曇りなき眼で見定めブログ

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【感想】『クレヨンしんちゃん 謎メキ!花の天カス学園』【ちょっとネタバレ】

 ふつうにメチャクチャおもしろかった!

 

 クレしんの映画を観るのは久しぶりである(テレビは最近はほぼ毎週見てるけど)。引越しのやつ(↓)以来である。

しかしクレしんは長寿コンテンツながら毎年新機軸を出すからすごいなあと思う。しかもアイデアが詰まっている。

 今回の映画はミステリーがテーマだった。けっこう伏線がちゃんとしていて、ユルユルではあるけどそれなりにフーダニットになっていた。しかし最後のほうはなんだかんだで追いかけっこになっていって、ここまでのミステリー展開はなんだったのだという感じなのだが、まあコナンも近年はそんな感じだしおもしろいからよい。ミステリー用の伏線が追いかけっこに活きてくるのはけっこう胸熱でもあった。ドキがムネムネだった。

 クレしん映画は家族をテーマにすることが多いが、今回はかすかべ防衛隊である。何年かに一度かすかべ防衛隊が主役になると思うが、今回はけっこう極端にひろしとみさえが出てこなかったんじゃなかろうか。ひろしとみさえがこれまでのクレしん史のなかで数々の修羅場をくぐり抜けてきた猛者みたいな描かれ方をしていて、『オトナ帝国』世代の私としてはなんかすごく良かった。

 いちばん笑ったのは、マサオくんがなんの理由もなく容疑者にカウントされたところである。あと覚醒してボーちゃんを「ボー」と呼ぶところ。そもそもしんちゃんだけでなくマサオくんまで底辺扱いされていたのが謎で、これもおもしろかった。あとちょっとだけ出てきたフワちゃんがけっこうおもしろかった。あと風間くんがハシビロコウになるところ。あの急にコスプレするナンセンスはいつ頃からかしんちゃんの持ちギャグになっているけど昔からやってたっけか。それを今回はおバカになってしまった風間くんがやっていた。

 あとこれまであんまり意識していなかったけど、クレしんはゲスト女性キャラがけっこうかわいい。今回のちしおちゃんと仲里依紗のギャルとろろちゃんと先生と、どれもよかった。ちしおちゃんの走ってるときの顔はロビン西の絵を彷彿とさせた。こういう画風もクレしんの一部にある(末吉裕一郎氏のセンスかもしれないが、まあわからない)。

マインド・ゲーム

↑この表紙はアニメの絵だからけっこう違うけども。

 

 夜の回に行ったので子ども客がいなかったのだが、昼間は家族のお客は入っているのだろうか。入っているといいなあ。あとアニメ好きはやはりクレしん映画は観るべきである(メチャクチャ久しぶりに観たワシが言うことではないが)。

ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ弐拾八・第10章4節〜11章(復習編)学園パロディとキャラクターの存在論

 こちらの復習編。そして最終回。

作品の奥に存在するキャラクター

 最近は学園パロディを公式でやることが多いので二次創作と言いにくくなっている。しかも原作者が自ら描いたりもする。ということを念頭に『鬼滅の刃』の公式学パロの「キメツ学園」を題材にする。

 まず、

 

  竈門炭治郎は鬼殺隊の一員である。

 

はもちろん『鬼滅の刃』という作品に関して虚構的に真である。また、

 

  竈門炭治郎は高校生である。

 

は「キメツ学園」について成立している。そして本書において、作品をまたいでオデュッセウスユリシーズに言及する例のように、

 

  鬼殺隊の一員だった竈門炭治郎が高校生をやっている。

 

というのが『鬼滅の刃』と「キメツ学園」との非公式のごっこ遊びとして言及できる。

 これらに私が付け加えたいのが、

 

  竈門炭治郎は『鬼滅の刃』本編では鬼殺隊の一員だが学園パロディ「キメツ学園」では高校生である。

 

というような文である。これはキャラクターは個々の作品の奥に存在していることを示しているように思われるのである。そしてごっこ遊び説の指示論とも両立しているはず。

 私は、キャラクターの存在論は美学の範疇を超えて議論されるべきだと思う。キャラクターというのは藝術作品の性質だけでは説明できないのではなかろうかと。

 

