完全性定理の証明のなかでモデルを作るわけだが、それをちゃんと理解するためには真理値の定義をちゃんと確認しなければならない。命題論理の場合はいわゆるブール値というのをおさえておけばいいので簡単な話と思うのだが、述語論理に関してはけっこう難しい。やはり項や量化というのはやっかいなのである。完全性定理の証明中の項や量化の扱いがやっかいだということで始まった本シリーズだが、真理値の定義というそもそもの地点に遡るのである。
鹿島亮『数理論理学』では閉論理式にしか真理値がないが、清水義夫『記号論理学』のほうでは開いた式(と呼ぶことにする)にも真理値が定義されている。この流儀の違いは完全性定理の証明においてもいろいろ相違を生ずるはずである。
- 作者:鹿島 亮
- 発売日: 2009/10/01
- メディア: 単行本
鹿島本では拡大項と拡大論理式という装置を導入している。戸田山本の真理値の定義では個体定項を議論領域の要素に割り当てるのだが、鹿島本では定数記号というものがあらかじめ決まっていてそのような割り当てをしない。シリーズその2で「鹿島本は対象領域の要素とその名前とを厳密に区別している」というようなことを書いたがこれは当たり前のことで、前者は対象領域に属していて後者は定数記号に加えられて定数記号の集合に属する。これらを厳密に区別しているから偉いのではなく、これらを厳密に区別することで対象領域の要素の名前を定数記号としてそのまま使うという便利なことが可能になっていい感じなのである。よって個体定項の集合をあらかじめ用意してその割り当てを定義するという必要がそもそもない。定数記号であるところの対象領域のある要素の名前はその要素に割り当てればいいのだから。これが鹿島本の方法である。それで真理値は
の任意の要素の任意の名前 に対して 真
のあるの要素のある名前 に対して 真
というような感じで定義される。名前というのは定数記号で、そのような定数記号を含めて定義した項が拡大項、論理式は拡大論理式、閉論理式は拡大閉論理式。「任意の要素の任意の名前」とか「ある要素のある名前」と「任意」や「ある」が二つ重なるのは、要素の名前というのは複数ありうるからである。これは哲学的な議論に繋がりそうな気もするが、まあ 2×2 と 4 の違いみたいなやつである*2。しかしこの重ね方はいらないような気もする。同じ要素の別の名前はけっきょく同じ要素に割り当てられるのだから。どうだろう*3。
さてこうしていくと閉論理式の真理値は個々の述語の真理条件に委ねられることになる。ここもけっこう気になる点がある。鹿島本では個々の述語(のストラクチャーによる解釈)について真の場合と偽の場合を定義するだけで済ませている。しかし戸田山本では述語に議論領域(鹿島本でいう対象領域)の要素の集合を対応させ、述語の真理条件をその集合の要素に入っているかどうかに置き換える*4。この定義は私も授業で教わった。この述語を集合あるいはクラスと対応させるというのはどうなんだろう、という想いが私にはある。鹿島本では量化子の意味を定義するために量化記号を取っていくということを意味論の役割としている。だから述語の真理条件はふつうにやってしまえる*5。「述語の真偽とは?」みたいなのを問う必要がないからである。述語を集合に対応させると、今度は「集合論のメタ論理としての述語論理の意味論はどうなるんだ?」みたいなムズカシげな話が連想されちゃってなんだか不気味である。戸田山本でやっているような集合を使った定義は、単にベン図がわかりやすいからそうしているだけなのかそれとも厳密な数学的装置として集合論*6を持ち込んでいるのか、そのへんの意図とかテクニカルな違いとかはちょっと気になるが、まあ私にはわからん。
今回は哲学っぽい議論に踏み込んだわりに哲学の議論に対して及び腰になってしまった。哲学徒なのに。タルスキとか「言語哲学大全」シリーズとかを参照した論理哲学のこともいつかは考えて書きたいものであるよ。