3日に1度くらいのペースでサイゼリヤに行く私。ひとりで行くのがほとんどで、よく周りの席の会話に耳を傾けている。
ところが、最近の人びとはあまり会話をしなくなっている。各々のスマホを黙って見ていることが多いのだ。
このことに気付いている人は多いかもしれない。しかし私にはさらに気付いたことがある。そうした人たちは、たまに会話をしたとしても、その会話が成立していないことが多いのだ。人びとは「話題」を失いつつある。
多くの人びとは、スマホでアクセスしたインターネット上のコンテンツに大きな興味・関心を抱いている。しかしその興味・関心が、ファミレスで目の前に座っている人に話題として共有できないのである。目の前の人は目の前の人で、自分のスマホでまったく別の興味・関心にアクセスしている。私がサイゼでよく聴くのは、「最近こんなものを見た」「ふーん」みたいな会話と言えないやり取りである。
で、先日、お笑いが流行っていないということについて書いた。
cut-elimination.hatenablog.com
私が子どもだった2000年代くらいまでは、まだテレビのお笑い番組やアニメはクラスで共通の話題だった。クラスの誰もが知っているタレントがいて、誰もが知っている番組があった。同じものを見ることで、それを話題にできる。
しかし、お笑いを中心としたマスカルチャーがなくなった。HIKAKINあたりのYouTuberは人気だが、それでも90年代のダウンタウンには遠く及ばないし、もっと言うと昭和のドリフターズや美空ひばりとは比べるべくもない。共通の話題は消え去った。誰もが自分の狭い興味・関心の中で生きるようになった。別に悪いこととは限らないが、このまま行くとどんなことが起こるか考えてみよう。
話題は連帯感を生む。話題がなくなったことで、日本人を統合する共通の体験とか意識とかそういうものがなくなっている。私たちはたまたま地理的な一つの列島で生まれ育って同じ言語を話し同じ憲法のもと生きているだけということになる(スポーツの国際試合も、どんどんマニアにしかウケなくなってきている)。
大衆の共通の知識みたいなものは、20世紀にラジオや出版によってできたものだろう。それらによって国民的なスターが生み出された。ではその前はどうだったか。たぶん地域ごとの風習とか仕事、人間関係が共通の話題だったのだろう。制度上日本は統一されていたが、人びとはもっと狭い地域で連帯感を持っていたと思う。
だが現代では、地域のことなんかより、もっとバーチャルな興味・関心をみんなもっている。地理的に隔たった人とインターネットを通じて狭い界隈を築き、その中で内輪ネタをしつづけている。なので目の前に座っている人と何も話すことができない。
界隈の内輪の規範を破ってしまう、例えばお笑い芸人がオタク文化に対して接し方を間違えてしまい、炎上するということはある。界隈は狭くとも、というか狭いからこそ、一つの堅固な共同体である。サイゼで目の前に座っている人は、それくらい接し方が難しい界隈の住人かもしれない。私たちは、目の前の人との間にものすごく大きなコミュニケーションの壁をかかえているのかもしれない。
そんな状況で、ナショナリズムとか排外主義とか保守思想とかが流行っている。地域で得られない連帯感を一足飛びで日本に求めるのだろうか。たまに物凄く馬鹿げた保守思想を信奉する人がいるのは、日本の連帯を実感できないからだと思う。
というようなことを考えているのだが、何を読めば考えが深まるだろう。ローティだろうか。
