」という2000年代半ばのインターネットの変革を表す言葉が由来である。それでいろんなものに「2.0」を付けて変革とか進化を表すようになったが、最近は本のタイトルなんかで3.0, 4.0, 5.0, などとインフレしてきている。

 例:「春日2.0」(オードリーのオールナイトニッポンで2012年にやっていたコーナー。いろんなものに「2.0」を付けて進化させるというもの)、落合陽一『働き方5.0*5

これからの〇〇の話をしよう、これからの〜

 マイケル・サンデル『これからの正義の話をしよう*6』から。この本の原題は"Justice: What's the Right Thing to Do?"である。「これからの」という言い方は本のタイトルでかなり広く見られる。サンデル先生はガチガチの哲学者だが、この本は先生の講義を収録したテレビ番組が話題となり哲学と以外の人にも広く読まれた。ビジネスパーソンにもウケが良かったようで、ビジネス書のタイトルによく見られる。

 例:マキシマム・ザ・ホルモン「これからの麺カタコッテリの話をしよう*7」(マキシマム・ザ・ホルモンはバンドだが、これはCDとマンガをセットで出したものらしい)、リン・エンライト、小澤美和子訳『これからのヴァギナの話をしよう*8』(原題は"Vagina: A Re-education"でサンデル先生の本当は全然ちがう)

○○大全

 何が発端かはわからないが、近年「〇〇大全」というタイトルの本がよく出ている。すごく大袈裟だなあ、と思う。

 例:樺沢紫苑『アウトプット大全*9』、読書猿『問題解決大全*10』『独学大全*11

オブジェクト指向プログラミングと存在論(オントロジー)の関係、そしてオブジェクト指向存在論の謎

 Javaの勉強をしております。

 Javaオブジェクト指向言語である。オブジェクト指向プログラミング(Object-Oriented Programming)はいま多くの開発現場で使われている主流のプログラミングスタイルだと思われるが、これは哲学的にも興味深いのではなかろうか。私は最近分析哲学存在論の勉強もしているのだが、オブジェクト指向は哲学の存在論と親和性が高そうである。

 というのは両者に触れたことのある人ならば普通に「まあそうかもね」となるんじゃないかと思う。実際コンピュータ科学でもオントロジー工学という分野があって、分析哲学存在論と似たような手法でモノを分類して情報処理モデルを作るのであるが、これとオブジェクト指向はいろいろな要素を共有している。今回はオブジェクト指向プログラミングと哲学的存在論オントロジー工学の関係を調べたり考えたりしたので書きたい。

 そして! ややこしいことに「オブジェクト指向存在論(Object-Oriented Ontology)」というのも存在する*1。ハーマン先生という現代のアメリカの哲学者が提唱している哲学の理論で、ただし分析哲学ではない*2。これはいったいなんなのか。オブジェクト指向プログラミングと関係があるのか。この点も調べたので述べる。これについて気になっている人はけっこういるのではないだろうか。そうでもないか。

オブジェクト指向プログラミング(OOP)と存在論(オントロジー)

 まず、プログラミングを知らない人向けにオブジェクト指向プログラミング(以下:OOPを説明しておく。といっても私もよく知らないけど。

OOPとは

 OOPに関する私の知識は平澤章『オブジェクト指向でなぜつくるのか第2版*3』(以下:『なぜつく』)にかなりを負っているので詳しくはそちらを参照のこと。

 OOPには三大要素というのがある。すなわちクラス*4、継承、ポリモーフィズムである。これらはプログラムの保守性*5や再利用性を高めるための仕組みである。人間にとって読みやすくて書きやすい、そしてバグを起こしにくい、さらに優れたプログラムを再利用できる、これがOOPの強みであり、それを実現するのが三大要素である。

 OOPではクラスというものを作る。プログラムの実行時には、そこから生成したインスタンスというものが動く*6。「オブジェクト指向」の「オブジェクト」とはこのインスタンスのことであるが、クラスとインスタンスの総称として使われることもある。まあそれはおいといて。よく「犬がクラスとしてポチがインスタンス」みたいな例えが使われる。実際にそのようなプログラムをJavaで書くことはできる。犬に関する性質(なんらかの名前を持っている、吠える、など)をクラスでまとめて定義して、「ポチ」や「惣一郎」といった名前を持ったインスタンスをいくつも作ることができる。またクラスには階層関係があり、犬クラス意外にもカエルクラスを作ったとしてそれを動物クラスにまとめたりもできる。犬クラスとカエルクラスが共通して持っている性質を動物クラスの性質として定義しておけば、犬クラスとカエルクラスではそこに固有の性質を追加すればよい。このときに使うのが継承という機能である。階層関係を利用して、犬とカエル全体になんらかの命令をしたければ動物全体に命令をすればよくなったりする。これがポリモーフィズムである。これらの例からわかるとおりOOPは現実世界に対する直観をもとにプログラムを書くことができる。