VTuber論まとめ

 本書では表象体という語を導入したが後半ではあんまり使われなくなっている気がする(全集中というのも後半ではあんまり出てこなくなる。これはわざわざ宣言しなくてもできるようになるからだけどね)。一般的な「作品」というのに沿った議論が増える。

 しかしVTuberは作品という単位を持たない。これぞごっこ遊びですね。そしてVTuberは明らかに存在しているように思う。であるにもかかわらず明らかに虚構的な文化であろう。

 

「直観主義型理論(ITT, Intuitionistic Type Theory)」勉強会ノート其ノ弐拾参「有限集合」「無矛盾性」(復習編)

 こちらの復習編を簡単に。

 

 m_n \in {\mathbb N}_n であるが、m_n に添字がいるのかどうか、議論になった。{\mathbb N_2 のケースを見ると機能していそうな感じはある。

 

 \bot 除去則のオルタナティブの正当化の後半で \lor 除去則を使えばもっと簡単だった。

 

 

ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ弐拾七・第10章4節〜11章(予習編)

 メイク・ビリーブを題材とした雑談の記録。最終章であるよ。

 他の回はこちらから。

 10章後半では「非公式のごっこ遊び」というなかなか応用が効きそうな概念が出てくる。最終11章ではごっこ遊び的な存在に関する興味深い考察がなされる。私は前回の議論をちょっと修正するか撤回するかしたいかもしれない。

非公式のごっこ遊び

公認のごっこ遊び

 まず「公認のごっこ遊び」というのが出てきていた。その定義は「その中で小道具として用いられることが作品の機能であるような遊び」というものである(401ページ)。作品にとってオーソドックスな観賞はこれである。

非公式のごっこ遊びの積極的意義

 非公式のごっこ遊びというのは公認されていないごっこ遊びのことなのだが、ウォルトンはもっと積極的な意義を持たせている。いろいろ例を挙げている。おもしろいのは

 

 野蛮人が聖母マリアを大槌で襲った。

 

これはマリアの像を壊すことが虚構においてはこうなる、という例である。もっとおもしろいのが

 

 ロビンソン・クルーソーガリヴァーよりも臨機応変の才があった。

 

というように作品を跨いだ論評のような言明である。

 こうした非公式のごっこ遊びという考え方を用いることで虚構や架空の存在に関する言明を自然に解釈できるというのがウォルトンの方針である。

二次創作について考えよう

 たびたび二次創作について論じてきた本シリーズだが、二次創作というのは非公式のごっこ遊びではなかろうかとも思える。けど違うかもしれない。

 まずまちがいなく公認のごっこ遊びではなかろう。では、二次創作はもとの作品を道具として用いるごっこ遊びなのかどうか。そうではあろうが、非公式のごっこ遊びの例とは違う面も多い。

 例えば殺伐としたマンガのキャラクターがほのぼのとした学園生活を送っている二次創作作品があるとする。「主人公A*1は平和な学園生活を送る学生だ」という言明は、二次創作作品に関して虚構的に成り立つ言明、あるいはそう言うことが虚構的に成り立つが、元の作品についての言明でもあるように思える。本作品と二次創作とのこうした依存関係のようなものはキャラクターによって結びついていると私は思う。まだあまり考えがまとまっていない。

論理形式

 架空の存在を指示するように見える文の論理形式について詳細に論じられているが、難しくてよくわからなかった! 私の専門的にはこういうのこそわかっているべきなのであろうが……。ただしヴァン・インワーゲンに言及していて、ヴァン・インワーゲンの論文は次に読む予定だったのでそちらをじっくり読みながらまた考えたい。

存在についていろいろ

 ふり行為の暴露

 これは難しいがおもしろい。

 

 グレゴール・ザムザは『変身』の登場人物である。

 

と言ったとき、これはグレゴール・ザムザを指示するふりをしているのだが、そのふり行為が暴露されているという。それは『変身』という作品名にも言及していることからわかる。さらに、

 

