曇りなき眼で見定めブログ

学生です。勉強したことを書いていく所存です。リンクもコメントも自由です! お手柔らかに。。。更新のお知らせはTwitter@cut_eliminationで

劇場版「羅小黒戦記」の感想(というか讃辞)(大ネタバレあり)

 劇場版「羅小黒戦記」について本格的な感想・批評を書きます。私は吹替え版で二度観たけれど、見れば見るほど発見のある作品なのでまだまだ見たい。字幕版も観たい*1けれど、緊急事態宣言が出ているので自粛している。でもweb版が更新されたらまた劇場版を見たくなっちゃうだろうなあ。

 作品自体の感想ではない、日本アニメの現況と比較した分析(というか憂い、嘆き)もどこか別で書く予定。なお今回は劇場版に絞って感想を書くが、他のメディアミックス作品も適宜言及する。

 感想とか批評を書くのだけど、特に批判すべき点とか欠点とかも無く、以下ただの讃辞にしかなっていない。あえて不満な点を先に言っておくと、モブの処理が単調だったり美術(というかハーモニー?)がちょっと弱いかなという点があったりするのだが、予算の都合のようなので*2続編ではもっと良くなると期待できるし、そのうえなんというかFlashアニメの独自の美学のように見えなくもなくてこれはこれでいい。つまりジブリ細田守作品のような劇場大作アニメとはまた違った思想で製作されたアニメ映画と考えるべきなのかもしれない。

 

 では褒めます。

 前にも書いたが、予告編を見た段階でまず作画の良さに驚いた。「作画が良い」というのは非常に誤解の多い概念なのだが、この羅小黒戦記こそが「作画が良い」アニメである。何をもって「作画が良い」とするかは人それぞれだろうが、だいたい「何を描いているか」「どう描いているか」をもとに判断するものだと思う。モチーフとかレイアウトが良かったり*3、それがとても上手く描かれていたりすると良い作画になる。この「良い」とか「上手い」の基準は難しいけど。話が逸れかけたが、要するに羅小黒戦記は、私が見たかったものがとても上手に描かれているのである。

 まずバトルシーン。日本のアニメーターで格闘アクションの作画が上手いとされている人といったら松本憲生さんである。特に有名なのが「NARUTO」第30話のサスケと変装した大蛇丸が森のなかで闘うシーンである。羅小黒戦記のバトルはこのナルトの松本憲生作画を彷彿とさせる*4。特に森のなかでムゲン*5がフーシーらをワイヤー状にした金属で追い詰めるところなんかはモチーフからしてナルト30話に似ており、ハッキリ意識していると思われる。背景動画*6で木々がぐんにゃりする感じも似ている。私が松本作画で良いと思っているのは、空間を縦横無尽に行き交うダイナミックさと、格闘のリアリティである。羅小黒戦記でも、まずキャラクターが空間内を駆け巡って、見ていると視点があちこちに移動して翻弄される楽しさがある。カメラワークのアイデアが多彩で、ワクワクする。これは近年の3Dツールの発達によってサポートされているらしい*7。またリアリティという点だが、これが重要で、松本さんの作画には「いま現に闘っている」という緊迫感が感じられる。特に「敵がこうくるから自分はこう動こう」みたいな戦闘プロセスが見ていて伝わってくる。羅小黒戦記のバトルにもこのような「計算」をものすごく感じて、「その計算が狂えばやられる」という迫力がある*8。迫力という点で言うと、物やキャラクターの重量感を感じるのも良い。身体や物体の実在感がやはり戦闘のリアリティに繋がっている。ただし、松本さんの作画はもっと奇抜というか「キマってる*9」感じなのだが、羅小黒戦記は常に堅実である。ちょっと抽象的になってしまったがそんな感じである。また、バトルシーンの緊迫感の無さというのは近年の日本アニメに私が強く感じる不満で、このへんの事情はいずれ。

 もうひとつ作画でいうと、食事シーンも良い。こちらはジブリというか宮崎駿の影響を感じる。シャオヘイがおいしいものを食べているときの両手をせわしなく動かしてほおばる感じがかわいいが、ルパンやパズーを彷彿とさせる。これは技術的にもかなり上手いと思う。しかしそれだけではない。食事をちゃんと描くのは作画的に難しいようで、省略して記号的に描いた表現を他のアニメではよく見るのだが、ここで手を抜かずに真摯にやっている。その心意気に私は痺れた。