 ↑というようなことはOOPの言語の教科書によく書いてあるのだが、『なぜつく』ではこうした考え方を批判している。OOPの機能はあくまでプログラミングのための機能であって、現実とプログラムは違う、ということである。しかし、OOPの考え方はプログラミングそのものだけでなくその前段階の業務分析などにも使われている。同書ではこれを汎用の整理術と呼んで解説している。やはりOOPは現実と似たところがあって、クラスの考え方を現実の業務の分析に使える。特に重要なのは、OOPのプログラムの設計に使われるUMLという記号言語*7が、業務のモデリングにも使えるということである。そうすれば業務分析から実装をスムーズに行うことができる*8。ただし、プログラミング技術としてのOOPと汎用の整理術としてのOOPは別物だということも『なぜつく』では強調されている。現実とプログラムはあくまで別物で、それらの共通点を見出すのを頑張るのが大事なのである。

存在論(オントロジー)とは

 続いて分析哲学を知らない人向けに現代存在論を説明する。存在論の基本知識は倉田剛『現代存在論講義Ⅰ*9』を参照。存在論というのは基本的にカテゴリーの研究である。物であったりなかったりするのだがいろんな存在者をカテゴリーに分けていくのが存在論で、その際「どのようなカテゴリーが必要か」を考えるのが哲学である。アトランティスが存在するのかとかイエティが存在するのかというのは考古学者や動物学者が研究することで、哲学的存在論ではもっと抽象的な、なんのカテゴリーに属するのか、そもそも属するカテゴリーがあるのかどうか微妙な存在者を研究するのである。

 例えば「赤い」という性質について。赤いものはたくさんある。周りを見渡せば見つかるだろう。しかし「赤い」という性質は存在しているといえるのだろうか。性質は伝統的に普遍者という。普遍者をカテゴリーとして認める立場、すなわち「赤い」を存在者として認める立場を実在論といい、独立したカテゴリーとして認めない立場を唯名論という。これら二つの立場の間の議論を普遍論争という。

 そしてコンピュータ科学・知識工学におけるオントロジー工学というのは、この存在論と同じような手法でモノや世界に対する知識を整理する手法である。ただし哲学的存在論とは違ってアトランティスとか個々の学問の対象になるような存在者の知識も整理する。オントロジー工学において哲学的存在論に対応する部分は上位オントロジーという階層の上位のところとなる。オントロジー工学は世界を概念化して知識を整理するものだが、哲学的存在論は概念ではなく世界そのものを扱うという違いが『現代存在論講義Ⅰ』で述べられている。しかし両者の違いはないのではないかというのが私の意見である*10

 さて、ここで普遍論争について考えてみよう。とりあえず実在論に立つとする。普遍者である「赤い」に対して個々の赤いものをインスタンスという。「赤い」はそれのみでは存在できない。必ずインスタンスを通して存在し知覚される、という性質が観察される。このため普遍者の実在は怪しくなる。唯名論のうちクラス唯名論という説は、普遍者はインスタンスのクラスもしくは集合であると考える。すなわち「赤い」は個々の赤いものの集まりでしかなく、普遍者というカテゴリーは不要となる。

 どうでしょう。クラスとインスタンスという考え方は存在論にも登場するのである。ただしここでいう「クラス」とは、数学の集合を一般化したものである*11からOOPのクラスとは別物である。『オブジェクト指向でなぜつくるのか』でもこのクラスという用語が誤解のもとだという指摘がある。ただし、OOPのクラスは型の一種といえるので表示的意味論を考えると数学的な集合と見なせるのかもしれない。まあでもここをそんなにつきつめても意味ないでしょう。そして現代の唯名論者でクラス唯名論を採用する者は少ない。もっと工夫された唯名論が現在の主流である。

