完全性定理と不完全性定理は名前の割にほぼ関係ない別々な定理だとよく言われる。しかしじゃあどうして対になるような名前が付いているのだろう。歴史的経緯が気になる。不完全性定理は発見から暫く経ってからそう呼ばれるようになったというのは聴いたことがある。完全性定理はどうだろう。一階述語論理の完全性は未解決問題として知られていたからゲーデルによって証明される前から名前はあったのか。なので完全性定理はそう呼ばれる必然性があると思うが、不完全性定理はそんな名前でなくても良かったような気がする。なのに何故か世間では不完全性定理が有名である。何故だろう。人は完全よりも不完全に惹かれるのか。
さてしかし、完全性定理は「真ならば証明できる」という定理であるのに対し不完全性定理は「真なのに証明できないものがある」とも表現される*1。こうして見ると対になっている感じがする。これらは矛盾しちゃっていないのかとちょっと不安になるがそんなことはない。
完全性定理のいう「真」はモデルによらない真だが、不完全性定理のいう「真」は標準モデルにおける真である。不完全性定理の証明に登場する証明も反証もできない文は、これを偽にする構造を与えることもできる。例えば から証明できる閉論理式は真でそうでないのは偽である、とかすればよいだろう。
一般的に数学を議論する際の真偽とモデルとか厳密な意味論を考える際の真偽はけっこう違うものなのでしょうな。フランセーンの本で「真」の意味について考察されている。また、あるモデルにおける真とどんなモデルでも成立つ真の違いはロジックに疎い人にはよく分らないのではないかなあと思う。そういう人が不完全性定理を「真だが証明できないものがある」と理解しているようだったら注意しなければなるまい。その「真」の意味はなんなのか、と。