 というわけで、作画の素晴らしさから如実にわかるのだが、この作品の良いところのひとつは、とにかく生真面目にストイックに丁寧に作られているという点である。バトルシーンの上手さ楽しさと食事シーンの上手さかわいさが魅力であるだけでなく、その隙のない丁寧さが作品の切実なテーマとマッチしている。

 

 というわけなので、予告を見て作画が良いと思って観にいったのだが、お話の中身とかあらゆる点で素晴らしいので驚いてしまったのである。しかもクリエイターのセンスが乱れ飛んでいるタイプではなく、きちんと作られたエンターテインメントのおもしろさ。例えばそれがシナリオにも現れている。

 二回見て気づくのだが、シャオヘイの他の妖精や人間や世界に対する印象と観客のそれとがうまく一致するようにできている。例えばフーシーは最初良いひとっぽく見えて、後半でやっぱり敵だったか! となり、最終的には悪いひとではなかった…となる。ムゲンは逆で、他の執行人にもそれぞれの印象がある。人間に対してもそうである。初見ではシャオヘイと一緒に物語に翻弄されていくようにできている。こういうところも良い。観客が受け取る情報量のコントロールがうまくできているのである。

 

 というようなアニメ映画作品としてのおもしろさもさることながら、もうひとつの著しい特徴としてはキャラクターデザインの良さがある。絵のスタイルとしてなのだが、線が太くてシンプルである。それで先述プルでキャラクター性の高いデザインになっている。つまり、かわいいキャラはかわいく、さらにかっこいいキャラはなんというかイヤらしさのないデザインである。ちなみにそれで先述のような繊細な動きの作画ができていることが驚きである。緻密な線でリアルなアクションを展開するアニメはよくあるが、このビジュアルは新鮮であった。

 シャオヘイのネコ形態なんてサンリオにもディズニーにもポケモンにもタマ&フレンズ*10にも負けないぐらいかわいい。これでやはり挙動が作画でリアルな猫っぽくなっているのが驚異的である。頭と胴体の比率とか目のデカさはキャラクターらしくデフォルメされていてめちゃくちゃかわいいのだが、それが作画によってどんな写実的な猫よりも、というか写真よりも見事な猫っぽさを獲得している。猫を猫たらしめているのは耳やしっぽや毛並みではなく動きなのかもしれない。これがキャラクター性と動きを兼ね備えた「アニメ」というジャンルの強みであると思う。食事シーンの作画といい、なんというか、この作品を作っている人はアニメというものをよ〜くわかっている。ちなみにシャオヘイのネコ性は、ネコ形態が多く登場するweb版のほうがもっとよく出ている。

 シャオヘイ人間体もまたかわいい。事情はネコ形態と同じで、やはりキャラクター的なかわいさとリアルな子どもの挙動の作画が両立していて良いのである。食事シーンの拙い箸の持ち方とか、ラストの涙を拭う手の動きが良い。なおかつ手首のもちもちした質感はリアリティもデザインの段階で付け加えることに成功している。多分キャラクターデザイナーを中心として作り手の人たちは猫も子どもも好きなのでしょうな。

 キャラクターデザインという話題から逸れつつあるので話を戻す。私の見た感じ、絵*11の雰囲気は「イナズマイレブン」や「妖怪ウォッチ」に似ているかなと思う。どちらもレベルファイブのゲームが原作でアニメをOLMが制作している。これらは幅広い層から支持を得ている作品だが、根本は子ども向けである。先ほど羅小黒戦記のキャラクターデザインには「イヤラシさがない」と書いたが、それはイナズマイレブンなんかに通じるものがある。ムゲンやフーシーのような美形男子キャラがたくさん出てくるが、子ども向けを意識してか露骨にセクシャルなキャラクターは出てこない。だがそこが良いのである。ここも羅小黒戦記のストイックさの現れかと思う。で、羅小黒戦記は思った以上に女性オタク受けが良いようなのだが、それはイナズマイレブンやあるいは「忍たま乱太郎」が熱狂的に支持される感じと近いのかもしれない*12。そういうハレンチでない世界観を好む人はけっこう多いと思う。セクシャルな部分は秘められていたほうが妄想が捗るし*13