OOPオントロジーの関係

 というわけなので両者の類似点はもっとざっくりととらえたほうがよさそうである。見たところ以下のような類似点がある。

  • 抽象度に応じたモノの階層(クラス階層/カテゴリーの階層)を設ける。
  • 実際に動く・知覚されるのはインスタンスだけである。

 OOPの解説で犬がクラスでポチがインスタンスということを書いた。常識的には犬はである。種はどのようなカテゴリーなのかというのは現代存在論の大きなテーマである*12。種は普遍者であるというのが素朴な説である。『なぜつく』では、現実世界の知識をOOPに持ち込むのが危険である理由として、インスタンスはクラスから生成されるのに対してポチは犬から生成されるわけではない、というようなことが書いてある。これはその通りである。ポチは親犬から生れる*13。ではこの常識のほうを修正してはどうか。私は哲学的なものにしろ工学的なものにしろ存在論というのは世界に対する知識の整理だと思っている。存在論を勉強することはOOPを汎用の整理術として使うことと同じようなこととなるのではないか。つまり個々のものであるポチは犬という普遍者のインスタンスである、ということを存在論的知識として持っておけば、それをOOPに活かすことは可能であろう。

 オントロジー工学の提唱者である溝口理一郎先生の「オントロジー工学の基礎と応用」という解説記事*14を見てみたら、オブジェクト指向との類似点と相違点が書かれていた。

 確かにオブジェクト指向言語のクラス階層とオントロジーの概念階層との類似性は高い.また,オブジェクト指向方法論はその上流における分析ではオントロ ジー開発方法論との共通点は多い.しかし,実装に近いフェーズでは前者は実行性能を重視し,後者は宣言的記述に基づき明示性,形式性を重視する.そして, 決定的な相違点は公理の「宣言的」かつ「明示的」記述性の有無にある.すなわち,オブジェクト指向言語は本質的に手続き的であるためクラスの意味,クラス 間の関係,そしてメソッドの持つ意味はその手続き的記述の中に埋もれており暗黙的である.一方,オントロジーでは各概念の意味定義と概念間の関係記述は宣 言的,かつ明示的である.手続きに関してもその仕様は宣言的に記述され,形式性,明示性は維持される.

溝口先生という方はなかなか深遠というか難解な感じの文章を書かれる方のようで、これもなかなか難しい。まあしかし、要するにオントロジーは知識工学である以上は形式や明示性を重視し、対してOOPは実行性能を重視するということである。OOPではクラス階層のような存在論的な構造は実行のために使えればよいので暗黙的なものに留められるが、オントロジーではそれ自体が目的なので存在論的構造が明示される。OOPはあくまでプログラミングの技術だというのは『なぜつく』で貫かれている信念である。よってOOP存在論は類似点はあるものの存在論に引っ張られすぎてはOOPの良さが出なくなることもある、ということになる。OOPはあくまで手段のひとつである。

 Javaではクラス階層の頂点にあるクラスがあらかじめ決まっている。それはズバリ「オブジェクト」というクラスで、個々のプログラマが作るクラスもすべてこれを継承することとなる。『なぜつく』によるとこのアイデアは哲学的な考えを誘発するらしい。様々なクラスを階層的に定義して、そのいちばん上が「オブジェクト(もの)」というのはいかにも哲学的である。ただし実際の哲学的存在論では普遍者のようなものっぽくないものが階層に現れる。OOP存在論はもっと素朴である。

 まとめると、OOP存在論は似ているが、かなり素朴な部分で似ているので、お互いの知識が役に立つこともあるかもしれないが過信は禁物、となる。なんかつまらない結論ですみません。

OOPOOO

 問題のオブジェクト指向存在論(以下:OOO)である。Twitterで「オブジェクト指向存在論 プログラミング」とかで検索すると「オブジェクト指向存在論オブジェクト指向プログラミングと関係ないんですか?」みたいな困惑したようなツイートがいくつか見つかる*15。そもそもオブジェクト指向プログラミングとOOOの両方に興味を持つ人は多くないだろうけど、それらの関係をちゃんと説明できる人は少なかろう。なので困惑だけが残っちゃうのである。

 事実、私もオブジェクト指向存在論についてはよく知らない。哲学に関心のない人にはわかりにくいかもしれないが、これは私がメインに勉強している分析哲学というものとは異なる流派の哲学説なのである。というわけで私も一から調べなければならない。で、飯盛元章先生の以下のnoteを見つけた。これを参照する。
note.com

