曇りなき眼で見定めブログ

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倉田剛『現代存在論講義』読書メモ

 倉田剛先生の『現代存在論講義』Ⅰ・Ⅱ(新曜社)はたいへん素晴しい本である。哲学に入門したい人はみんなこの本を読むといいと思う。しかし哲学の入門者はそもそもどういう本を読めばいいのかがわからないのだから難しいものである。まあそういうオススメ記事はまた別で書くとして、ここでは個人的な読書メモを書いておく。なお、DL というのはデイヴィッド・ルイスの略です。

 

 この本は倉田先生の哲学への熱い想いで満ちている。哲学、特に形而上学という分野はいろいろ言われるのだろうな〜という感じがある。「それが何の役に立つの?」とか「それは学問なの?」とか。そういう世の中への反発が込められた本である。またこの本は存在論への入門書でありながら倉田先生自身の理論的立場にかなり寄っている。そういうところが面白いと私は思う。と同時に、そういうところには当然、反論の余地がけっこうある。

 

 内容をまとめておこうかなあと思ったが、章ごとのまとめがちゃんと書いてあるので必要なさそうである。けれどもけっこういろいろなテーマ、トピックで書かれているので、2巻全体の構成を確認しておく。

 まず、Ⅰ巻第一講義(以下、これを1−1と書く。他の巻や章も同様。)では存在論の課題や道具としての一階述語論理が紹介される。存在論は「何が存在するか」を問う学問で、それを「どのようなカテゴリーに属するものが存在するか」という形の問いとする。また、存在論の区分も述べられている。1−2はメタ存在論で、クワインの手法が標準的なもの、それに対して虚構主義とマイノング主義と新カルナップ主義が出てくる。また理論選択の基準として単純性、説明力、直観や諸理論との整合性が挙げられる。著者は、哲学は独自の領域と手法を持っているという信念を持っており、そのうえでこのメタ存在論は重要であろう。1-3はアリストテレスやロウらを参照して基本的なカテゴリーを導入する。個別者や普遍者もカテゴリーとして登場する。1-4,5は現代的な普遍論争についてである。著者は実在論者なので実在論寄りで議論が進んでいく。実在論者は性質を普遍者というカテゴリーとして認めるが、唯名論者はそのようなカテゴリーを認めない*1。1-4では主にアームストロングの議論を紹介し、5では唯名論の説を紹介している。唯名論は現代ではトロープ唯名論の勢いがある。

 2-1は存在論というよりは存在論の知見を生かした形而上学という感じになっている。同一性の議論で有名なテセウスの船の思考実験や四次元主義が出てくる。「どのようなカテゴリーがあるか」あるいは「これはどのようなカテゴリーに属するのか」とはちょっと違い、個別者というカテゴリーの性質の議論である。2-2は種がどのようなカテゴリーに属するかという議論である。普遍者か、普遍者ではない性質か、個体あるいは個別者か、という。私はあんまり興味がなくてさーっと読んでしまったが、種的論理はおもしろそうである。2-3は可能世界が実在するか、するとすればどのようなカテゴリーかという議論で、2-4は虚構的対象についてそれを論じている。2-3では虚構主義というのも詳述される。これらがちょっとややこしいのだが、「フィクションは可能世界の出来事だ」という議論はありそうで出てこない。「可能世界はフィクションにおいて存在する」というのが虚構主義的な可能世界の反実在論である。虚構的対象も可能世界と絡めて論じられてはいない。

 

 ここからは私が思ったことをメモっていく。

 特に私は論理学に関心があるので、まずその観点からのコメントをいろいろ書いておこう。1-1で一階述語論理の解説があるのだが、それについて「記号が多くてウンザリしたかもしれないが〜」みたいな話の後で「本音を言えば、記号が出てこないと満足しないファナティックな人たちにはあまり感心しない」と書いてあってドキリとしてしまった。私はちょっとそのケがあるかもしれない。