 グレゴール・ザムザは存在しない。

 

というのは、指示するふりの暴露であると考えられる。発話者はこう言うことでいま自分がふりをしていると暴露しているのである。

 虚構作品と結びつかない言明でもこの考え方が使える。

 

 ヴァルカンは存在しない。

 

なんかも(ただし、これの発話者はヴァルカンが存在しないことをわかっているとするのだと思う)。

引用

 私がいま記述した類いの非公式のごっこ遊びにおいて虚構として成り立つ事柄、つまり私たちが事実であるふりをする事柄は、まさに、実在論的な立場をとる理論家たちが現実において事実であると主張する事柄である、ということが注目されるだろう。それらの事柄とは、例えば、「たんに虚構的な登場人物にすぎない」といった述語によって表現される特性を備えたものが存在するとか、「存在する」はある特性を表現しており、その特性をある事物は欠いている、といったことである。そういう理論家たちの誤りは、文字どおりにしか考えない傾向が過剰だということである。彼らは、ふり行為を、ふり行為によって提示される事柄と取り違えるのである。(421ページ)

私の考え

 上の引用はなかなか耳が痛い。分析哲学は言語の分析をするが、ウォルトンはそれはふり行為かもしれないのだから文字どおり受け取りなさんなと述べている。確かにそうだ。なのでキャラクターの存在は慎重に扱うべきである。

 他方で、前半で述べた二次創作の例なんかは、キャラクターへの言明が作品の単位を超えて起りうることを示唆している。本書でもオデュッセウスユリシーズの比較とかがあったが、これらも結局は個々の作品似根ざしたものであった。キャラクターへの指示はふり行為なのかもしれないが、しかし本書の分析で尽きてはいない。私はやはりキャラクターというのは虚構性にプラスして意匠とか人工概念とか種とかプロダクトとかそういう観点からの分析も必要とするものだと思う。

*1:具体例が思いつかなくてごめんなさい

【感想】『サイダーのように言葉が湧き上がる』(古いものは慎重に扱いましょう……)

 けっこうおもしろかった!

小説 サイダーのように言葉が湧き上がる (角川文庫) サイダーのように言葉が湧き上がる 1 (MFコミックス アライブシリーズ) 劇場オリジナルアニメーション「サイダーのように言葉が湧き上がる」オリジナルサウンドトラック

 『映画大好きポンポさん』もそうだったが、とにかくいろいろな演出技法をこれでもかと詰め込んだ現代アニメらしい作品である。画面分割とか音楽との同期とか視点がよくわからないカメラワークとかスマホのスクリーンを鏡のように使う演出とか。最大の特徴は原色を大胆に使って輪郭線を太めに引いた独特な背景画である。わたせせいぞうを思わせる(と私は思ったのだがあっているだろうか)。

わたせせいぞう自選集 ハートカクテル サマーストーリーズ (小学館クリエイティブ単行本) SEIZO ROMANCE わたせせいぞうイラストレーションズ

 それと配信アプリとか俳句とか俳句のタギングとかモチーフとしてもおもしろい要素がいろいろ出てくる。とにかくそういうのが楽しくて見飽きない。私はそういうのは好きである。あとスマイルの家の間取りがめちゃくちゃオシャレで良い。

 要素が多すぎてお話が散漫な感じもするのだが、なんだかんだで最後にうまくまとまっている感じもしたから全然OKだった。主人公の少年チェリーは場面緘黙症とか赤面症とかそういうのだと思うのだが、それが彼にとってどのように辛いのかがあまりよく見えなかった。しかし最後の告白がいい感じだったからまあよし。あのヘッドホンは大きい音が苦手というのとともに自分の声が苦手というのもあるのだろうか。スマイルの歯については俳句とレコードいうモチーフと上手く連動していて良かった。レコードの探索はもうちょっと計画的にやってほしいし古いものは慎重に扱ってほしいが。そしてあの藤山さんというのが何モンなのかが結局よくわからないのだが、物語が真っ直ぐに二人の話とならずに藤山さんの人生を追っていくうちに触発されるお話となっていてそう考えるとけっこうおもしろい。

 冒頭で巨大なショッピングモールが上空から映し出されるのにけっこう興奮したのだが、それが最後の花火の演出で反復されて再度興奮した。よいクライマックスだったと思う。

 

 とにかく意欲的なアニメ作品だしキャラはかわいいし、観ていて好感が持てた。観て損はないんじゃないかしら。マニアもそうでない方も。

【感想】『100日間生きたワニ』を観てきたった(そしてオリンピック開会式について考えた)

 しつかりとつまらなかった!