OOPOOOに影響関係はない

 まずそもそもOOOOOPに由来するものなのだろうか。ハーマン先生が研究を開始したのは2000年代前後頃で、OOOというのは哲学という学問においては非常に新しい理論である。飯盛noteでも「21世紀の新しい哲学潮流」とある。対してOOPは、Simula67という1967年に誕生したプログラミング言語に原型があり、言葉/概念としては1970年代にアラン・ケイ*16が作ったものである。つまりコンピュータ科学という学問においては非常に古い概念で、OOOよりも早い。順番的にはOOPOOOに先行している。ではOOOOOPの影響を受けた。理論なのだろうか。OOPと哲学との関係は先述のとおりだが、OOOは先述のような哲学とは違った潮流のものである。実はOOOの解説書を読んでもプログラミングの話題は出てこない。飯盛noteには出てこない。ハーマン先生自身の著作『四方対象*17』と『新しい哲学の教科書 現代実在論入門*18』という本をザッと見たのだが、プログラミングのことは書かれていないのである。ザッとであってしっかりとは読んでいないので、今後ちゃんと確認したいと思います。すみません。『四方対象』の方ではObject-Orientedは「対象指向」と訳されていて、必要に応じて「対象」に「オブジェクト」というルビが振られている。これはプログラミング用語と混同されないようにしているのかもしれない。しかし存在論では"object"を対象と訳すのは普通なのでまあそんなものか。とにかく、OOOOOPを特に意識していない。影響を受けたとすれば後に生れたOOOのほうなのだが、こういうわけなので両者に影響関係はなさそうである。

 では何故「オブジェクト指向」という語を使っているのだろう。偶然だろうか? まずそもそもOOOは対象を指向した存在論なので名前に正当な理由はある。しかしこれから見るように、そんなに「オブジェクト指向」という語がドンピシャで当てはまるような存在論かな〜という疑念はある。「オブジェクト指向(object-oriented)」という語は英語では自然な表現なのだろうか。プログラミング用語を連想せざるをえないと思ってしまうのだが、それは私がプログラミングの知識をそこそこ持っているからなのだろうか、そうでもないのか。たぶんハーマン先生は「オブジェクト指向」というプログラミング用語がかっこいいからということで理論の名前に借用したんじゃないかな〜〜〜〜〜とも思うのである。これは皆さんで判断していただきたい。

OOPOOOはあまり似ていない

 さて、影響関係はなさそうだが、ではOOPの思想とOOOは似ているのだろうか。ここからはOOOの中身の話である。

 オブジェクト指向存在論ハイデガーの実存哲学に影響を受けているようである。ちょっと単純な図式化になってしまうかもしれないが、ハイデガーというのは西洋哲学史の研究から出発して存在論の歴史を問い直した人物であろう。なので実存哲学というのは伝統的な存在論へのメタみたいなものである。対して私がここで取り上げてきた存在論はもっと素朴なものである。しかし素朴ゆえの明快さ、強力さを具えている。

 オブジェクト指向存在論というのは、ハイデガー存在論と同じく、素朴な哲学理論が見落しているものを見直すというモチベーションがあるようである。飯盛noteでは以下のようにまとめられている。

オブジェクト指向存在論は、個々の対象を究極的なものとみなす。
■ 哲学の歴史において、対象は還元されてきた。
■ だが、対象は壊れうるのであり、関係性のネットワークにはまり込んだままではない。
■ 対象は、汲みつくしえない深みを隠し持ち、関係から退隠している。

 ここで「還元」というのは二つあって、一つは物をその構成要素に解体すること(下方解体)である。これは分子とか原子とか素粒子とか、科学の発達とともにより基本的な構成要素が突き止められていったことと連動して哲学史上で起きてきたという。OOPでも「原子でできているもの」みたいなクラスを作って継承することはわざわざする必要はないのでこの還元を否定している。しかし、これは大抵の科学理論や哲学理論で実践されていることだと思う。ここまで述べてきた存在論でもこうした還元は出てこなかった。なのでこれだけだと「対象指向」といえるほど他の哲学理論以上に対象を指向しているのだろうか、という感じがする。