 あとナタ様がめちゃくちゃ良い。デザインも性格も能力も良い。哪吒というのは中国の神話上の有名な神? 仙人? で、何度もキャラクター化されている*14が、この羅小黒戦記のナタ様は世界を制するポテンシャルを秘めているくらい魅力的なキャラクターである。続編ではもっと活躍するとの噂で楽しみである。

 

 子どもという観点から付け加えておくべきことがある。ここまででもいろいろな作品を引き合いに出してごちゃごちゃ書いてきたが、私が最も似ていると思ったのは実は「よつばと!」である。そもそも羅小黒戦記は子ども向けなのかもうちょっと高い年齢層をターゲットとしているのか実はよくわからないのだが、まあ子どもが主人公でアクションや能力バトルがあるのだからメインは少年向けだろう。しかし大人の私が見ると、子どもの活躍だけでなくそれを取り巻く大人の素敵さが際立つ。そういうところが「よつばと」に似ているのである*15。ムゲンは「よつばと」のとーちゃんのように、何かを強い調子で押し付けるようなことはしないし、猫かわいがりするわけでもない*16。シャオヘイをあちこちに連れ回すのは「いろいろ見せたくて」だという*17。こういうところも「よつばと」と精神が似ている。web版ではオタク文化のイベントに来ている人のコスプレという体でよつばがカメオ出演*18しているので、おそらく羅小黒戦記の作り手も「よつばと」が好きなのだと思う。

 この子どもという観点はネットでいろんな人の感想を見ていると非常にたくさん見受けられた。私の以上のような感想はそういうのを読んで触発されて考えたものが大きい。ぶっちゃけ自分ではそういう素敵な視点は持てなかったかもしれない*19。例えば電車でシャオヘイが術で眠らされて抱えられるシーンで、周りの乗客が「人買いじゃないのか」みたいに声をあげるところ。中国の犯罪事情が絡んでいるのだと思うが、こういうときにちゃんと周りが気付いて指摘する描写を入れるというのはやはり大事である、というような感想をよく見かけた。確かに日本のマンガやアニメはやたらと子どもが世界の命運を握らされすぎなところがあって、こういう常識というか良識を感じる描写があると親子連れの観客は安心するのだと思う。この日本の作品と比べたときの「良識」という点はまたいずれ書きたい。

 ちなみに「よつばと」は超人気マンガでありながらアニメ化されていないのだが、それは作者のあずまきよひこ先生がよつばの子どもらしい動作をアニメにするのは難しいと考えて拒んでいるからと聴いたことがある。よつばは箸の持ち方が拙かったりして、そういう描写のかわいらしさも作品の魅力である。言うまでもなくそういうところもシャオヘイと似ていて*20、羅小黒戦記のスタジオだったらよつばとをアニメ化できるんじゃないかという感じがする。

 

 さて、以下は好きなシーンを個別に挙げていくよ。

 まず列車のバトルシーン。

 先述の、周りの乗客がシャオヘイの異常な状況に気づいてざわざわするところなんかがそうなのだが、メインキャラクターの戦闘に焦点を当てるだけでなく周囲の反応もちゃんと描いているのが良い。非常に映画的と感じる。その時空間で何が起きているかをリアルに描写するというのはアニメといえども重要であると思う。ここをないがしろにしちゃわないかどうかが良質なアニメと「たかがアニメね」という感じのアニメとを分ける。しかも妖精やムゲンの超人的な力と無力な人間の対比というのはこの作品の本質的な部分でもあるからなお意義深いのである。

