曇りなき眼で見定めブログ

学生です。勉強したことを書いていく所存です。リンクもコメントも自由です! お手柔らかに。。。更新のお知らせはTwitter@cut_eliminationで

トーマス・ラマール『アニメ・マシーン』第15章「フル・リミテッド・アニメーション」批判後編 アニメは総合芸術

 ↓の続き。

cut-elimination.hatenablog.com

 前編ではあれが書いてないこれが書いてないとわめいてしまった。こういう批判は得てして不毛になりがちである。私は知識をひけらかしたかったわけではない。何が言いたかったかというと、動きとデザインは2項対立ではないということである。

 ラマールは、枚数を減らしたら作画によって動きを表現することはできなくなると考えているフシがある。枚数を減らしても動きのようなものを表現できるのは、編集や撮影の技巧のおかげだというように(231ページなど)。第6章ではリミテッドでの動きの表現にも言及しているが、あくまで枚数の少なさを補う表現の話である(108ページ)。

 しかし、前回の記事で触れた芝山努や金田伊功が偉かったのは、枚数が少ないからこそできる動きの表現を開発した点にある。枚数と動きの豊かさは必ずしも比例しない。

 そもそも、フルかリミテッドかは、作画技法として見たとき、枚数の違いとは限らない。このへんはいろいろ複雑な事情があるのでまたいずれ。

 そしてキャラクターデザイン。前回で高畑勲&小田部羊一に言及したのは、2つ言いたいことがあったからである。まず、小田部のすごい点は、キャラクターの性格をデザインに落とし込んだことだけでなく、それと動きの表現のしやすさを両立している点にある。ラマールはキャラクターデザインが複雑になると動かしにくくなることは承知しているが、動かしやすいデザインを作ることもキャラクターデザインという役職の大事な仕事だという点を忘れている。小田部が『じゃりン子チエ』で行ったデザインは、原作の絵を活かしつつ無理なく動かせるようにするものだった。

 もう一つ、私の感覚として、デザインを凝ると現実離れした見た目になりがちで、キャラクターの心理面のリアリティも感じにくくなると思う。高畑アニメのキャラクターはシンプルで、それ故に内面の豊かさが感じられるのだ。つまり、ラマールが「フル・リミテッド・アニメーション」(251ページ)と呼んでいるような作品の、魂のこもったキャラクターは、現代的な華美なキャラクターデザインと必ずしも相性が良くないと思う(ラマールの挙げているエヴァの貞本デザインは成功していると思うが)。

 あとは演出。キャラクターの豊かな内面は、高畑や出﨑統のような、演出の力が大きい。2010年代以降は新海誠や京アニの影響で撮影処理も重視されている。

 要するに、アニメとは、動きとデザインと演出を総動員した総合芸術なのだ、ということが言いたい。決してどれか一つを取るとかでなく。