 もう一つ、関係のネットワークへの還元を否定するというのがある。対象が何をもたらすか、という関係や相互作用への解体(上方解体)である。この点はハイデガーの道具論の影響を強く受けているようである。要するに道具はその用途から自由に存在しうる、という感じである*19。この方針からオブジェクト指向という名前が付くのはなるほどなと思うのだが、OOPではこういうふうには考えない。普通に関係や相互作用をクラスのメソッドや階層として定義する。そもそもOOPの「オブジェクト指向」というのはアラン・ケイ氏がわりと即興で考えたものらしいので、そんなにOOPの精神をうまく言い表しているのではないのかもしれない。しかしこれは実存哲学を考慮してのことなので、素朴に見れば一つ目の還元を拒否するという点で十分オブジェクトを指向しているのかも。

 とにかく、やはりOOOよりもっと素朴な存在論のほうがOOPと似ている。OOOは伝統的な存在論を批判する存在論なのでわりと伝統的存在論と親和性の高いOOPとは相性が悪くなるのだと思う。

むしろOOOOOPの思想に反しているのでは、という点

 OOPの特徴に再利用性を高めるということがある。Javaではすべてのクラスが「オブジェクト」というクラスを継承しているというのはすでに述べた。このようにして、他人が作った優秀なプログラムを継承したり再利用したりできるのである。JavaではAPIApplication Programming Interfaceというのがあって*20、その情報が集約されている。Javaでプログラミングをする際にはAPIを参照して使えそうなプログラムを探す。

 再利用性を高めると共同開発が楽になる。APIというのは共同開発が世界規模に広がったものともいえる。その際、クラスの名前が被る(コンフリクトする)ことを避ける必要がある。実行するのはコンピュータなので、コンピュータに正確に読ませるには異なるクラスには異なる名前を付けなければならない。よってOOPの言語によって名前の付け方には世界的なルールがあったりする。

 ちょっと難癖みたいになってしまうが「オブジェクト指向存在論」というややこしい名前を付けるのはこの思想に反しているのではないかと思う。実際OOPOOOに関係はあるのだろうか? と思ってしまう人は少数ながら観測されるので、ややこしいのは確かだと思う。なんかしかもObject-Oriented Philosophy略してOOPという用語もあるらしい。Object-Oriented ProgrammingのOOPとまったく同じである。それは流石にややこしすぎないだろうか。

 哲学も世界的な共同開発だと私は思う。「オブジェクト指向存在論」という名前が意図的にOOPに寄せて作られたのかどうかはわからないが、用語造りは慎重にすべきであろう。そうして異分野の人の混乱を軽減するのも学者の使命かな、と。

*1:存在論が存在する」ってのもややこしい言い方ですな。

*2:何をもって分析哲学かどうかを決めるのか、また決めることに意味はあるのか、みたいな議論はありますけどまあまあまあ。

*3:

オブジェクト指向でなぜつくるのか 第2版

オブジェクト指向でなぜつくるのか 第2版

 

*4:クラスではなくカプセル化を三大要素のひとつとすることが多いが、カプセル化はクラスの機能を代表したものと考えられるため、広くクラスを三大要素とする、という方針で『なぜつく』は書かれていた。

*5:この保守性の意味が私にはよくわからないんですよ。プログラミング用語です。

*6:上手い言葉が思いつかないので「動く」としておきます。なんかいい表現があるのだと思いますが。

*7:なんと言ったらいいのだろう。

*8:シームレスというやつです。

*9:

現代存在論講義I—ファンダメンタルズ

現代存在論講義I—ファンダメンタルズ

  • 作者:倉田剛
  • 発売日: 2017/04/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

*10:というのはこちらに書きました→

倉田剛『現代存在論講義』読書メモ - 曇りなき眼で見定めブログ

*11:集合論や数理論理学の心得のある人ならご存知であろうやつです。

*12:『現代存在論講義Ⅱ』に詳細な議論があります。

現代存在論講義II 物質的対象・種・虚構

現代存在論講義II 物質的対象・種・虚構

  • 作者:倉田 剛
  • 発売日: 2017/10/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

*13:ということもちゃんと同書に書いてある。

*14:https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsai/14/6/14_977/_pdf

*15:ちなみに『仮面ライダーオーズ』のOOOと紛らわしいという指摘は少なかったです。

*16:OOP以外にも「パーソナル・コンピュータ」という言葉/概念を創造したりしてコンピュータ科学と産業に多大なる影響を与えた天才です。

*17:

四方対象: オブジェクト指向存在論入門

四方対象: オブジェクト指向存在論入門

 

*18:

*19:ふんわりですみません。

*20:Java以外にもいろんなAPIがあります。