 列車といえば「鬼滅の刃」(以下:キメヤイ)の劇場版も無限列車編という列車バトルを描いている。これと比較したらいろいろとおもしろいだろうけど、実は私はこの大ヒット作をまだ観ていない*21。けれど原作マンガは読んだのでマンガについては言える。前にキメヤイの感想を書いたときにも述べたが、キメヤイという作品は「言ってるだけ」な展開がとにかく多いのと、メインキャラの闘いの御膳立てが整いすぎていて人工的に感じるという欠点がある。どちらもマンガの無限列車編で顕著で、「煉獄さんはすごい」と言ってるだけで何がすごいのかよくわからなかったり、なんだかんだ主人公らと強い鬼の戦闘がクローズアップされるばかりで列車というロケーションが微妙に無意味になったりする。というようなことをキメヤイの感想で書いたのは羅小黒戦記が念頭にあったからである。羅小黒戦記の登場人物はしっかりと社会や世界のなかで闘っていて、そこが良い。またフーシーは橋を破壊して列車を落とそうとしたりして、ムゲンはシャオヘイだけでなく乗客も守らなければならず、列車のダメージを軽減しているうちにシャオヘイを奪われてしまう。こうやってフーシーの戦略が確かにわかってくる。また、フーシーは他の妖精の能力を奪ってなおかつロジュらと共闘してようやく全力を出せないムゲンと互角だったりとか、パワーバランスもよく計算されている。羅小黒戦記のつくりはやはり丁寧かつクレバーである。キメヤイは週刊連載のなかで描いているためこういう細かな計算は難しいのだと思う。だからメインキャラクターにクローズアップしてバトルを描くのだろうが、少年マンガのそういったメソッドが果して良いものなのかどうかは疑問である。

 続いて終盤の作戦展開。

 けっこう「やられた」感があったというか、こういうおもしろさは珍しいなと思ったのが、終盤の作戦展開のワクワク感である。人間を避難させてフーシーの仲間を捕らえていくあたりだ。ヤシマ作戦とかヤシオリ作戦とかキメヤイの最終決戦みたいなのも良いのだが、羅小黒戦記はまたちょっと違う。これまでの総力を結集して戦うワクワク感というより「まだこんなキャラが控えていたのか!」という謎のワクワク感である。web版を見ていない段階だと「これはweb版で出てくるキャラなのかな」と思ってしまうが、web版を見たうえでもういちど見ると、たぶん関西弁の妖精以外はすべて劇場版の新キャラだと思う。しかも全員がちょっとしか登場しないのに魅力的である。やはりキャラクターのデザインや造形がよくできている。あの人間を転移させるパーカーのひと*22とかもめちゃくちゃかっこいい。この、最終決戦前の御膳立て、戦いのフィールドを用意するところからエンターテインメントになるというのが新鮮であった。

 新鮮なおもしろさだなあと思っていたが、ネットで感想を調べていると「ジャイアントロボ 地球が静止する日」みたいだという意見を何度か見かけた*23。これはなるほどと思った。ジャイアントロボも終盤でぞくぞくと強キャラが出てきてわけがわからなくなっていくのがおもしろい。しかし、このジャイアントロボ横山光輝作品のキャラクターがスターシステム的に総出演するという趣向の作品で、そのなかには「水滸伝」や「三国志」も含まれている*24。よく考えると強キャラがぞくぞくと出てきて技くらべ術くらべをするというのは中国の古典小説の特徴で、日本の能力バトルものはそこに由来しているともいえそうだ*25

 最終決戦のロケーション。

 で、その最終決戦なのだけれど、この無人無音の都市というロケーションが特に素晴しい。もうこれは何が良いとかでなくセンスとしか言いようがない。

 映像とかレイアウトのセンスという点でいうと、もうこの「良いとしか言いようがない」カットばかりの作品である。全カットが良い。二度目に観たときに実は、おもしろいところを見つけるのではなくむしろつまらないカットがないかどうか気にしつつ見たのだが、無い。本当に全カットになんらかの見せ方の工夫があって、徹頭徹尾おもしろい*26。映画がうまい、アニメがうまい。例えばナタ様が「ザコ相手になにやってんだ」と言うカットのアングル、ナタ様というちっちゃいキャラを左下からアオリで描いて威圧感を出すあのギャップ、ナタ様というキャラの魅力をよくわかっている見せ方で、作り手のキャラクターへの愛が感じられる。あと大人同士で話しているときのシャオヘイの子どもらしい動きとか、戦闘シーンではあえて引きで撮って戦況をワンカットで理解させたりとか、何度も言うけど本当にアニメや映像のおもしろさ、キャラクターの魅力に満ちている。

 

