曇りなき眼で見定めブログ

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ウォルトン『フィクションとは何か』読書会記録其ノ九・第4章(予習編)

 他の回はこちらから。

 今回の第4章「生成の原理」は、表象体がいかにして虚構的真理を生成するか、という話題である。割と聴いたことがある話とかいかにも哲学っぽい話が多かった。生成の原理や法則に関するいろいろな説が提示されるが、ここでもウォルトン先生は理論を確定するようなことはしない。状況に応じてどの説が良さげか変るので。

直接的生成と間接的生成

 虚構的真理は直接的または間接的に生み出される。直接的に生み出されるものを第一次の(primary)のものと呼び、間接的に生み出されるものを含意される(implied)ものと呼ぶことにしよう。(140ページ)

まあこれは一般的にそうだろうなあと思う。

生成方法が大事

機構とその作用のあり方は鑑賞者が詳しく調べることができ、その機構から帰結する虚構的真理よりも興味深いものであることもまれではない。画家や小説家の作品の芸術性の多くは、芸術家が見出した虚構的真理の生成方法に存しているのである。(140ページ)

それが生み出されるときの間接性そのものが、ある虚構的真理を目立たせるときがある。特に、それをもっと直接的に生み出すことが容易なときに、そうなる。他の領域でもそうなのだが、表象体を構成するとき少し控えめにしておくと、かえって欲望が刺激され、注意を引きつけるからである。(143ページ)

含意の二つの原理

 直接的に生成される虚構的真理がいかにして間接的に生成される虚構的真理を含意するか、という話である。

現実性原理(RP, Reality Principle)

 分析哲学っぽい論理的な定式化も書いてあるがそれはおいておく。要するに、直接的に生成される虚構的真理が現実と同じように間接的に生成される虚構的真理を含意する、という考え方。

共有信念原理(MBP, Mutual Belief Principle)

 対してこちらは、直接と間接の間の関係が作者の属する社会において共有的に信じられているときに含意される、という考え方。D・ルイスやウォルターストーフの説。

これらの違いを表す例

 この例がおもしろかった。ある人が、古典的な小説の、登場人物の青年が非行に走る場面を読んだとする。その人は心理学や精神医学を調べて、なんらかの神経の疾患であると判断する。別の人は、同じ小説を読んで、書かれた当地の当時の習俗を調べる。すると悪魔憑きが信じられていたことがわかり、これは悪魔憑きを描いた場面だと判断する(158〜159ページ)。前者はRPを使っている例で、後者はMBPを使っている例である。

 RPのほうがごっこ遊びがより徹底されていることがわかるだろう。しかしMBPのほうが「表象体とは芸術家が鑑賞者の想像活動を導く媒体である、という考え方によく適合する(153ページ)」という事情もあり、どちらも捨てがたい。

…共有信念原理は、芸術家が鑑賞者の想像活動を導くために表象体を利用するのをより容易にする。現実性原理は、どのような虚構的真理が含意されているのかを確認するために鑑賞者によって利用されるとき、鑑賞者のごっこ遊びへの参加をより豊かで自然なものとすることに貢献する。(160ページ)

 で、ちょっと思ったことがある。手塚治虫の『ブラック・ジャック』について東大医学部の学生から「医学描写が間違っている」という抗議の手紙が来たという逸話がある。これに対して手塚は「東大生ともあろうものがマンガは間違ったことを描くものだということも知らないのか」と応じたという。この東大生はRPに基いてマンガを読んでいるのだろう。時代や地域だけでなくジャンルごとの解釈の多様さを表す例かと思う。批評の役割もこういうのを解消することにある。

それ以外

 比喩とか、物語からなんとなく察せられる事実とか、これらでは説明できない事例もたくさんある。

愚かな問い

 シェイクスピアの『オセロ』で、ムーア人の軍人であるオセロが英語のめちゃくちゃ固い韻を踏む場面がある。粗野な軍人に何故そんなことができるのか…というのが愚かな問いである。

 こういった例は、すべて愚かな問いかけである。的外れで、不適切で、場違いである。こういう問いかけを追求したり、これにこだわったりすることは、鑑賞や批評に無関係なだけでなく、撹乱して台無しにすることでもある。指摘されているパラドックス、異常さ、見かけの矛盾は、人工的にわざわざでっち上げたものであり、真剣に受け取るべきではないし、私たちは真剣に受け取ったりしない、普通はそれに気づきさえしないのだ。(175ページ) 

 ただし、エッシャーの絵のように、パラドックスをあえて組み込んだ作品もある。いわゆるメタなネタというのはそういうものといえそうだ。

 しかしもっとひねったのもある。お笑い芸人・粗品のフリップネタでそういうのがある。当たりつき棒アイスが、少しかじられて先っぽに「アタ」と書いてあるのが見えている、という絵が描かれたフリップを出す。それをめくるとアイスがすべて食べられて棒に「アタミリョコウ」と書かれている。アイスの当たりにしては大きすぎ、というネタであるが、粗品はさらに「そしてコメディ・パラドックス!」と付け加える。1枚目のフリップの絵では棒アイスの持つところはまっさらなのだが、めくったあとのフリップには下までいっぱいに「アタミリョコウ」と書かれている。これを粗品は「コメディ・パラドックス」と呼んでいる。パラドックスをあえて入れているだけでなく、だれも気に留めないそんなところをわざわざ「コメディ・パラドックス」という造語までして自分から指摘するのがおもしろい。