 数学の虚構主義について。虚構主義の起源の一つはフィールドの『数抜きの数学』であると書かれている。確かフィールドは数学の哲学ではかなり異端的な人だった気がする*2。しかし私は虚構主義にけっこう魅力を感じている。それにしても虚構主義では数学の命題は真でも偽でもないが有益であると言い、トロープ唯名論のところで出てくるTM(truthmaker)理論もそうなのだが、ロジックの真理論とはかなり違った真理観があって興味深い。ちょっと気になった点は、数学における虚構主義は数学をゲームと捉えるとわかりやすいとあり、ある種の形式主義では数学をそのように考えると書かれている(Ⅰ巻64ページ)。しかしそのような形式主義者などいるのだろうか。これがなぜ気になるのかというと、こういうのは「皮相な形式主義」とか呼ばれヒルベルト形式主義と区別されており、これらが混同されることが多いからである*3ヒルベルトは数学を記号操作のゲームとは思っておらず、中身のあるものと普通に考えていた。というわけなので数学の虚構主義は哲学的にはかなりラディカルな主張であるが、数学の実践をそのまま尊重するので数学者にとってはかなり穏健であるとも言える。

 二階の性質と二階論理について。Ⅰ巻136ページには、多くの論理学者は個体の性質を個体の集合(クラス)と同一視しているが哲学的にはそれは自明ではないとある。私は性質と集合を同一視するのにはビビってしまう。これは包括原理を前提しているように思うが、それはラッセルのパラドクスを導くからである*4。しかし量化を二階までに制限していればまあ大丈夫なのかな。公理的集合論では分出公理で制限を設けることで開放文から集合を作れる。そうすればこの開放文が表す性質とその性質を持った集合を同一視できる。とにかく数学をやるうえでは基本的に性質と集合を同一視できる。また本書には、二階論理を集合論集合論とみなすとそれはもはや一階の性質とも結びつかないともある。なるほど。私が思ったのは、公理的集合論では個体も個体の性質もすべて集合なわけだから、また別の存在論的な興味が湧くのではなかろうか。

 2-3の可能世界の議論で出てくる様相論理についても書いておく。Ⅱ巻100ページでは、論理学者にとっては可能世界の内実はどうでもよいだろうが存在論的には重要だ、というように書いてある。実際これはそうで、可能世界というのは数学的にはただの有効グラフのエッジであり、それ以上でも以下でもない。今日では様相論理は、オートマトンなど計算機システムの理論との関係を盛んに研究されている。しかし可能世界の存在論的な問題は残っている、ということである。しかしちょっとこれには付け加えておきたいことがある。本書では可能世界というアイデアは様相論理との関連で復活したとあるしそれはそうなのだが、その後の可能世界の形而上学は様相論理とは無関係に発展しているように見える。つまり様相オペレーターと可能世界というアイデアを使っているだけで、これは様相論理ではないのではないかと思うのだ。様相論理で重要なのは到達可能性関係であると思う。様相論理には様々な公理系があり、クリプキ先生が偉いのは、対称的関係とか推移的関係とかごく普通な2項関係を持った可能世界モデルを使って完全性定理を証明し、公理系とそうした2項関係とに対応があることを示した点かと思う。様相論理の研究において重要なのは公理や到達可能性関係をいろいろにいじったり、様相論理をモデルとして使うのにどの公理が良いか考えたりすることではないかと。しかしプランティンガ先生や DL の形而上学では、到達可能性関係がどこかに行ってしまっている。事実、本書の可能世界意味論の形式的な解説では到達可能性関係も導入されるのだが、その後の存在論の解説では到達可能性は出てこない*5。様相文が真か偽かは到達可能な世界でそれがどうなっているかによるのだが、たぶんこれらの理論ではすべての可能世界が現実世界から到達可能となっている。そうすると様相論理の旨みが薄れるのではないか。実際 DL の形式体系は様相論理とはまた違った独自のおもしろさがある。『言語哲学大全Ⅲ』では、クリプキの指示の理論と可能世界意味論は実は関係がないのではないかと論じられている。つまり、1970年代頃の分析哲学では、可能世界意味論が形式論理学において復活したということが過大評価されてしまっていて、言語哲学でも形而上学でも形式論理学における用法を超えて可能世界が使われてしまっている気がする。なので、可能世界を現代の哲学に持ち込むことは、「論理学に基礎を持っているから」というのは根拠にならないためやはり危険である。言語哲学の指示の理論も形而上学の可能世界論も様相論理の発展とはどうも関係がなさそうだからだ。となると DL の体系がどれくらい「使える」かというのは私としては重要だと思っていて、それには例えば佐野勝彦先生の自然言語の意味論への応用の研究とかは興味深い*6