 映画としてアニメとしておもしろいのはまあいいとして、ちょっと内容というか思想的なところも触れておきたい。好きなシーンもだいぶ挙げてきたけれど、実はいちばんぐっときたのは、ホテルでのシャオヘイとムゲンのやりとりである。ここで二人は善いひとや悪いひとについて話をする。ムゲンが「お前に善悪がわかるのか?」と問うとシャオヘイは「当たり前だ!」と答える。それに対してムゲンは「信じよう」と言う*27。先の子どもとかよつばと云々のくだりでも触れたが、ムゲンは子どもと接する大人として素敵である。この「信じよう」というセリフにムゲンの優しさを感じてぐっときてしまったのだ。私は子どもではないけれど、かつて子どもだった大人として、なんか嬉しくもなってしまった。また、こういったバトルものやヒーローものだと「正義とは何か? 善悪とは何か?」みたいな葛藤が入ってきたりして、本作でもフーシーがそれを体現しているのだが、それをものすごく素朴に処理していて、ああ、これでよかったのかと驚愕してしまった。それぐらいこの「当たり前だ」「信じよう」というやりとりは奥が深い。しかもフーシーが自害するときには、このやりとりと呼応するように「ほんとは悪いひとだったの?」「答えはお前のなかにあるだろう」という会話が出てくる。で、またぐっときてしまう。

 

 あと少し蛇足かもしれぬが、政治とか社会問題的なことについても触れておきたい*28。何故なら、この羅小黒戦記の世界観とか物語をものすごく単純に図式化すると、ものすごくフーシーらがかわいそうに見えるからで、その解釈がいろいろ問題を引き起こしそうだからである。というかフーシーたちは実際かわいそうである。住む場所を追われたから抵抗しようというのに、同族の妖精のうちけっこう強いほうの奴らが人間とうまくやっていて阻まれるのだから。

 このあたりの事情は以下の記事に素晴しい解説と考察がある。書いているのは中国語や中国の文化事情にも精通している方らしい*29

cutmr.blog.fc2.com

 現実世界でも共生とか共存とか均衡というのはまあ難しいものである。羅小黒戦記はこの世界の複雑さをけっこうちゃんと作品世界に持ち込んでいて、やはり私は誠実さを感じる。作品を図式的に見たとき、キャラクターの対立の構図は見方によって変る。私はこれは見方の深さによると思う。なので三層に分けてみる。一層目の見方は「これは完全懲悪の物語だ」というものである。ここで解釈を止めてしまうとこの作品は単純なヒーローものとなる。しかしよく見るとフーシーにも道理があるとわかる。これが二層目の見方である。こうなってくるとフーシーたちは虐げられる反体制派マイノリティということになってめちゃくちゃかわいそうである。しかしもっとよく見るともっと複雑な話に思えてくる。そもそもフーシーたちがかわいそうというのは見ていれば十二分に伝わってくることで「よく考えればかわいそう」というわけではない。そういう面はこの作品のいろいろな要素の、当たり前に存在する一つでしかないとも言える。そもそも別にフーシーのことを悪と認識している妖精は執行人にもいない。「ちょっと過激なやつ」くらいで、だから対応が遅れたのである。またシャオヘイに価値観を押し付ける執行人もおらず、むしろそれをしてしまったのはフーシーである。私としては、人間や妖精館といった体制側とフーシーらレジスタンスの対立のお話というよりは、故郷とか共生に対してドライな者と熱い者の戦いという見方もできると思う。この人間や妖精の猛者たちのドライな感じというのは日本にはない感覚かな、とも思っている。というか最近の日本のヒット作はウェットなセリフや演出が多すぎるなと、羅小黒戦記から学ばせていただいた。

 というようなことを特にセリフで説明するでもなく「言わなくてもわかるでしょ」といわんばかりなのがクールで、これも羅小黒戦記の良いところである。答えは我々のなかにあるのだ。この三層目に到達できずに批判する人*30はたくさんいるはずで、でもあえてそこをくどくど説明しないのが良いのである。

 また、映画の評価としてはどうかと思うが、ムゲンに捕らえられたネパという妖精はweb版で出てきていて、しかも食人族であるという重要な設定がある。web版では劇場版とは別の館が出てくるが、そこの館長曰く、悪人だけを食べるなら食人も黙認、という感じなのだ。やはりこのドライな感じがおもしろく、また「共生」というものの難しさや深みが感じられる。「寄生獣」みたいな。ネパはweb版でもまだ少ししか出てきていないので、今後どうなっていくのか注目である。またスピンオフ漫画の「藍渓鎮*31(ランケイチン)」は400年前の話で、人間と妖精の関係がもっと壮大な視野で見てとれて、この歴史的な観点も羅小黒戦記の世界観を読み解く鍵であると思う。*32

