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cut-elimination.hatenablog.com
ふと思った。ジャン=イヴ・ジラールの哲学思想を研究する意味はどこにあるのか? ふと思ったというか、前から思っていたけどあまり気にしていなかったことを考えはじめた。
いまスチュワート・シャピロ『数学を哲学する』を読み返していて、ゲーデルの哲学の節に差し掛かったから、というのもある。
ゲーデルは史上最高といっていい論理学者だが、数学的な研究をした人であって、哲学者ではない。しかし当人は哲学への関心はずっと高かったらしい。それでも生前は哲学的な著作は少ししかしておらず、哲学者としての評価はそれほどされていなかった。事実ゲーデルの哲学思想は長いことあまり真面目には受け取られていなかった。それが死後ワンという人の研究によって再評価が始まったとか。
だが、ゲーデルが論理学者としても哲学者としても優れているとして、その人が最高の論理学者であることとその人の哲学思想が興味深いこととの間にどのような関係があるのだろうか。たまたまかもしれないではないか。ジラール先生にも同様の問題がある。ジラール先生は現代を代表する論理学者だと思うが、哲学思想が評価されているとは言い難い。なぜあえてジラール先生の哲学思想面を研究するのか?
まず言えるのは、経験的に優れた論理学者は優れた哲学者でもあったケースが多いということである(逆はそうとも言えない)。フレーゲやラッセルから、クリプキのような最近まで存命だった人までたくさんいる。そしてゲーデルのように、ずっと論理学者として有名で、後から哲学者として評価される場合もある。ジラール先生も実はこのパターンであり、まだ評価されていないだけかもしれない。だとしたら我々が適切な評価を与えなければならない。無名の論理学者の哲学思想を研究するよりは意義深いのではないか。
また上述のことの原因かもしれないが、論理学においては思想が理論の発見につながるケースがあり、優れた理論を作った論理学者は興味深い思想を持っていたおかげで発見に至ったということがある。直観主義を創始したブラウワーとハイティンクがその代表である。ゲーデルの哲学思想とゲーデルの集合論研究もたぶん密接に関係している。ジラール先生の線形論理やその他の理論も、ジラール先生のユニークな哲学的思想があったおかげで発見できたものに思える。とすればその発見をうながした思想に興味がいくのも自然である。超越論的シンタクスに至っては、それ自体が興味深い理論かどうかもまだ検討中だが、理論と哲学をセットで提示してくれているので、ジラール哲学と理論の関係を理解するとっかかりとしてちょうどよいのではないか。
もうひとつ、論理学的な理論の意味を理解するのに、その提唱者の哲学思想を理解することが良いガイドになるケースがある。無矛盾性証明にどんな意味があるかを考えるのに、無矛盾性証明を行った人あるいはそれに挑んだ人が、無矛盾性証明にどのような定式化を施したかを理解することは大事である。そしてその定式化がなぜ選ばれたかを知るには、それがどのような思想から来たものかを調べる必要がある。ゲンツェンや竹内の思想研究は盛んに行われているが、そのような意義があると思う。
もっとぶっちゃけると、単純に私にとってジラール先生の書く文章は、テクニカルな部分以外もめちゃくちゃおもしろい。なので私は哲学者ジラールにただただ興味があり、なぜジラールの「哲学」を研究するのか? と訊かれたら、ジラールの文章がおもしろいから、ということになる。