 

 というわけで私は虚構主義にシンパシーを覚える。虚構的対象を虚構主義的に扱う理論としてウォルトンごっこ遊び(make-believe)説が紹介されているが、私はこれもかなり強力な説だと思っている。しかしキャラクターが人工物であるというトマソンの説は、かなり直観と合致している。記述理論やマイノング主義や虚構主義や理論的対象説がなぜ私の直観に反するように感じるのかというと、それらはキャラクターという「ただの創作物」を精緻に理論化しようとしすぎているからだと思われる。存在論も実践と不可分であろう。著者倉田先生の考えもそのような感じであるらしく、可能世界も虚構であるが哲学者の実践のなかで生れた抽象的人工物としての虚構的対象であるという。抽象的人工物というのはかなり魅力的なカテゴリーである。

 と、ここには私が本書を読んでいて感じた大きな問題というか違和感が絡んでいる。トロープ唯名論や四次元主義や種の個体説や対応者理論がそうなのだが、キレイな理論は人工的に見えてしまって素朴な思考から乖離してしまうと感じる。数学の本なんかでよく「天下り的だが〜」といって定義を始めることがある。わざわざそのようなエクスキューズを書くのは、理論の定義というのは何か理由があってされているはずなのに最初からそのような理論があったかのように議論を進めてゴメンナサイという場合である。しかしその背後にはその理論に至る歴史があるわけで、それを理解すれば問題はない。なのだがそのような理論をいきなり定義するのは直観的には不自然に感じるから天下り的なのである。上に挙げた諸理論は、様々な議論の果てに生れた非常に豊かで技巧的なものなのだが、それ故に直観との整合性を考えるとまずい。それぞれに寄せられる批判も、基本的には「理論としては良くできているが、それは実態を上手く捉えているとは言えない」というものになる。しかしその判断をするのはやはり直観となる。理論が上手くできていればいるほど「なんか上手くできすぎているなあ。直観的には世界はそう上手くできているようには思えない」となってしまうのだ。しかし私はそれでも良いと思う。これは本書で修正的な理論と記述的な理論と呼ばれるものの対立と関連する。直観のほうを修正すべきか、少なくとも直観を修正すべきかもしれないという可能性を提示するのが、哲学あるいは学問の役割である、というのが私の直観あるいは信念となる。

 2-3で紹介される、対応者理論に対するクリプキ先生の反論も、虚構主義のローゼンの再反論で十分退けられていると思われる。分析が与えられた結果として、同じことでもとられる態度が変るというのは、そうでなければ分析をした意味がないのではないかと思う。著者はデーモン閣下の例を挙げているが、考え方を変えると見方が変るという経験は誰しもあるはずだ。

 応用存在論、いわゆるオントロジー工学では「われわれがどう世界を眺めるのか」つまり「概念化」に主眼が置かれるが、哲学的存在論では「世界がどうあるのか」を重視するというふうに著者は対比している(Ⅰ巻21ページ)。しかし私は哲学というのも結局は世界の概念化とその整理にあるのではないかと思っている。本書に理論選択の基準として登場するのは単純性、説明力、直観や諸理論との整合性であるが、このうち説明力と諸理論との整合性はいいとして、単純性や直観との整合性はかなり主観に頼るものである。これは観察や実験を重視する自然科学とは異なる特徴だが、数学やその他諸科学の基礎理論とは近いものだと思う。応用存在論もそのような性格を持っている。「世界がどうあるのか」を「われわれが世界をどう眺めるのか」とみなして議論するのが存在論なのではないかと思う。つまり世界のあり方に関する思考の整理こそが形而上学である。これを受け入れれば、理論の選択基準は世界に関する知識との整合性としての説明力と、理論の洗練度となる。思考を整理するために哲学をするのだから、直観との整合性が悪いとしても、それによってより良い形で思考が整理されるならばそれで良いし、直観との整合性が悪すぎて混乱するならばダメとなる。この方向性で哲学的分析をとらえると、ローゼンのクリプキへの第二の批判の立場である「臆病な虚構主義」も理解できそうである。著者は、応用存在論と哲学的存在論との上述のような問題意識の違いにもかかわらず、両者はかなり似たカテゴリー体系を形成するとも書いてある。これは実はこれらの問題意識はそう違ってはいないということの証左なのではないかと思う。著者はこうした対比の後で実践性や有用性は捨てきれないと述べているし、Ⅱ巻の最終的な着地点もそんな感じとなる。哲学はやはり実践的な学問で、理論選択の基準も実践的な観点から再考すべきであると思う。近年注目されている概念工学というのはそうした哲学運動のようである。