 

 最後に、映画を越えたコンテンツとしての羅小黒戦記もすごいという話をしておきたい。シナリオが良いというところで情報量のことに触れたが、実は映画を見ただけではわからないことがけっこう多い。私は映画というのはちょっとわからないくらいがおもしろいとおもっているので、一本の映画としてこれで良い*33。しかしそれ以外のコンテンツ展開も天才的で、私はまんまと沼にハマってしまっている。シャオヘイの二十四節気の公園のやつとか、web版のニュース映像の公園のやつとか、ああいう劇場版を補完する仕掛けもうまい。

 マンガ版も、その他グッズ展開なんかもMTJJ監督やアニメスタジオがイニシアチブを握っているらしく、これは本当に凄いことである。この点はいずれ日本との比較記事で書きたい。

 MTJJ氏はアニメ監督としての天才であるだけでなく、マネジメントとか自作のプロデュースにも非凡なものがある。であるが、金のために要求を呑んだりせず、あくまで実直にアニメを作る人であるらしい。しかもインタビュー*34で「何故3Dが主流なのに手書き2Dで作るのですか?」という問いに「好きだからですかね」と答えていて、私は痺れてしまった。好きだからだ! それで悪いか! MTJJさん、私も手描き2Dアニメ大好きです!

 私は、近年の日本のアニメは産業として大きくなってはいても質は伴っていないかな、と思う部分もあって、どうしたもんかいとなっていたところに羅小黒戦記が現れ、もう一度アニメの原初のおもしろさを思い出させてもらったと感じている。なので「おもしろいものを見たなあ」というのと同時に「ありがとう」という感謝の気持ちさえ湧いてくる。そんなアニメでした。

*1:当初はこんなに日本でヒットするとは思っていなかったようで、字幕が何通りもあってファンは混乱している!

*2:アフター6ジャンクションのインタビューでMTJJ監督が予算のことを言ってましたわ。

*3:ただしこれらはアニメーターよりもコンテマンやレイアウトマンの功績であることも多いかもしれません。

*4:とか書くと作画ガチ勢の人は怒るかもしれませんが…

*5:中国語に疎いので、キャラクターの名前は日本語吹き替え版に準拠したカタカナで書きます。中国語も勉強したいですね。

*6:背景をアニメーターが作画で描く手法。

*7:いろいろ調べてるとそんな感じらしい。

*8:インタビューでMTJJ監督は「論理的な戦闘」と言っておられたけれど、まさしくそんな感じでした。

*9:「かっこいい」という意味ではなく、ヤバイ意味です。

*10:誰しも一度は見たことのある文具とか漢字ドリルのやつです。

*11:「作画」ではなく「絵」の話ですよ。

*12:拙者には女性オタクの心情はわかりませんが…

*13:たぶん。憶測です。

*14:らしい。中国文化に疎いのでまったく知りませんでした。

*15:よつばと」は青年誌に掲載されているが、Eテレで子ども向けにダンボーのスピンオフアニメをやっていたりして、これこそターゲットがよくわからない作品であるなあ。私は大好きだけれども。そういえば「クレヨンしんちゃん」もごりごりの大人向けマンガだったはずがアニメはどんどん良質な子ども向け作品としての地位を確立していったなあ(PTAに批判された時期もありましたが)。

*16:ネコだけに。このあたりの教育観はムゲンの過去が関わっているのかもしれないが、まだよくわからない。

*17:二人の旅がけっこう長めに描かれているのもなかなかよくて、weiboやTwitterで発表している「シャオヘイの二十四節気」という1ページマンガの2020年版は劇場版のあとの二人の旅の様子を描いていてこれもとても良い。