 100日後に死ぬワニ (ゲッサン少年サンデーコミックススペシャル)

 観ているあいだずっと「そもそもこの映画は誰が何のために作ったのだろう?」という気持ちであった。それくらいエネルギーというか訴えるもののない作品なのである。話もよくわからないし絵も原作のイラストが喋るだけである。何故このようなものが生れてしまったのか。トゥイッターでバズっていた頃からも含めて検証したいものである。

 監督は『カメ止め』の上田さんとその奥さんで、アニメーションディレクターは『伝説巨神イデオン』の作画監督などを務めた大レジェンドの湖川友謙先生、キャストは数々のヒット作で声を当てた神木くんや旬の声優のキムスバ、その他売れっ子俳優とファーストサマーウイカ、そして音楽は亀田誠治いきものがかり。こう列挙してみるとわかるのだが、企画自体がなんだかよくわからないのである。原作のきくちさんも含め、このうち何人が本気でこの映画を作りたいと思っていたのだろう? インタビューを見ると監督と湖川さんはかなり真剣だったようなのだが、それは本当に作品や企画に対する真剣さだったのだろうか、なんかひとりよがりになっとりゃせんかっただろうか、と首をかしげたくなる。

 こうした一連の、企画や制作やコケ方が、オリンピックの開会式に似ていなくもない。というかオリンピック全体か(オリンピック自体は始まったら盛り上がっているようだが)。いろいろな人がいろいろな思惑を持って変な情熱や技術を注いだ結果なんだかよくわからないものが出来上がる、という非常に恐ろしくもありふれた現象がどちらにも現れている。

 

 私はトゥイッターで毎日やっていた頃はほとんど見ていない。炎上してからは炎上ウォッチャーとしての血が騒いで騒動を追っていたが、話はぜんぜん知らなかった。しかしやはり毎日一話ずつ四コマをやって「死まで○日」と出すからおもしろいのであって、普通に劇映画にしちゃったら単にワニが死ぬだけの話になるのは当り前だろう。この作品のファンが観て、映像化されているということ自体に感動する、そういう企画ということか。

 そんであのカエルは何だ! ワニ死後の多分オリジナルのストーリーだろうが、普通に重い話だし、普通にカエルの話ではないか。

 ものすごく根本的なことだが、話の重さと絵柄が合っていないと思う。原作はイラストレーターの四コママンガであって、けっこうシュールな雰囲気が奇抜なアイデアとマッチして味になっていたと思う。先述の通り劇映画にするとただの若者の死を扱った重い話にしかなっていない。それだとじゃあなんでアニマルなんだという話になる。

 

 しかし良かった点はあって、監督の趣向かと思うが、喋りの演技がとても自然だった。アニメはファンタジーや学園ものが基本で、こうしたフリーターとか普通に働く青年の話というのは珍しい。その雰囲気はけっこうよくでていた。

「直観主義型理論(ITT, Intuitionistic Type Theory)」勉強会ノート其ノ弐拾弐「命題的な(?)等しさ(途中から)」(復習編)

 こちらの復習編。

同一性の除去公理

 わたくし的に気になったのは、プリンキピアでは性質に量化しているがITTではそれができないという点で、集合族を \Pi で束縛することもできるのに何故だろうと思った。しかしITTはどうも高階論理に対応するものではないので、なんかあるのだろう。

左射影規則の逆の証明

 この例はティピカルだと書いてある(34ページ)が、何がティピカルなのかわからなかった。ここの段落の議論は難しくてよくわからない。

性質と要素のインデックス付族

 具体的な導出がわからなかったのでまた次回。