 

 これだけ書いてきてアレなのだが、私は分析形而上学というものをけっこう疑いの眼で見ている。著者はそういう眼で見られることにうんざりしているような書き振りなので心苦しい。しかしその疑いは何故なのかを書いておく。それは、形而上学の本や論文を読むと「いま私は何をやっているのだろう?」という気分になるからである。もっと言うと「哲学って結局のところ何を明らかにしているのだろう?」となる。例えば2-3で母親という概念の分析の例が登場する。

 xy の母親である \Leftrightarrow yx の子である & x は女である

 著者はこれを無時間的な概念分析として、生物の誕生以前から成立するという。しかし直観的にはそうともいえないのではないか。本書ではこれはさらっと述べられてしまっているのだが、私はかなり混乱した。考えてみたのだが、「殺人は人類が誕生する前から悪か?」みたいな難しさがある。こうした例を見ると、分析形而上学は答えのなさそうな問題というか、もっというと哲学の身の程を超えた問題を、わざわざ議論に引き込んで、思考を整理するどころか自分から混乱しているように見えることがある。虚構主義や四次元主義や様相の形而上学的分析もこうした違和感に満ちている。

 にもかかわらず本書はおもしろい。おもしろいというのは、何か知的な興奮が感じられるということである。私は存在論者の人たちほど直接的な魅力を分析形而上学の諸理論に対して感じているわけではないのだが、わざわざ混乱しそうな議論に踏み込むだけのベネフィットは本書で十分に得られたと感じている。虚構主義や抽象的人工物の考え方は自分の関心の範囲でも使って(実践して)みたいものである。

 

 あとめちゃどうでもいいことなのだが、1-5のクラス唯名論の解説中で、空クラスとなる性質の例として「100メートルを9秒台で走る日本人(性)」というのが出てくる。桐生祥秀選手が日本人初の9秒台を記録したのは2017年9月9日で、Ⅰ巻の初版第1刷は2017年4月7日、あとがきに記されている日付が2017年2月である。惜しい! というか危ないところだ。この本が書かれた半年後くらいにはこれは空クラスではなくなったのである。ちなみに手元にあるのは2018年に出た第3刷で、そこではまだ直っていないわけだ。もし新版とかが出たら新しい例に替えられるかもしれない。

 

 これを書いていて思ったが、私は普遍論争にも関心がないのかも。言及が少ない。

 

現代存在論講義I—ファンダメンタルズ

現代存在論講義I—ファンダメンタルズ

  • 作者:倉田剛
  • 発売日: 2017/04/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

現代存在論講義II 物質的対象・種・虚構

現代存在論講義II 物質的対象・種・虚構

  • 作者:倉田 剛
  • 発売日: 2017/10/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

*1:ただし現代では数のような抽象的存在の実在を含めるかどうかが二つの立場を分けるとⅠ巻101ページの注に書いてある。

*2:またシャピロ先生の本を再読して書きますよ。

*3:飯田隆不完全性定理はなぜ意外だったのか」にそのへんが書いてある。

*4:包括原理についてはコチラ 

岡本賢吾先生の二つの論文を読んだぞ - 曇りなき眼で見定めブログ

*5:見落しかもしれませんが…

*6:PDFはこちら

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/56992/1/sano.pdf