*18:たぶん見つかったら怒られるやつ。

*19:「素敵な」とか書くと皮肉みたいに見えますけど、皮肉じゃないでっせ。

*20:というかシャオヘイ「が」似ているというべきか。

*21:大ヒットしてるからいつまでもやっとるだろ、と後回しにしていたら緊急事態宣言が発令されて動きにくくなってしまったのです。

*22:大爽という、作画監督の人をモデルにしたキャラで、妖精でなく人間らしい。

*23:ジャイアントロボ 地球が静止する日」は、OVAの傑作である。しかしOVAというジャンルの衰退とともに忘れられつつある。語り継いでいかねば。

*24:赤影やバビルⅡ世も出てくる。

*25:山田風太郎白土三平の影響とか「西遊記」や「封神演技」をもとにしたマンガがあったりとか、いろいろ歴史はありそう。

*26:二度目はそういう邪な目で見ていたのに最後は涙で前が見えませんでした。

*27:確かこんな感じのやりとりだったはず。

*28:なぜ蛇足かもしれぬのかというと、私はこういう話題に滅法弱いので。

*29:ネット倫理がよくわからぬのですが、勝手にリンクを埋め込んだりしてもよいものなのでしょうか。

*30:それはもちろんひとつの見方だからそれでいいし、そういう見方をされてしまうとしたらそれは作品の力不足でもあるのでしょう。私はそういう見方はとらないのでそうは思わないけれども。

*31:字が合ってるか自信ない。

*32:というようなことを書いてきたのは、実は「羅小黒戦記は中共プロパガンダ映画ではないか」みたいな意見をけっこう見たからである。そういう論考は嫌中の人によるただのネガキャンかもしれず、言及したら負けなのかもしれないが、まあいろいろ考えちゃったんだからしょうがない。で、プロパガンダという観点について二、三つけくわえる。

 まず、プロパガンダ映画にも名作は多い。たとえばセルゲイ・エイゼンシテイン監督の「戦艦ポチョムキン」なんて映画史上最高傑作の一つだし、個人的にはレフ・クレショフ監督「ボリシェヴィキの国におけるウェスト氏の異常な冒険」も好きである。エイゼンシテインもクレショフもいわゆる「モンタージュ理論」を提唱し作品で実践したという点で映画学的に重要な人物であるが、まあそれを差し引いてもこれらの作品はおもしろい。で、どちらもものすごく単純な図式の話で、要するに共産主義と革命を賛美して資本主義と西側を戯画化した映画である。いまからするとまだ映画の歴史の初期のことだから、映画という珍しい表現は有効だったのかもしれないが、さすがにこんなに単純な話がプロパガンダになったのか微妙であると私は思っている。これを見て「わ〜共産主義って素晴しい!」となるだろうか。というかエイゼンシテインやクレショフがどこまでプロパガンダに本気だったのか疑問だ。

 やや抽象的なフィクション論というか分析美学というか藝術哲学的な持論を述べておくと、鑑賞には一階の見方、二階の見方、三階の見方、、、というような階層があると思っている。階(order)というのは論理学用語にもあるが、これを応用した概念が心の哲学なんかでも使われる(「二階の欲求」とか)。つまり、単純に作品を見ると単純に楽しめる、これが一階の見方。しかし「これは単純に楽しめる作品だ」という見方をするとこれは二階になる。で、「これは「これは単純に楽しめる作品だ」という見方ができる作品だ」という見方は三階である。この考え方は本編の三層理論と完全にではないが対応している。プロパガンダ映画というのは n 階の見方しかできない人に対して n + 1 階の立場からなんらかの思想を刷り込むものではないかと思っていて、羅小黒戦記の場合は一階の見方しかできないとプロパガンダとして機能してしまうだろうが、二層目と二階目の見方が許容されているということは、プロパガンダだと指摘できる余地があるということで、ということはプロパガンダとして失敗していることにもなる。という見方を提供するのが三階目と三層目である。

 プロパガンダなどに騙されるほど観客はバカではないと作り手が思っていて、作り手は観客をバカだと思っていないと観客がわかっていて、というようになるまでアニメ文化が発展してくれるとなお良いなあ。

 ポチョムキンは映画史上の傑作だが、描かれている思想が素晴しいからという理由で評価する人なんていないだろう。思想と藝術・エンタメというのは分けるべきということもないが、分けてしまえる場合も多い。特に古い作品や異なる文化圏の作品は、何かまずい点があったら批判すると同時に、時代や文化の違いを理解して寛容になることが知的な鑑賞態度だろうというふうにも思うのである。

*33:何故わからないくらいが良いのかというと、現実世界もわからないことだらけだからなのだと思います。わからないくらいの描写のほうがリアリティがあるのです。

*34:アフター6ジャンクションの。